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「花咲き山」に思うこと

ボイス・トレーニングのセミナーを受けた夜、興に乗って「花咲き山」を声に出して読んだ。この作品を初めて知ったのは高校生の頃だった。当時、とても感動して、その言葉をハンカチに刺繍して、卒業記念としてあこがれの人にあげようと思ったくらいだった。刺繍そのものは途中で挫折して、その人にハンカチをさしあげることはなかった。

その後、まだアマチュア時代に、清水眞砂子さんの「『花咲き山』は子どもの文学としてむごい」というような趣旨の発言を聞いて、「やさしさ」で人を縛ることのまなざしとそこに存在する欺瞞を意識するようになった。そして、いま、ほんとうに長い時を経て、「花咲き山」を声に出して読んだ。なんと私は不覚にも涙を流してしまった。以来「涙」の理由を考えている。

読みはじめた時から私は山姥に感情移入していた。山姥の視線から、あやに語りかけ、あやを見つめていたと思う。あやの健気さ(といっていいかどうか、もっとふさわしい言葉があるようにも思う。この言葉を嫌悪する人もいるだろう。また、健気さを意識的に称揚することはあやういというのも承知している)が迫ってきたのである。

読みながら、私にも同じような経験があったことを思いだしていた。もちろん、私の場合は弟妹のことを思いやってのことではなかったが、3ヶ月も待った人形を、「さあ買ってあげる」と母に連れられていったデパートで「いらない」と言ったのだ。いや、いらないと拒否したのではなく、本当に欲しかった人形をあきらめて(この言葉は正確ではないかもしれない)、それより安い人形を買ってもらった(ように記憶している)。「本当にいいの?」と何回も問いかける母の言葉がいまも耳に残っている。多分、小学校の1年か、せいぜい2年生の頃だったろう。

日頃、泣き虫でわがままな(だといわれていた)私が決して豊かではなかった家庭の事情を慮ってのことだったのだろうか。一人っ子のアダチタカコちゃんが羨ましかった。長女だからとことさら我慢を強いられているという被害者意識もあったのかもしれない。そんな私が「いらない」と言ったので、母はびっくりもし、辛かったろうと、いまになって解る。しかし、記憶はそこで途切れている。本当に安い人形を買ってもらって家に帰ったのか、その人形すら買わなかったのか。あの時のわしこちゃんを思うといまでも切ない。

そんないろいろな思いが綯い交ぜになった私の涙だったのだろう。いまの私だったら「花咲き山」を受け容れることができるかもしれない。私の「花咲き山」は、「やさしさが花を咲かせる」ことを伝えるよりも、あやの存在そのものをつつみこむ物語だ。これは、声に出して読んだからこそ生まれた解釈であると思う。「やさしさ」などとことさら言わなくても、小さい人だっておとなと同じように、ことを直感し判断することがあるのだ。「健気」という言葉で括ってしまわないで(この言葉は明らかに相手を見下している臭いがある)、その人まるごとを自分の中に引きよせ、対峙しみつめてみよう。そこから、また新たな「読み」の可能性が生まれてくるのではないかと感じている。

ところで、「あこがれの人」とは英語の先生でした。生徒から刺繍入りのハンカチなんかもらったらさぞ迷惑だったろうに。さしあげなくてよかった。恥。斉藤隆介繋がりで、『ちょうちん屋のままっ子』も再読。何年ぶりだろう。文句なしに面白かった。私は好きだな。「八郎」や「三コ」のヒロイズムもこれから検証してみたい。

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