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続デイヴィッドの語り:「雪女」について

「スコットランドの語り」コンサートのあと、デイヴィッド、美緒さん、H先生、学生と一緒に、「やきとり屋」さんでささやかな打ち上げをした。そのとき、彼に「雪女」について訊ねてみた。やはり、デイヴィッドの「雪女」は、ハーンの『怪談』に収録されている「雪女」を基にしているとのことだった。

私は、率直に、デイヴィッドの「雪女」には「怒り」が全面的に表現され、違和感を覚えたことと、自分の解釈(雪女の諦観、悲しみ)についてお話しした。最初は、デイヴィッドは、とまどっていたようだった。なんといってもハーンに対する信頼があったからこそ、彼は「雪女」を語っているのだろうから。あらためて、ハーンの結末を読んでみると、雪女が箕吉を殺さなかった理由は、子どものためであったことがはっきりと書かれている。しかも、私が読んでいたように、雪女の箕吉への愛については言及されていない。

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それは、私だったのです。私は、あのときあなたに言ったはずです。もし、あの晩のことをひと言でも口にするならば、あなたを殺すと。いま、ここに眠っている子どもたちがいなければ、すぐにでも私はあなたを殺してしまうでしょう。さて、今となっては、子どもたちの面倒を見てもらわないわけにはいかない。もし、あなたが子どもたちをないがしろにすることがあれば、私は、あなたにも相応の仕打ちをすることでしょう。

彼女の叫び声は、風の音のようにだんだん小さくなっていった。そして、彼女も白い霧となっていったのである。霧は天井の梁にうずまきながら、煙突を抜けてゆき、女は、再び現れることはなかった。(わしこ訳)

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私に言わせれば、日本に長く暮らし、日本人の妻をめとったハーンでさえ、「雪女」のエッセンスを読めていなかったように思う。確かに、ハーン版「雪女」は解りやすいし、因果関係もはっきりしている。私が、読んだような「あいまいさ」や「アンビバレンス」とはほとんど無縁と言ってもよいだろう。しかし、私の話を聞くとデイヴィッドは、私の「語り」を聞きたがったので、私は、日本語で最後の部分を語った。すると、彼は、「失望」「痛み」「悲しみ」を「雪女」に発見してくれたのである。これは、私にとっては、大きな驚きであり、よろこびでもあった。デイヴィッドは、新たな「雪女」を作ると言ってくれた。また、伴奏の「さくら」に関しても、私たち日本人が持つ「さくら」のイメージが、「雪女」にふさわしくないことを理解してくれた。

「でも、日本人聴衆を対象にしていない時には「さくら」を伴奏につかってもいいのではないか」と私が言うと(なんといっても「さくら」と日本は緊密に結びついているから)、彼は、「とんでもない。日本人が違和感を感じるのであれば、それはどこに持っていっても「偽物」である」とおっしゃった。デイヴィッドのお話に対する真摯で誠実な姿勢は深く心にしみた。

ところで、「雪女」における、諦観や悲しみがこのように、比較的容易に理解されるとは思っても見なかった。というのも、ぱたぽんさんが「デイヴィッドの語り」のエントリーでコメントをつけてくださっているように、ある種の(「つる女房」など)昔話は、ヨーロッパ人には理解しがたいということを、昔話研究者の小澤俊夫先生がおっしゃっているからだ。「つる女房」の結末は、西洋人にとっては「終わり」という感覚をもつことができないらしい。「救済の成功」が語られないからだというのが大きな理由である。

しかし、スコットランドの昔話である「あざらし女房」は、異類婚の宿命として、「つる女房」と同じように、海の国(異類のふるさと)へ帰って行く結末を持っている。デイヴィッドが「雪女」についての日本人的な感覚を理解してくれたのも、「あざらし女房」をもつ文化の出身だからかもしれないと感じている。とすると、小澤先生の「西洋人は「つる女房」が理解できない」というご意見は、西洋すべてに敷衍して考えることができるのかと、新たな疑問もわいてくる。

