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2005.12/10 [Sat]
『あらしのよるに』私見
『あらしのよるに』(偕成社)ほかを授業で読み、学生に紹介した。一時、アマゾンのトップページに映画の宣伝がされていたり、テレビでも大きく取り扱われていたからだ。やはり、原作を先に知っておいて欲しいと思ったのである。
「映像メディア」と「活字メディア」を同じように比較することはナンセンスだと思うが、しかし、その違ったメディアを受けとるのは私たちにほかならない。映像であれ活字であれ、受けとめる側は、自分の五感を使って作品と向きあうのである。発信方法は異なっていても、受信機は一つということである。
この作品、確かにおもしろい。しかし、何回か声に出して読むと、どうしてもひっかかる部分がある。「読者の気を持たせようとするわざとらしい物語作り」「大げさな感情表現(とくに、笑い声、擬音など)」が気になった。確かに、物語をひっぱってゆく原動力となっているものが、「ありえない友情」であるから、そのシチュエーションにリアリティを持たせるためには、二人が関係を築いてゆく過程はとても重要であろう。けれども実際の物語の流れは、その「過程」を追うのではなく、「いつお互いの正体がばれるのか」という視点で、読者をひっぱっている。だから、嵐がやみ小屋の前で再会を約束して終わった第一巻に続き、そのあとどうなったのだろうと第二巻『あるはれたひに』に手をのばす読者は、肩すかしを食らってしまうのである。
『あるはれたひに』は、再会を果たした二人(匹)が、お互いの正体を知り、認めてからの展開となる。「おひるごはんといっしょに、おひるごはんをたべる」という、おおかみのきわどいジョークをも受けいれられるのだというところから出発するのは、いささか「ずるく」はないだろうか? ガブ(この時点では、まだ名前がない)の「なによりもゆうじょうをたいせつにする」という言葉にも、その裏づけとなる、プロセスがないのだ。「おひるごはん」と再会の約束をしたおおかみがその場に立ったとき、何を感じて、何を考えたのか? そしてその葛藤をとりあえず、どう乗りこえたのだろうか? 説得力を持ってそこを語るためには、『あらしのよるに』における小屋での二人の関係が、さまざまな点での類似性だけでなく、もっと本質的なものでなくてはいけなかったのではないだろうか?
ライトなシチュエーションのなかに、かなりシビアな関係を持った物語が展開されること。つまり、シチュエーションが要求するライトな会話で、シビアな関係を(読者に)読ませることに違和感を持った。こういった設定も「あり」だとは思うが、私にとって、この作品は「不合格」である。
しかし、最初にこの物語を読んだときには、おもしろがり、楽しんだことも事実である。
「映像メディア」と「活字メディア」を同じように比較することはナンセンスだと思うが、しかし、その違ったメディアを受けとるのは私たちにほかならない。映像であれ活字であれ、受けとめる側は、自分の五感を使って作品と向きあうのである。発信方法は異なっていても、受信機は一つということである。
この作品、確かにおもしろい。しかし、何回か声に出して読むと、どうしてもひっかかる部分がある。「読者の気を持たせようとするわざとらしい物語作り」「大げさな感情表現(とくに、笑い声、擬音など)」が気になった。確かに、物語をひっぱってゆく原動力となっているものが、「ありえない友情」であるから、そのシチュエーションにリアリティを持たせるためには、二人が関係を築いてゆく過程はとても重要であろう。けれども実際の物語の流れは、その「過程」を追うのではなく、「いつお互いの正体がばれるのか」という視点で、読者をひっぱっている。だから、嵐がやみ小屋の前で再会を約束して終わった第一巻に続き、そのあとどうなったのだろうと第二巻『あるはれたひに』に手をのばす読者は、肩すかしを食らってしまうのである。
『あるはれたひに』は、再会を果たした二人(匹)が、お互いの正体を知り、認めてからの展開となる。「おひるごはんといっしょに、おひるごはんをたべる」という、おおかみのきわどいジョークをも受けいれられるのだというところから出発するのは、いささか「ずるく」はないだろうか? ガブ(この時点では、まだ名前がない)の「なによりもゆうじょうをたいせつにする」という言葉にも、その裏づけとなる、プロセスがないのだ。「おひるごはん」と再会の約束をしたおおかみがその場に立ったとき、何を感じて、何を考えたのか? そしてその葛藤をとりあえず、どう乗りこえたのだろうか? 説得力を持ってそこを語るためには、『あらしのよるに』における小屋での二人の関係が、さまざまな点での類似性だけでなく、もっと本質的なものでなくてはいけなかったのではないだろうか?
ライトなシチュエーションのなかに、かなりシビアな関係を持った物語が展開されること。つまり、シチュエーションが要求するライトな会話で、シビアな関係を(読者に)読ませることに違和感を持った。こういった設定も「あり」だとは思うが、私にとって、この作品は「不合格」である。
しかし、最初にこの物語を読んだときには、おもしろがり、楽しんだことも事実である。
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あらしのよるに
『あらしのよるに』の私見、興味深く読ませていただきました。わしこさまの感想を伺い、実はホッとしました。わたしも同様に感じていたからです。涙がでるほど感動するお話ということで読んでみて、正直がっかり。あまりいい作品ではないと思いましたが、まわりがあまりにも絶賛するので、口に出せずにいました。(よって、書評投稿サイトでも、この作品の投稿はパス。)理由は、意図的な演出と会話の荒さ、雑なイラスト(これがスタイルなのでしょうが……)でした。1番気になったのは、会話です。こういう日本語、子どもに聞かせたくないな、と。なぜなら、子どもたちは日常メディアを通して十分このような言葉を耳にしているでしょうから。息子は「次はどうなるの?」と続きを気にしていましたが、それも表面だけのエンターテイメントだと思いました。うちでは1巻を読んでそれでおしまい。続きはまったく読んでいません。
この感想は、同じ著者の『きむら式、童話のつくり方』を読んで裏付けられたと思いました。「童話作家ほどオイシイ商売はナイ」の一言に心のあり方、子どもの本に対する姿勢が表れています。子どもにかかわる分野では、「心」抜きでは成り立ちませんよね。根幹に「心」がないので、『あらしのよるに』からもハートが伝わってこなかったのだと納得できました。この新書、最後まで読めませんでした。子どもの本って、こういうものじゃない!という憤りとともにページを閉じました。