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「語りの場」について

野村純一先生の『昔話の旅 語りの旅』(アーツアンドクラフツ)を読んでいて、私が漠然と抱いていた「伝承の語りの場」の実際について、いかに無知で甘い認識しかなかったのかを思い知らされた。恥をさらすようで気がひけるのであるが、「伝承の語りの場」の実際について、これほどきちんと伝えているものを読んだのは初めてである。

とくに雪深い国では夜の「囲炉裏端」は労働の場でもあり、そこで、昔話が語られていたことはよく知られている。しかし、その実際は、私などがぼんやりと想像するような「ほのぼのとあたたかい」ものではなかったのである。野村先生は次のように述べる。

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…家の爺さまや婆さまに語ってもらった昔話の多くは、とろとろとした囲炉裏の火の思い出や、暖かい寝床でのごくやさしい語り口に直結する。それはそれでまったく自然な昔話への回想であって、結構である。しかし、昔話とはたとえそれがひとつ家の子供たちの中にあってさえも、必ずしもすべてが一様にまどかな夢への誘いにあったわけではない。(中略)も少し年かさの子供の中に残る話の記憶は、囲炉裏端に縄をない、煙にむせながら草鞋を編んだ父親や、雪焼けした若勢からの力強くも放縦な語り調子に結びつき、はたまた、単純この上ない葉のしのウラとり仕事の中で、やみくもに襲ってくる睡魔を払うために求めて語られた気味の悪い話や、腹を抱えて笑いころげる話の数々に辿り着くからである。(p14-15)
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学習するとは、さまざまな知識や情報を整理することでもある。この「さまざまな知識や情報」というものが、現在の私たちには実は、すでに整理され、まとめられたものであることが多い。「昔話の場」について書かれたものもそうだろう。つまり、情報や知識としてまとめられてしまった時点で、それらはすでに、具体的な一つ一つの事柄が抜けおちてしまっていることも当然あるのだ。一つの枠組みを認識する中で、さらに、一つ一つの具体を見つけなくては意味をなさないことを改めて知らされた。

比較的手軽に私たちの目に入る笠原政雄さん(『雪の日に語りつぐ』)や鈴木サツさん(『鈴木サツ全昔話集』)の語りにしても、笠原さんや鈴木サツさんの「同時代」を復元しているわけではなく、彼や彼女の人生の終着点近くにきてからの、夾雑物が排除された「過去へのまなざし」から生みだされているものである。それでも、『雪の日に語りつぐ』や『鈴木サツ全昔話集』には、昔話だけではなく、彼らが生きた日常の「語り」が収められているのは意義深いことだ。

私たちはかつてそのほとんどが「生産の場」に立ち会い、その労働を糧として生きることを許されてきた。しかし、現在では、生産者である人よりも消費者である人のほうが圧倒的に多い。日本の昔話は生産者であった日本人が語ってきたものであるから、消費者である日本人が理解できないものもある(例えば「猿むこ」「さるかに」など)。しかし、さまざまなレベルでの具体を丁寧に掘りおこすことによって、その溝は埋めることができるだろう。埋めていかなくてはいけないのだと思う。

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