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学ぶべき責任を感じること

小学校の先生や学校司書の方たちと学習会をしていると書いたことがあるが、彼女たちのもつ「学ぶことの責任」とでもいうような意識や熱意に改めて敬意を感じさせられるようなことがあった。「学ぶ」とは、まず自分自身の「いま」に謙虚にならなければ困難であることなのだと感じるようなブログ記事を読んだのだ。

「学ぶことの責任」といったって、日々やるべき仕事を持ち、家に帰ってもやるべき事はたくさん待ち構えている身となれば、休日に自分のために時間を作ることは、ほんとうにたいへんだろうし、お金だってかかる。しかし、現場で子どもの読書と深く関わっているからといって、自ら主体的に学ばなければ、自己を高めることなどできないのも事実だ。ところが、仕事として「子どもと本に関わっている」ことが、傲慢さを生みだしてしまうこともあるようだ。そのメンタリティが知らず知らずのうちに、他人に見えることがある。

じつは、子どもと本に関わる仕事を長年続けて来たと思われる人のブログで、「神話もアンデルセンも昔から脈々と伝わってきたものだから、やはり大切にしたい」というようなエントリを読んだ。

私はびっくりした。まず、「えーっ! プロがこんな問題意識でいいの? 学生と同じレベルじゃん」 という感想をもち、その後、なんだかがっかりした気持ちが、怒りに変わった。そこで、自らの責任を深く意識して学習会で学んでいるあの彼女たちのことを思ったのである。

問題なのは、「なぜ」という考察が抜けているからである。なぜ神話? なぜアンデルセン? 「なぜ」の後には、さまざまなものが来る。なぜ、昔話? なぜ、わらべ唄? その「なぜ」は大きなかたまりとなって、今度は「なぜ、読書?」と根源的な問いを発してくるだろう。そのとき、どう答えるのか。

考察が足りない学生のレポートは、ほとんどの場合、内容に関係なく「子どもにとっては読書は大切である」というようなお題目がつけ加えられていたのを思いだす。私はそのたびごとに、「なぜ大切なのか、あなたがいま議論している作品(問題)を具体的に分析する中で考えて下さい」と書いて、書き直しを要請したものである。

「お題目」は、お題目であるがために、安易に使うことを許される。しかし、お題目を使ってしまった時点で、本人は思考停止をしているのである。じつに楽ちんである。お題目は、ほとんどの場合、説得力があり、わかりやすい。たとえそれを他所からひっぱってきたとしても、自分自身も共感できるものだから、深い思考を促されることなく、自分のものの気にさせる。

例えば、「子どもにとって読書は大事」というものは、ほとんどの人が共感しているものだろうし、この問題に対して、全うに反論することは難しいだろう。だから、清水眞砂子さんの「本を読むことで排除されるものがある」などという趣旨の発言によって私たちは覚醒し、思考を促されるのである。

それは、私とて同様である。「古典だから」と「大切にしたい」との間にある溝をじっくりつなげるべく、さぁ、勉強するぞ。

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