わしこの読書日記

子どもの本や絵本について研究しているわしこの読書日記と身辺雑記。

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「語りの二つの流れ」イギリスの場合(2)

「語り」が衰退してきた原因には、「活字文化」が台頭してきたことも大きい。ハイテク時代における、「語りのリバイバル」とはどのようなことを意味するのか、「リバイバル」が真の意味で「リバイバル」になっているのか、ベンは続ける。

「語り」とはその一瞬に存在する芸術である、と彼はいう。つまり「瞬間芸術」なのだ。お話を「語り手」と「聴き手」がわかちあう生の空間こそが「ストーリーテリング」である。彼はそれを「ジャズ」とよんでいる。「語り」は聴衆を眼前にして、語られるたびに、変化し、進化してゆくのである。
"There are no pens, the writing is on the wind."ペンなどいらない、物語は風の上に書かれている。

イギリスにおける「語りのリバイバル」には、まず「炉端の語り手」の存在があった。最近問題なのは、彼らが公の場で語ることを要請されるとき、「お金」がからみ、レパートリーに変化が見られるようになったことである。「炉端の語り手」の語りは、いわばおもてなしであって、「お金」は、基本的には介在していなかった。しかし、「炉端の語り手」が雑多なイヴェントに招待され、語ることで、「経済」が介入してくると、本来「語り」を生業としてきた語り手たちとの区別が見えにくくなる。また、「炉端の語り手」は、小さい集団や身近な仲間に語ってきたものだが、大きくしつらえられたステージで、見知らぬ人に語りはじめるとレパートリーが変わってくるのである。

スコットランド最後のトラベラー(語り手)といわれる、ダンカン・ウィリアムソンは、かつては自分の家で、一時間もの語りをしていたそうである。しかし、彼はいま、多くの聴衆を前にして、ジョークや少々センチメンタルなバラードを語るようになったという。ジョークなどの語りはたやすく笑いを生み、聴衆を引きつけるからであろう。

こうして、「炉端の語り手」と「プロの語り手」の垣根がはずれてしまったように見える現在、「ストーリーテラー」とはどのような人のことなのか、「語り」とは何をもって「レーゾン・デートル」が求められるか、ベンは、語りの訓練方法の模索とレパートリーの二点を深めることだと提案する。

かつて、イメージ、言葉、音を使って、聴き手を魅了するための預言的で神秘的な技を伝えられてきた、アシークやグリオなどとよばれる「語り手」たちに匹敵する「師」を失った英国でプロフェッショナルの伝統を復活させるには、あらゆるものを再発見し、新しく作りださなければならない。

ベンの提案は、演劇的な訓練方法の採用である。そして、批評についても演劇的な方法を確立すべきであるとしている。「語り手」とは、「作家」「改作者」「構成者」「演者」「演出家」であるから、この点に立ってさまざまに検討されるべきであるとする。

「お話は楽しみのために、あるいは何かを伝えるために語られてきた。しかし、お話を語る行為は、お話を解釈し語る人に依拠しているのである。お話は、一人一人の中にさまざまな形で生きている。それは、一人一人のお話の解釈が違うからだ。私の希望は、二つの流れに属する、新しい語り手たちが、自己批判的になることにある。自分に対する要求度を高め、批評する人たちの声を求めてくれることを希望する」
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*Comment

口碑伝承!? 

今は活字があるので語り手により伝えられるものというもの
【活字ではあらわせないもの】
って減ってきていると思いますよね・・・

ちょっとお話がずれてしまいますが
妖怪なんかも語り手が文字もなく語り続けてきて
今に至るとある本に書いてありました。
だから根本は一緒の妖怪も語り手や地方の因習などで変わったと。

「お話を解釈し語る人に依拠しているのである。お話は、一人一人の中にさまざまな形で生きている。」

うーむ。響きます。論点ずれてしまい申し訳ないです
  • posted by misa 
  • URL 
  • 2006.08/19 09:25分 
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わしこさん このところ 語り手・ストーリーテラーについて考えていたので この記事はうれしいかぎりです。(語り手たちの会が9伝統の語りの継承を考えるとき 英国の流れを汲むのか日本古来の語りの流れを汲むのか 混乱しているような気がしています。

わたしの語り手としての立脚点は なにか霊的なものが降りてくる。そこにありました。これはいったい何なんだ? ありえないことが現実にあって 私は戸惑いながらもっと深く知りたいと思いました。そこからスタートして 語り手と聞き手との共有化はそのあとのことでした。そして勉強してきたわけではないのですが 楽器とインプロヴァイぜーションがヒントであると辿りついたのです。五十の手習いで古楽のビウエラをはじめたのもその一環です。

語ることの根底には人類共通のなにかがあります。しかし、それはさておいて おっしゃるとおり 炉辺の語り、伝統の語りが混乱をきたした今 現代の語り手(ストーリーテラー)が択ぶ道はいくつかあります。語りをひとつのスキルとして 教育現場、医療の現場 高齢者介護の現場に持ち込むこと。これにはすでに先駆者がおりますし またLTTAが日本の教育に組み込まれるようになれば それも大きなチャンスです。ストーリーテリングは大きな力を持つからです。....すみません、仕事に行かねば...つづきはあとで。

ただ、語り手

 

しかし、日本には そうした語り手を育てる機関がありません、カルチャーやワークショップなどで腕を磨くしかない。アート・セラピーも同様です。たとえば、アメリカにおいて4年以上大学などで修練を積まなければならない過程が 時間的にも短いWSなどで習得される。確固とした資格もない。このような状況のなかで 新しい語り手たちはなにを どう学んでいくのか。

演劇的な手法を学ぶことは無駄ではありません。そこには多くの示唆があります。読み聞かせよりは歌や演劇のほうが語りには近い...ひとつにはインプロヴァイぜーションに近いからでしょうし。文字の縛りが希薄だからもありましょう。

わしこさんが要約されたベン・ハガーティの考えに 概ね賛成はするものの 新しい語り手の模索の道は演劇的訓練と演劇的批評という意見に全面的に賛成はしません。演劇的な訓練は一歩間違え生半可に自分のものにすると とんでもないものになってしまうからです。近いといえど 演劇と語りは別なものです。

わたしはまだほかに方法があると信じています。模索と努力を続けていきたいと思います。

 

misaさん、lucaさん:コメントありがとうございます。私は、図書館サービスの側面から語りを知りました。しかし、とくにアメリカ、カナダでのストーリーテリング経験と日本のライブラリー・ストーリーテリングのあまりの違いにびっくりしたことから問題意識が芽生えました。ぜひ、いろいろな機会を見つけて議論しましょう。
  • posted by わしこ 
  • URL 
  • 2006.08/20 17:35分 
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