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「語る」か「読む」か

私は「語り」の専門家ではないので、テクストなしで語る自信が無いお話は、テクストを用意して語る。このやり方を「語り」と呼んでいいのかどうか疑問に感じるところもあるが、この方法でも「お話」は十分伝わるし、お話の「魔法」だって感じる。「語る」ためには、テクスト通り覚えようとしなくても、かなりの負担がかかる。聞くところによると、「最低、数百回は読むこと」と教えられた人もいるそうである。たとえ、何百回読んで練習したところで、自分の不安な気持ちが「語り」に反映されて、「おでこの裏に浮かんだ字句をひたすら読む」語りや「お話への愛情」が伝わることのないお話ならば、その努力はむなしい。

自分のレパートリーが増えれば増えるほど、お話を「覚える」ことはらくになるという話も聞いたこともある。そこには、「語ること」の真実の一端が伝えられているように思うが、残念ながら、私は、「語りの練習」に自分の時間を充分に費やすことができない。というわけで、テキストを手にしての「語り」となる。

だからといって、練習は疎かにしていないつもりだ。「これぞ」というお話は、まず、コピーを作る。場合によったらPCに打ちこんで原稿を作る。そして、細かな書きこみをしながら丁寧に読んでゆく。翻訳の場合は、昔話だけでなく創作についても原文にもあたり、口に乗せやすいようにマイナーチェンジをすることもある(たまに、誤訳を見つけることもある)。そこから読みこむことになる。おそらくやっていることは「現代の語り手、語り部」といわれる方たちと大きな違いはないように思う。この時点から、「テクストなし」へのハードルが存外高いのが、「語り」が敬遠される理由だろうか?

つい最近までいた「伝承の語り部」と呼ばれる人たちの中には、小さい頃聞いたお話を何十年も経って、突然思いだし、語り始めた人もいると聞く。この人たちは、特に記憶力に秀でた特殊な人たちだけではないはずだ。ただ、子どもの頃聞いた「お話」とそれに纏う「幸福感」を語っているのだと思う。おそらく彼らは「活字」に頼って生きてきた人たちではなく、人生のあり方として「声の文化」を大切にしてきた人たちなのだろう。

悲しいかな、私たちがおとなになるということの一つには、「文字の文化」を獲得することがある。「読書教育」だって、「声」から始まって、最終的には「個人的な読書」を目的にしているだろう。だから、と開き直るわけではないが、「文字文化」にどっぷりつかりきっている私たちが、「語り」をする困難さがここにある。それでもなお、「語り」をしたいと思う人はいるのであり、「声」で物語をとどけることの大切さを感じている私のような者もいるのである。

「語り」にまでは昇華できなくても、物語を「読んで」伝えることの重さを確認し、その「技巧(たくみ)」を洗練するにはどうしたらいいのか。一つ課題ができた。

ところで、最近私は『三びきのやぎのがらがらどん』については、それこそテキスト(絵本)なしで語ることもできるようになった(と思う)。しかし、絵本をおくことが怖い。「テキストを見ずに」語れると思うのだが、テキストがあると安心して子どもたちの表情をうかがうことができる。昨日、6年生に語った「魔法のユビワ」(レアンダー)の「ルドーテの薔薇」で表紙を飾った特製テキストは、私の「セイフティ・ブランケット」だ。そういえば、コバケンも曲によっては、スコアを指揮台においてあることがある。ちょっと、聞いてみたい気がする。

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実は『くわずにょうぼう』を語りでやったことがあるのです、しかも6年全クラスに。「おでこの裏に浮かんだ字句」に頼りつつも「おとこ」の気持ちになったり、「やまんば」の怒り心頭に浸ったり、話し手として抑揚をつけたり、忙しい体験でした。。特別!の緊張感!当時、娘のクラス担任の先生が娘に「きれいなお母さんでいいね」とおっしゃったとか!!?あれだけ頑張って、緊張のピークを乗り切った甲斐があったというものです(ふふふ♪)ですが、気が済んだかのように今は絵本で読んでいます。

『くわずにょうぼう』

saeleinさまの山姥はさぞかわいかったことでしょう。私も一度聞きたいな。

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