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五味太郎。『みんながおしえてくれました』。(Ⅱ)

学校は「生きてゆくための本質的なこと」は教えず、「いろいろこまかいこと」しか教えない存在なのかという議論はともかく、五味にとっては「学校はそういう存在だった」ということであろう。これは、彼の様々な著作から了解できることである。「五味は学校を呪詛している」というのは私が敬愛するS氏の言葉であるが、この絵本は、「学校を呪詛すること」をエネルギーの源泉として作られている絵本でもある、と言っても言い過ぎではないだろう。

どうやら『みんながおしえてくれました』(1979)、『大人問題』(1996)、『むかしのこども』(1997)は同じライン上にあったのね。今振り返ってわかったことなんだけれどさ。思想とまでは言えないけれど、なにかもう揺るぎない理想論みたいなものがぼくのなかにあるみたいだね。(中略)『みんながおしえてくれました』はぼくの絵本作業のなかで初めて発言するという気持ちで書いた絵本なんだと思うな。そのころはあまり意識してはいなかったけれどさ。(中略)そして遅ればせながらぼくの中に世の中一般の「子どもの本」という存在のあいまいさや、教育システムの不合理みたいなものをあらためて考えてみる気がでてきたような気がするな。(中略)いま『みんながおしえてくれました』をあらためて読んでみると、うん、充分に描けているじゃないか、と思う。(『絵本をつくる』、ブロンズ新社。2005年。p73~p74)

『みんながおしえてくれました』は、初版が1979年(1983年初版となっているものもある)で、79年には『さる るるる』『ことばのあいうえお』をはじめとして、全部で20点の絵本が出版されている。これ以後、出版点数は爆発的に増えている。五味太郎の絵本作家としての出発点が、1973年の『みち』(福音館書店/絶版)であり、1978年までの彼の作品の出版点数がすべてあわせて17点であることを考慮すると、この『みんながおしえてくれました』は、五味太郎のキャリアの中のごく初期(の最後)に描かれたものであると判断できる。さらに、上記のように、ずいぶん後になって彼自身が「充分に描けている」と評価しているが、同じようなテーマを持つ『正しい暮らし方読本』(福音館書店/1993年)と比べると、アプローチの手法やユーモアの使い方に関して洗練度に違いがあると感じるのは私だけであろうか。

また、彼の根底にあると思われる「じょうぶな頭とかしこい体(言われたことの意味をたしかめ、決められたことの内容を考え、必要があれば問題をとき、自分のために楽しい仕事をさがし出し、やるときはやるし、さぼりたいときはすぐさぼる)」というテーゼは、残念ながら現行の学校教育の中では実現し得ない。とすると、この作品を「学校へいって先生から学び、なにより友達がたくさんいるのが一番ですね(「絵本ナビ:みんなのこえ」から)と読んでしまうのは、大いなる誤読であると言わざるを得ない。

最終場面の「なにしろ/ともだちがたくさん/おりますから/どうみても/りっぱなひとになるわけです」では、主人公の女の子は隣の子に髪の毛をひっぱられているし、友だちは、てんでに好きなことをやっている。この絵に、「どうみてもりっぱなひとになる」というテクストかぶさると、「りっぱなひと」という言葉が浮遊してゆく。その言葉と絵との遊離は、「りっぱなひと」という概念を無化し、無意味化してしまうだろう。だから、少なからずの受講生が混乱し、「よく解らなかった」と感じ、「何とか書評をひねりあげた」という感想がでてきたのだと推測できる。しかし、それが五味の狙いだったのではないのだろうか。

「絵本ナビ:みんなのこえ」には「最終ページにいくにつれてだんだん内容の意味がわからなくなってきます。読み終えても『一体この絵本は何が言いたいんだろう??』と未だに疑問です」という声もあったが、「★★は☆☆におしえてもらいました」というくり返しに、心地よく揺さぶられながら、その揺さぶりに身を任せて後半部分を読んでゆくと、心と身体が頭から分離してゆく違和感がある。それが、「??」の理由ではないか。違和感に敏感でない読み手は、力技で「学校へいって先生から学び、なにより友達がたくさんいるのが一番ですね」「ともに教えあうことのすばらしさがあります」と読んでしまうのかもしれない。

もちろん読者には「誤読の権利」がある。誰がどう読もうと批判されるべきではない。しかし、それが許されるのは、「素人の読者」であるという限定括弧付きである。教師や図書館員をはじめとする子どもの読書に関わる人は、自分を鍛えて、できうる限り誤読を避けるべきだというのが私の持論である。それが、子どもに対する責任なのだ。

ある受講生から「家族の不在に不気味さを感じた」という意見が出されたが、誤読を承知で、家族を描かなかった五味の意図を探りつつ、この意見に対して私自身の読みを展開するとするならば、私はこう考えたい。この作品は、子どもの周りにいて、子どもを支えるおとなは、ある時には「歩き方を教えるネコ」になり、ある時には「おなかの冷えない昼寝の仕方を教えるワニ」なり、また、ある時には「土の上の出来事や土の中の秘密を教えるアリ」にならなければいけないと伝えているのではないかと。したがって、実は、この作品は、前半では理想のおとな像を語っていると読んでみたい。いささか、強引かもしれないが、いかがであろうか。

絵本であろうと物語であろうと、おとなの小説であろうと、やはり、文学批評はおしなべて、理性的に論理的に読者を新しい「読みのステージ」に導くものであるべきだ。そのために、その場にいるものは、自分を鍛えるしかないのである。


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