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日々のことなど(2)

先週の木曜日から順次最終授業に入り、気分は××である。リアル大学の授業は、火曜日に終了する(成績評価が残っているので、まだ終了とはいえないが)。その××気分の中で、N市へ学習会の講師として出かけた。メンバーは、小学校教師、学校図書館員などである。今回のテーマは「昔話」である。

「昔話の語法」については実際に「お話」を聞いてもらった上で、分析するところからスタートした。「馬方山姥」「猿婿」「蛇婿(苧環型)」「蛇婿(里帰り型)」「菊の嫁様」などを紹介しながら、「語り口、文法、構造」や「異類婚」のお話をした。

この学習会の準備にあたっては、マックス・リュティの著作や小澤先生の『昔話の語法』を参考にさせていただいた。小澤先生の昔話理論はリュティの理論に大きく影響を受けていて、おふたりとも文芸学的なアプローチからの分析である。しかし、「お話がどう口承されるか」(口伝えの段階では何が変化するのか)という側面からも考えてみると、様式論の厳格さが見え隠れしてくるのも非常に興味深い。というわけで、私の最近の興味は「昔話は時代の感覚にどう生きのびてゆくのか」「再話はどこまで許されるか」という点にある。つまり、グリムが言う「卵の黄身」を壊さないとはどのような「再話」かということである。

例えば、「猿婿」(関敬吾編、『こぶとり爺さん・かちかち山:日本の昔ばなし1』。岩波文庫ほか)の結末は、桜(藤)の枝を取ろうとして、臼をしょったまま木に登った猿が、重さに耐えかねて川に落ち流されてしまい、そして、嫁は「やれ嬉しや」と意気揚々と帰って行く。この話を聞いたほとんどの人は、なんだか切ない気持ちになり、「猿がかわいそう」と感じる。しかし、なぜこの話が伝えられてきただろうと考えるとき、その語りの真髄について考えないわけにはいかない。「語り手」の「伝えたい気持ち」を知ると、なるほどと納得はするのであるが、しかし、その納得というのは、知性や精神で了解するのである。語り手の心情には共感できるが、その感情の襞のすみずみまで共有することはできない。そのようなときに、「昔話」に変化が起きるのではないかと思う。

あるいは、グリムのKHM1番「カエルの王さま」の姫が怒りにまかせてカエルを壁に投げつける場面に対する違和感はどうであろうか? ベッテルハイムの詳細な分析によってこのお話が読み解かれ、解説されたのものは知的好奇心を満足させるが、でも「カエルをぶつけた姫が、変身した王子とぬけぬけと結婚するのは解せない」という思いは、心の中にくすぶっている。このような思いをもつ「語り手」は、はたしてこのお話を伝えていこうとするであろうか? そんなとき「お話」が崩されてしまう事も起きたし、起きるのではないかと感じている。

松岡享子さんがある昔話を語ったとき、聴き手からの強い「不承認」アウラを感じたことがあると、どこかにお書きになっていたが、これについては、ぜひお話しを伺って、さらに深く考えたいと感じている。「昔話」の世界は深い。

ところで、学習会は、「オイディプスの悲劇」に始まって、『毛皮ひめ』で終了した。ここにも一つテーマが隠れている。なーんだ。

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