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子どもたちと物語をわかちあうこと

地域の小学校ではすでに授業が再開され、ボランティアの読み聞かせも今週から始まる。先日、新年度から7月までに読んだ本を整理し、データ化したが、そのことでずっと考えていることがある。学習会を開いて「本を選ぶこと」に関する重要性については、かなり丁寧にお話ししたせいか、明らかに問題があると思われる本を子どもたちに紹介していることはほとんどなかった。

その中で、4年生に、『たまごねえちゃん』(あきやまただし)を読んでいた例があった。この絵本は、3歳児を対象としている。もちろん、昔話のように幼い人も大きい人も同時に楽しむことができる絵本はあるし、『みんなおなじでもみんなちがう』などの、もともと小さな人を読者として想定された絵本でも、広く読者を獲得し、それぞれの読者のレベルでその世界を受けとめることのできるすぐれた絵本もある。しかし、この『たまごねえちゃん』はどうだろうか? また、ディズニー版『クマのプーさん』を読んだ例もあった。これは議論の余地なく、避けるべきであろう。

しかし、むずかしいのは、いわゆる「名作」をどう判断するかということである。今回の例でいえば、「蜘蛛の糸」(芥川龍之介)、「雨ニモマケズ」(宮沢賢治)などである。問題なのは作品そのものではなく、読み手のメンタリティである。選択の理由が「読みこんでいる」というものなのだ。もちろん、読みこんでいなければ、子どもの前で読んでもらっては困るのであるが、そこには「子どもに楽しんでもらう」「子どもに物語のよろこびをつたえる」という基本的な姿勢がないのだ。つまり、自己実現のための「読み聞かせ」になってしまっているのである。これは困った問題だ。

「読み聞かせ」や「語り」が人の心を打つ大きな要因には、「物語の力」と「声の力」がある。そのどちらが欠けても理想的な「読み聞かせ」や「語り」にはならない。先日、地元のK図書館から出張扱いでやってきた司書さんが、「ついでにぺろり」を語ってくださったのであるが、これがまさに「お話の力」に頼りっぱなしの語りであった。「語り」がどのようなものかをよく知らない人が、これを「語り」「ストーリーテリング」だと思ってしまったら困るという代物であった。当該の司書は、基本的な発声もできていないし、「抑制された語り」であると本人は思っていたのであろうが、その語りは、じつは面白くもなんともない「無味乾燥な語り」であった(どうやら、このような語りをよしとする風潮があるようだ)。失礼な言い方をすれば、「自分の額の裏にうかぶ文字を読んでいます」と思わせるようなもので、お話に対する語り手の「愛」も感じることができなかった。

ところが、「図書館の専門家である司書さんの語り」であると思って聞いている人には、残念ながらその語りの本質が見えなかったようだ。「専門家」という意識に目がくらんでしまい、「語り」そのものを正当に評価することができなくなってしまうのである。彼女の「このお話は面白いから(悲しいから/心を揺さぶるから)伝えたい」という気持ちが伝わってこないのである。お話は、語り手の「語りたい衝動」によって、聴き手をも語り手にしてきたから、いまここにある。

それと反対のこともおこる。「技」のうまさで聞かせてしまうのである。「技のうまさ」にうっとりしてしまい、聴き手の魂がお話の真髄にたどりつくことが困難になることもある。私はかつて福島弁での短い語りを聞いたことがある。福島の言葉の柔らかさが心地よくうっとりしているうちにお話は終わってしまい、「あれ?なにをきいていたんだっけ」ということがあった。土地言葉の柔らかさが子守歌のように響いたのだろう。語る技量にすぐれていて悪いことなどもちろんない。しかし、技量が優れていればそれだけ、お話の選択にも心を配らなければいけないということだろうか?

「声の力」と「お話の力」をバランスよく使い、子どもたちによろこびをつたえるための「語り」「読み聞かせ」を求めて、私たちはさらに研鑽を積まなければならないのである。

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