異類婚については、ずっと気になっているので、さらに、いろいろ考えてみたい。小澤先生のご意見に興味がある方は、『外国の昔ばなし研究者が見た日本の昔ばなし』(小澤俊夫編/昔ばなし大学出版会)が参考になるかもしれない。ただし、ざっと再読してみたところ、「つる女房」についての言及を見つけることはできなかった。

注:デイヴィッドの語る「あざらし女房」は、異類の女房がひとりこの世を去るという結末を採用していないところが特徴的である。人間の男は、女房のとともに、いったんはふたりで暮らしていた海の国から戻ってくる。ふたりがまた人間の国に戻ると死んでしまうことを承知の上で戻った理由は、ふたりの末娘が子どもをもうけたので、どうしてもその子を祝福したかったからだ。その後、ふたりは、あざらしの姿のままなくなって発見されるのである。

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NoTitle

素敵なお話ですね。わしこ先生の解釈をすんなりと受入れ、新たな語りに挑戦するとおっしゃった、デイヴィッドさんの人間としての器の大きさを感じます。“西洋人としての理解”というより、デイヴィッドさんという人の人間性によるところがあるのかなという感じを受けました。

今回の貴重な機会を逃してしまったことが本当に残念!
デイヴィッドさんが新たな「雪女」を持ってまた来日して下さることを切に願っています。

それにしても、「日本語」であるにもかかわらず、デイヴィッドさんが「失望」「痛み」「悲しみ」を発見することのできたわしこ先生の「雪女」も聞いてみたかったです。

「さくら」に代わるぴったりの音楽もデイヴィッドさんに提案してさしあげたいところですね。

NoTitle

ところで、「雪女」は私の住む青梅ゆかりのお話だと言われています。
なので、学校の授業でも題材に使われたりすることがあります。

私もいつか、「雪女」を語りに挑戦したいです・・・・。

(すみません。先のコメントに名前忘れました。)

NoTitle

素晴らしいお話ですね(^^)

異文化理解はその国の文化、歴史ばかりでなくその国の人々へ尊敬の念を抱くことから始まると思います。

デヴィッドさんが先生の意見を理解してくださったことは、それだけでなく、それ以前の人間性・・・他者を尊重する態度・・・誠実で真摯なお人柄からだと私には思えます。

何事もコミュニケーションからですね。

また私たちにも「雪女」語ってくださ~い。

・・・こう思考していくと先生の授業「異文化表象」につながっていきますね。

雪女

コメントありがとうございます。

おっしゃるとおり、私の話に誠実に耳を傾けてくださったデイヴィッドの人間性は、尊敬すべきものがあります。彼の謙虚な姿は心に刻みつけておきたいです。

ところで、ハーンの「雪女」は、武蔵国調子村(現青梅市)の農民から聞いたお話を基に再話したものです。「武蔵の国のある村に、茂作と箕吉という木こりがおりました」と始まります。一方、私がデイヴィッドに話したものは、鈴木サツさんの「雪おなご」です。

「痛み」「悲しみ」を理解していただけたのは、もっぱらデイヴィッドの感受性によるものです。また、伴奏の音楽についても助言を求められましたが、「雪の降る町を」がずっとエンドレスに頭の中で演奏されていたので、その歌を口ずさんでさしあげました。何か良いものがあったら、おしえてください。

異文化理解はたいへん難しいですが、私たちは、それぞれの文化を理解するところから始まるのだなぁ、と実感しました。

NoTitle

ほんとに素晴らしい方ですよね。

音楽は強いてつけるとしたら、そのものに顔がないもの・・・その音楽を聴いてほかのイメージを起こさせるものだったらお話の世界を壊してしまう・・・

何気ないBGMでよいのではないでしょうか・・・みおさんオリジナルなものよか・・・
(私的には音楽は必要ないと思いますが)

上記訂正

後で気づきましたが訂正できませんでしたので(++;

・・・何気ないBGMでよいのではないでしょうか・・・みおさんオリジナルなものとか・・・・

です

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