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2006.08/31 [Thu]
『まるごとおいしい幸福のつくりかた』を読む
村中李衣さんの新しいエッセイ集『まるごとおいしい幸福のつくりかた』(クレヨンハウス)を読んだ。『月刊クーヨン』に連載されていたものをまとめたものだそう。雑誌連載中も、ときどき品川のくまざわ書店で立ち読みしたものだが、こうしてまとまってみると、李衣さんの日常生活に向けるまなざしの「軸」がよく見えてくる。
日常の「気づき」を大事にして、そこに鋭いまなざしを向け、意味を見つけ、自分やまわりを問い直そうという行為は、はたで思うほど楽ではないことがわかる。「他」に向けるまなざしで、自分が試されることだってあるからだ。おサル先生との「乱」のことをくちくち語る「けんかの気持ち」にはそれがよく出ている。
「わたしは言い分のちがいだけで彼[おサル先生]と衝突したが、その言い分を抱える彼の魂の哀しみを思いやることに欠けていた」と至るまでには、きっときっと悩んで、考えて、腹立てて、泣いて、考えてというプロセスがあったのだろう。でも、そこをくぐり抜けたから「子どもはけんかして大きくなるのに、大人はけんかして、ちぢこまるんじゃつまんない」っていえるのだ。しょっちゅういろいろぶつかっている私には、人ごととは思えないのだが、私はといえば、あいかわらずめそめそしているのが情けない。
こういうおかあさんとつきあう「まさこ」ちゃんが、「かあさん、いつだって、充分、ストレートやん。ああ、またやってるなと思ってた」と、かあさんとある子どもとのニュージーランドでのバトルを冷静に観察してたのも、ゴメンだけど、おもしろい。
こんなふうな李衣さんだからこそ、彼女めがけて物語がどっと押しよせてくるのだ思わせるほどに、おもしろい物語やゆたかな物語がそこここにキラキラ光っている。それはもう、エッセイで書いてしまっていいの、と聞きたくなるほどに物語の種がころころしているのだ。
柏もち屋の頑固じいさんとのエピソード。下関の魚市場の魚たちの秘密。強面のおとうさんに「おとなしくするか」とすごまれても「おとなしくしない」とつっぱねる男の子。などなど。
昨晩から読みはじめて、2回も読んでしまった。それは、読んだあとに、ポッと心に火が灯されたように、ささやかな幸福を感じるからだ。ありがとう、李衣さん。
ところで、一つ一つのお話の最後につけられた幸福のレシピは、すべて「まるごとおいしい」とは言わせないぞ! これだけは「ゆずれんこん」だ。とくに「パイカリ」と「リンカリ」。想像するだけで「やめてっ!」です。
日常の「気づき」を大事にして、そこに鋭いまなざしを向け、意味を見つけ、自分やまわりを問い直そうという行為は、はたで思うほど楽ではないことがわかる。「他」に向けるまなざしで、自分が試されることだってあるからだ。おサル先生との「乱」のことをくちくち語る「けんかの気持ち」にはそれがよく出ている。
「わたしは言い分のちがいだけで彼[おサル先生]と衝突したが、その言い分を抱える彼の魂の哀しみを思いやることに欠けていた」と至るまでには、きっときっと悩んで、考えて、腹立てて、泣いて、考えてというプロセスがあったのだろう。でも、そこをくぐり抜けたから「子どもはけんかして大きくなるのに、大人はけんかして、ちぢこまるんじゃつまんない」っていえるのだ。しょっちゅういろいろぶつかっている私には、人ごととは思えないのだが、私はといえば、あいかわらずめそめそしているのが情けない。
こういうおかあさんとつきあう「まさこ」ちゃんが、「かあさん、いつだって、充分、ストレートやん。ああ、またやってるなと思ってた」と、かあさんとある子どもとのニュージーランドでのバトルを冷静に観察してたのも、ゴメンだけど、おもしろい。
こんなふうな李衣さんだからこそ、彼女めがけて物語がどっと押しよせてくるのだ思わせるほどに、おもしろい物語やゆたかな物語がそこここにキラキラ光っている。それはもう、エッセイで書いてしまっていいの、と聞きたくなるほどに物語の種がころころしているのだ。
柏もち屋の頑固じいさんとのエピソード。下関の魚市場の魚たちの秘密。強面のおとうさんに「おとなしくするか」とすごまれても「おとなしくしない」とつっぱねる男の子。などなど。
昨晩から読みはじめて、2回も読んでしまった。それは、読んだあとに、ポッと心に火が灯されたように、ささやかな幸福を感じるからだ。ありがとう、李衣さん。
ところで、一つ一つのお話の最後につけられた幸福のレシピは、すべて「まるごとおいしい」とは言わせないぞ! これだけは「ゆずれんこん」だ。とくに「パイカリ」と「リンカリ」。想像するだけで「やめてっ!」です。
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ありがとうがらし
ぱいかりは、やめられないおいしさです。