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レポートを評価すること

あるきっけがあって、「レポートを評価すること」について考えている。人間が人間の何かを評価することは、たとえそれが、試験のレポートというものであっても、大変困難なことであり、細心の注意を払わなくてはいけない。また、その評価が、「優」や「A」というよい評価であれば、こちらも気分がよい。「よくがんばったね」「おもしろかったよ」「あなたの考察は論理的で独創的だ」などと独りごちながら、「ありがとう!」の思いで評価をする。

しかし、「不合格」をつけるときには、いろいろ悩んで、どこかで救済ができないのかと悪戦苦闘するのであるが、「不合格」には「不合格」のれっきとした理由がある。まず、明らかにおざなりで「高をくくっている」レポートだ。読んでいて不愉快になってくるレポートもこの手のものが多い。また、「自分の問題意識を言語化して、それに対して、さまざまな観点から考察し意味づけをする」というのが一般的なレポート作成のプロセスであろうが、最初の出発点が曖昧だと、それは最後まで曖昧なレポートになってしまう。テーマを広く設定しすぎると、大海で溺れることにもなりかねない。

ひどいレポートの第1番目は、他人の文献をまとめただけのものを「レポートでござい」と平然と提出されるものである。今でこそ「調べる学習」という探究型学習が定着しつつあり、「レポートを書くこと」イコール「文献をまとめること」という図式は否定されてきているように思うのだが、現在の大学生レベルでもまだまだの感がある。すると、私などは、出題方法を工夫して、なんとか「プロセスを大事にできるような」レポートを考えるのであるが、それにしても、限界がある。

もっとひどいのは、「パクリ」である。今回、99%「パクリ」のレポートを見つけてしまった。レポートを読んでいるとき、私は「このレポートはパクリだろう」だなんてレポートに向きあっているわけではない。しかし、読み進めていると、何かにスイッチが入るのである。「これどこかで読んだことがある」「なぜこのような専門的で高度な解釈を参考文献なしで議論できるのだろうか?」「研究者としての私のキャリアを持ってしてもここまでは言えないが、なぜここでは断言できるのか」「ここまで議論するためには、文末の文献だけでは無理がある」などのセンサーが働くのである。

だからといって、「パクリ」とは当然断定できない。「パクリ」と断定するには、○○の文献の○ページの○行目からの文章が、引用記号もなく自分の文章として使われていることを実証しなくてはならないからだ。疑わしくても特定できなければ、「盗用・剽窃」として告発はできないし、「不合格」にすらできないことがある。めったにないことであるが、このようなレポートに遭遇すると、怒りを通りこして悲しくなってくる。「天網恢々疎にして漏らさず」。昔の人はよくいった!

無知や不注意が原因で結果的に「盗用・剽窃」が疑われることがある。「レポート指導」が至らなかったせいだと反省しなくてはいけないのであるが、当のご本人は残念ながら、全く無自覚で、たいてい「文献を読んで一生懸命書いた」との言い訳をもらう。「一生懸命取り組んだもの」が、それだけでよい評価を受けるとも思われないのだが、どうやらそのような誤解や思い込みがあるということを、嫌というほど知らされた。

このような心性を持っている人は、自分のレポートを客観的に見ることができず、「不合格」をもらうと、まるで自分の人格を否定された思うらしい。その気持ちも理解できるか、少し冷静になって、自分の中に他者を作って、もう一度レポートを読み直してもらいたいものだと心から願う。

私自身も過去に、学会において論文をリジェクトされたり、「こんな内容では受理できないから、書き直せ」との指示を受けた経験がある。確かに、愉快でないし、落ちこむし、辛い出来事である。情けなくもなる。しかし、そこから出発しなければ、成長はないのだ。辛くても立ちあがらなくてはいけないのである。言い訳もしたいが、それは、自分の傷をなめているだけである。自己愛で自分自身をかわいそうがっているだけでは立ちあがれない。「たかがレポート」。「不合格」ならば、つぎにチャンスがあるではないか! 自分の努力如何によっては、「A」だって「優」だって手に入るチャンスはあるのだ。

私の友人は、「可」や「C」(最低ランク)をつけることは、その学生の「学びの姿勢」に対する異議申し立てであって、「二度とあなたにはお目にかかりたくない。さようなら」の意味を持たせているといったことがあるが、それならそれで「可」や「C」と判定することは、また別の意味が付加され、さらに注意が必要になってくる。

しかし、まともなレポートを一本も書くことなく卒業できることもある日本の大学って、一体、なんなんだと思わざるを得ない。

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できの悪い学生の一人です。
わしこさんの日記を読んで、自分にも心あたるところがありました。
考えがまとまらず、教科書の内容をちょこちょこっといじったぐらいでレポート提出したことがあります。本当におばかです。案の定、先生からきついご指導。「当然だな!」という気持ちの自分がいました。成績発表で「優」ばかりもらえるなんてありえないと思っている私。案の定、某科目は「可」でした。図書館学の中で唯一の「可」の科目。今読み直せば「やっぱりそうだよ。」と思います。
であるからこそ、その科目の奥深さを感じいまだに勉強しているしだいです。もちろん「不可」ももらってるものもあります。そういう科目は、振り返れば中途半端に学んだり提出しなかったりです。義務教育や高等学校と違い、大学生としての勉強の仕方は半端じゃないのねと感じてます。

NoTitle

本当に!先生の仰る通りです。
何かを学ぼうと言うときにいい加減では何のために学んでいるのかと思います。そういいながら、私も甘いところがあって反省しきりですが。今読み返しても何とトンチンカンなレポートをだしたのかと恥ずかしく笑ってしまいます。
しかもわしこ先生逃げ出してしまったのですから顔向けできません。しかし、先生の厳しい指導の甲斐あって(時間の関係上他の先生の授業になりましたが)合格をいただきました。
本当に感謝しています。
また、昨年の学際の先生のコレクションも楽しく見せていただきました。今年も楽しみにしています。
有難うございました。

「シューベルト」と「人間とからだ」

中学1年の時、「シューベルト」について調べると自分で決めておきながら、どういうレポートにすべきか分からず、結局シューベルトの伝記の文末に載せられていた年表を丸写し!して出してしまったことが思い出されます。
先生からは特にコメントもなく、印をもらっておしまいでした。
。。。が、いやぁ~な感じが残り、その不消化な,満足感のない気持ちは今でも忘れることができません。
その後、2年だったでしょうか、夏休みに自由研究として理科のレポートをまとめました。人体のしくみについて。
お気に入りの「人間とからだ」の図鑑を使って、罫線のない紙に理解できる範囲で要点をまとめながら、イラストは模写(一種のぱくり!)し、仕上げました。
先生が「忘れていたこともあって、思い出させてもらえたよ」とコメントを書いてくださり、大変嬉しかったのを覚えています。

NoTitle

レポート力を身につけるのは、自分一人ではむずかしいです。まず、自分の問題意識(アンテナ)をいきいきと目覚めさせておくことですよね。これには、やはり読書の力が大きいと思います。その上で、小学校からの図書館活用教育がもっと全国的に普及して欲しいものです。

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