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『小公女』における階級

新井潤美さんの『不機嫌なメアリー・ポピンズ』(平凡社新書)に触発されて、イギリスの階級についてさまざまなことを考えたり、思い出したりした。私がイギリスの「階級」を意識するようになったのは、たぶん、バーネットの『小公女』である。最初に読んだのは、小学校高学年のころだ。小学校の5年、6年の担任教師が、「作文教育」や「文学教育」に熱心で、そのころ出始めていた、<ナルニア国>シリーズなどをむさぼるように読んだ覚えがある。『小公女』はその中の一冊だったと思う。リンドグレーンも大好きだったが、<ナルニア国>シリーズに較べて活字が大きく、「高学年になって、こんな字の大きい本を読んでいいのだろうか」という、遠慮のようなものを感じていたことも思い出した。(大きな字の本を)読んでいるのを見られたら、恥ずかし、とも思っていた。

ところで、『小公女』。かなり好きだったし、何回も読んだ。が、一つだけどうしても気になることがあった。「ベッキー」の存在である。ミンチン女子寄宿学校に、鳴り物入りで入学してくるセアラ・クルーは、フランス人の小間使いを連れ、一人だけ特別な部屋をあてがわれ、ミンチン女子寄宿学校の看板生徒(特別寄宿生)としての扱いを受ける。

ところが、父のクルー大尉が事業に失敗し、亡くなってしまう。そのため、セアラは、屋根裏部屋に追いやられ、学校の小間使いとして働くことになった。その時点で、セアラは、一時的ではあるがベッキーと同じ階級に属することになったのである。にもかかわらず、ベッキーが「お嬢さま」とセアラを呼ぶことに、「へーぇ」という微妙な違和を感じていたが、さらに、気になったのは、亡くなった父と事業をともにしていたカリスォード氏に見いだされ、養女になったセアラが、ベッキーを「侍女」として、つまり自分のための召使いとして連れてゆくエピソードである。

小学校校のころの私は、このベッキーの扱いに対して、とてもびっくりし残念にも思ったのだ。ベッキーがカリスフォード氏の養女になれないことに、違和感を持ち、なぜという疑問を感じたのである。カリスフォード氏は大金持ちのくせに「ケチ」なのかしら、などと思ったり、私だったらベッキーも一緒に養女にするだろうなと、心のなかで、作品に対して異議申し立てをしていた。これは、子ども時代のイノセンスとナイーヴさに支えられた読みであったと思う。長じて、「イギリスの階級」についての知識を得ると、このことについては、「あー、そうだったのか」と納得したのであるが。

しかし、1995年制作(アメリカ映画)のアルファンソ・クアロン監督の『リトル・プリンセス』の最後では、セアラとベッキー(黒人)の関係は曖昧に描かれている。二人の階級的な違いは、少なくとも私には、服装からは区別できない(同じ素材でデザイン違いの服だと思っていたのだが、確かめたらそれはわたしの記憶違いであった)。

最初、この映画を見たときには、また別の意味でびっくりしたものである。なるほど、ベッキーを黒人の少女にし(PC)、原作にあった階級を曖昧にすることは、この監督の意図であり、『小公女』の現代的解釈である、と。この映画は、そのほかの点でも、「これが『小公女』?」と思わせるような仕掛けや演出に満ちている。

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