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金子みすゞ

春学期15回の授業もようやく終わりを迎えつつある。「英米児童文学」最後の授業は、学生のパフォーマンスと課題の提出である。それに先だって、「文字を声にするワークショップ」と絡めて「詩」についての授業をした。まえもって、「わたしの好きな詩」を書き、その理由を説明するリスポンス・シート(学生はリアペと呼んでいる。リアクション・ペーパーのこと)を出してもらっていた。驚いたのが、三割近くの学生が「金子みすゞ」の詩を挙げていたことだ。曰く「小学校の時に授業で扱って感動した」ということである。彼らは小学生以来感動する詩には全く出会わなかったのか? あるいは、小学校以来詩を読んでこなかったのか? と思わせるような出来事であった。

教育出版の『ひろがる言葉:小学国語5下』には、矢崎節夫氏による「みすゞさがしの旅:みんなちがって、みんないい」が教材として収録され、「大漁」と「わたしと小鳥すずと」の二編が紹介されているが、ほかの教科書でも何らかの形で扱われているに違いない。

「みんなちがって、みんないい」とは、「わたしと小鳥とすずと」の最後の連に置かれた言葉である。私にはどうもこの言葉だけが一人歩きしているように感じられて仕方がない。画一的で没個性的な教育への批判を受けて、個性重視的な教育方針にハンドルを切り替えたことのひとつの象徴的な教材選択だったのだろうか? それにしても、欺瞞的なにおいがしないでもないが。

しかし、この詩は本当に「一人一人がちがうからこそ大切で、すてきなのだと」(矢崎節夫の文章から)言っているのだろうか? 私はそうは思えない。ここにはみすゞの悲しいまでの孤独感が見える。それは、比べるもの同志が異質であるからそう感じるのだと思う。「すずと、小鳥とそれからわたし」という言質には、人間の他者を受け容れないという閉ざされた心性がある。それは絵本『みんなちがう、でもみんなおなじ』と読み比べてみるといっそう際立つのだと思うが、「わたし」であって「わたしたち」ではないのだ。「わたし」に共感してくれる「あなた」という同質他者は存在していない。「みんな」のなかに「すず」と「小鳥」は含まれるが「あなた」はいない。そこに圧倒的一人を感じるのである。

みすゞを否定するわけではないが、いくつかの詩を読んでいると、気づいたことがある。もともと、「童謡」を意識しているため、音数を揃えることが大切だったのだろう、「お空」「お星」といった「お付き言葉」が使われていることである。こうなると、詩は一気に幼児性を帯びてしまう。歌で唄うならばあまり気にならない「お付き言葉」(「お星さまキラキラ、金銀すなご」は素直に唄える)も、読んだり、声に出したりするとまた別の感覚が生まれる。また、教えている教師はこの詩をどう読み、何を教えているのかも疑問に思った。

子ども時代の「教育」を素直に信じて、批評精神をなくして欲しくないと痛切に感じる出来事であった。ところで、「私の好きな詩」には、もちろん英文科の学生らしくシェイクスピアのソネットを挙げていた学生も複数いたことを追記しておく。

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