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「パーソナルストーリー」について思うこと

先週末は、語り手たちの会主催(代表櫻井美紀)による「テラブレーションIN桐生」に出かけ、多彩な語り手たちの多彩なプログラムを楽しんだ。語りの舞台には大きな柚の木がしつらえられ、幕間に「〆張り」の酒粕を使った極上の甘酒が振る舞われるという、心のこもったおもてなしには、会員のみなさまの語りに対する意気込みが感じられ、感激した。(「テラブレーション tellabration」とはtellingとcelebrationを合わせた造語で、合衆国の語り部、ピンカートンが提唱したストーリーテリングの活動を指す)。

「語り手たちの会」のみなさんは、もちろん昔話や伝説、創作も語るが、そのレパートリーに「パーソナルストーリー」を持っているのが特徴のように思われる。今回、私が聞いたお話のうち半分ぐらいがパーソナルストーリーでなかったろうか。「パーソナルストーリー」という言葉は、あまりなじんでいるとは思えないが、これもストーリーテリングの一つで、アメリカでは盛んに語られているということだ。

もとをたどれば、昔話だって、パーソナルな体験やできごとが、時を経て物語に昇華したといえるのかもしれないし、もともと、私たちは、好んで自分のことを語ってきたのであるから、「パーソナルストーリー」は、ストーリーテリングの根幹に関わっているといってもよいかもしれない。

現代ストーリーテリングにおける「パーソナルストーリー」とは、文字通り、個人的な体験を語ることが中心にある。ところがこれが難しい。なぜならば、語り手は、個人の体験を普遍化して、聴き手の共感を得ることができるレベルにまでお話を作りあげていかなくてはいけないからだ。

パーソナルストーリーは、基本的には、昔話などとは違って、劇的なできごと、冒険心を満たす経験、不思議を見たいという心を満足させるお話は少ない。日々の営みのなかでのささやかなよろこび、リアルでちいさな発見に目を凝らしたところから生まれるものがパーソナルストーリーだからだ。少なくとも、先日私が聞いたものはそうだった。ただし、広島や長崎などで語られる戦争体験、被爆体験も「パーソナルストーリー」といえるだろうから、必ずしもこの定義はすべてを網羅しているわけではない。しかし、どんな語りであろうとも、物語に力がなければ聴き手をひきつけることはできない。それは、「パーソナルストーリー」についても同様である。

自分の体験についての発見やよろこびを、聴き手の心に到達させるためには、まず、「何」を語りたいのかという問題意識が必要不可欠で、その問題意識を深めなくてはいけないだろう。残念ながら、今回、私が聞いた「パーソナルストーリー」は、その問題意識が希薄だったようだ。「声なき人びとの思い」を伝えたいという語り手の思いはあるのだろうが、語りが「語り」として練られていない。「経験」や「発見」が「語り」に昇華していないのである。そうなると、勢い、「語り方」に頼ることになる。不必要な間や、ささやき声の多用で、聴き手をひきつけようとするテクニックに走ってしまうことになる。

語りについては無知を承知で書かせていただくが、このたび出会った語り手たちは、「達者」な語り手たちだったが、「声の言葉」の特質に頼ってしまった語りが多く、お話そのものが、心に響いてくることがなかったのが悔やまれる。「語り」には「声の言葉」を使うことによって聴衆を一体化させる力があるが、それ故にこそ、その力で聴き手に「聞かせてしまう」こともできるのだということを肝に銘じておきたい。

昔話は、何世代にもわたって語り伝えられてゆくなかで、「声の文芸」として練りあげられ、洗練されてきた。その過程で昔話は、数多の語り手たちによる数多の語りに耐える物語性や娯楽性、構造や文体を獲得してきたのである。昔話と比較すると、語られる回数が圧倒的に少ない「パーソナルストーリー」が物語になるためには、語られる回数の少なさを補う「何か」がなくてはならない。まず、自分の物語に「語る意味」をみつけ、深めてゆくことだ。「パーソナルストーリー」を語るとは、自分の「生」に意味をみつけることでもあるからだ。

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