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気になる『辺境のオオカミ』の日本語

昨年9月より、<サトクリフ読書会>で読み始めた The Frontier Wolf を昨日ようやく読みおえた。これで、気になっていた箇所や不明の箇所を、日本語訳と対照して確認することできる。ということで、とりあえず、まだ印象が強く残っている最終章の日本語訳をブラウシングしたのだが、猪熊葉子先生の訳文にはかなりの違和感をもった。

じつは、日本語訳に関する芳しくない評判は知っていたのだが、じっさいに読んでみると、猪熊先生どうしましたか? という感じである。ネット上では、「原文でも、状況がとんでいたり、説明的な部分は省いてあったりするんでしょうけど、そのままだと日本の読者には物語の流れがわかりにくくなっちゃう」「こんな読みにくい本はたぶん初めてだと思う」「原書で読んだ人は、原書の方がおもしろかったと言っていた」などという意見がアップされている(引用はすべて「子どもの本に言いたい放題」から。)

日本語訳では、①訳者の解釈が必要な文が直訳調になっていて、わかりにくい箇所 ②物語状況の把握が正確でないために生じる不明瞭な日本語 ③明らかな誤訳と思われる箇所などが散見された。また、こなれた日本語とぎごちない直訳調の日本語が混在するために、読んでいて不自然で、不安定な感覚が生じるのも気になった。訳者が状況をはっきり認識しているときの日本語は読みやすいのに、そうでない箇所では、「?」がたくさんついてしまう。

最終章の第一文は「アレクシオスがすべてを知ったのは次の日の夕方だった(岩波少年文庫版、p351)」と始まるが、これがわかりにくい。前章の最後では、左腕にひどい怪我をしたアレクシオスが、ようやくたどり着いたオナム砦で意識不明に陥ってしまう。それを受けての上記の文である。ちなみに原文は、54語からなる長い文章である。件の日本語は、最初の1フレーズである "The next time Alexios knew anything at all clearly again, it was another evening " を訳したものである。「すべてを知った」というのは前後関係からして明瞭さを欠いている。おそらくここは、アレクシオスが再び意識を取りもどした、ということが書かれていると読むべきであろうが、英文そのものも必ずしも明晰ではない。「次にアレクシオスがはっきりと何かを意識したのは、別の日の夕方であった」というほどの意味ではないかと読める。また、アレクシオスが覚醒したのは「次の日」ではない。

アレクシオスは一週間以上人事不省に陥っていたのであるが、彼が無意識から目ざめたとき、さまざまなことを思い出す。その現実感を伴わない記憶やそれを思いだすぼんやりした様子を、サトクリフは「雲に浮かんでいたようようだ」「雲のはるかむこうの出来事」いう比喩をつかって表現している。比喩は読者がそれとわからなければ意味はないし、とくに子どもの文学では注意が必要だと思われる。その点でも、「雲がやってくる前に起こったことをアレクシオスは思い出し始めた(p352)」と直訳してしまうのは如何なものかと思う。ここでの「雲」は、意識不明の空白のことを示唆しているのではないだろうか。

また、先祖から受け継がれたアレクシオスの指輪についても気になる表現がある。「傷のある古いエメラルドの指輪は指にはまっていたが、ゆるゆるだった。注意しないと、なくしてしまうだろう。とにかくそれははめるべき指にはまっていなかった。だれかがそれを彼のためにはめなおしたのだろう」(p353)

なぜ、「指」としたのだろうか? アレクシオスはおそらく左手に指輪をしていたのであろう。しかし、左腕に大怪我を負ったアレクシオスの治療のためには、それは不都合なので、誰かが右手にはめ直したのではないかと推測される。原文でも "on the wrong hand" とあるのだ。また、エメラルドの指輪には確かに傷はあったが、ここでは "its flamed emerald" とあり、指輪は輝いている。

病床でアレクシオスは指輪をはめた手をかざして動かしている。「指輪の石に日光があたった。そしてその石の奥に小さな緑の火花が散り、そして消えるとまた目覚めた(p353)」。いったい何が「目覚めた」のだろう。もちろん、エメラルドの「緑の火花」が消えたり「目覚め」たりしたのである。しかし、「火花が目覚める」という表現は適切であろうか?

最初の数ページでこんなに気になるところが出てきてしまった。もちろん、さすがと感服した「こなれた日本語」もある。しかし、どちらかというと、文脈から外れていて理解できない表現が多く、文意を伝えきれていないのではないかというのが最終章を読んだ印象である。だから、「三人寄れば文殊の知恵」の読書会でも未解決だった疑問は残念ながら解決できていない。

開き直るわけではないが、翻訳には誤訳がつきものといってよい。また、翻訳者が作品世界に入りこんでしまっていて、客観的に自分の作品(訳文)を批評することが難しい場合もあるだろう。だからこそ、丁寧に正確に厳しく物語を読んで、言いにくい意見も率直にいえる編集者の存在が不可欠なのだ。最初の読者である編集者の責任は重い。この作品の場合はどのようなプロセスを経たのだろう。

サトクリフは必ずしも読みやすい作品を書いてはいない。石を積みあげて強固な建物をつくっていくようなサトクリフの緻密な英語には本国でも読者離れがおこっているときく。しかし、一方では「フェニックス賞(出版後20年後たった作品に与えられる賞)」を2作品で受賞している作家であり、永続的な価値を持っている作品を書いている作家として評価されてもいる。彼女の作品をすべての子どもたちが読むべきであるとは考えないが、確実に読みつがれてゆく作家であり、読みついでゆかなければならない。そういう作家の作品はどんなことがあっても守るべきであると考える。そして「守る」事の意味を考えたい。


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