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映画『ゲド戦記』<ネタバレ>

重い腰をあげて、映画『ゲド戦記』を鑑賞してきた。評判が今ひとつなのは承知の上で、それでも、宮崎吾朗が、あるいは、スタジオ・ジブリがル=グインの<ゲド戦記>シリーズをどう読んだのかを知りたかったからだ。結論を急ぐと、残念ながら、彼らには<ゲド戦記>は読めていなかった、ということだ。<ゲド戦記>の転換点となった『帰還』の主人公であるテルーを登場させたにもかかわらず、彼女の存在意義をまったく理解していないかのような作りであった。それは、最後の場面に象徴的に表われていた。

作りについてならば、いいたいことはもっとある。まず、セリフと絵がばらばらで、それぞれが活かされていない。テレビのコマーシャルでしつこいほど流れていた「命を大事にしないヤツは大嫌いだ」というフレーズが、ありえないと思われるような場面で、テルーによって唐突に発せられた。内心、テルーがそんなこと言うか、と不快感を覚えた。

そのほかにも、場面にふさわしくないメッセージ性のある言葉がうつろに響いていた。「死を受け容れてこそ、自分の生と向きあい、かけがえのない人生を生きることができる」というメッセージがお題目のように垂れ流しにされていたのも、空虚感をつのらせた。語るのではなく、映像の世界で「見せる」ことこそが、映像化することであると思う。その点でも明らかに失敗していた。

映画館では、夏休みとあって小学生も多く見かけた。この子どもたちは、映画を楽しんだのだろうかと疑問にも思った。「核」になる物語も明確ではなく、物語性も希薄だった。見せ所は、やはり「闘い」や「魔力の映像化」の場面で、確かにそこにはアニメのおもしろさがあった。急激な視点の変化や処理は、『ロード・オブ・ザ・リング』のサウロンの眼などを連想した。『ロード・・・』といえば、クモの館の高い塔やアースシーの町並みにもその残響を感じたのは、私だけだろうか。

クモといえば、原作では男性なのに、映画では女性だった。その風貌や振る舞いは、「セレット」あるいは「アカレン」を連想させる「魔法使い」として造形されていた。しかも、アースシーには女性の魔法使いはいないという設定であるにもかかわらず、だ。この辺も、読めていない、というか、軽々に「男と女の対決」を持ちこんでしまったのだろう。また、クモの破滅はクモの真の名を明らかにすることでなされるべきだった。

最後までわからなかったのは、アレンが父を殺した理由である。アレン自身にも「わからない」が、「自分の中の凶暴さ」が父を殺したと言わせていたが、これもあまりにもお粗末だ。父の殺害によって、アレンが「影」を出してしまうわけだが、その必然性はあったのだろうか。父殺しは、「影」を出すための手段としてしか思えないのである。

確かに、この作品は、息子「吾朗」が、父「駿」を象徴的に殺したからこそ生まれたのであろうが、こんなに軽々しく「父殺し」を描いてしまう、制作者たちの心性を疑う。『シュナの旅』の作者として、駿の名前をクレジットに入れたのはなぜだろう。最近、『シュナの旅』は駿が<ゲド戦記>にインスピレーションをもらって作ったと宣伝されているが、あれは明らかにチベットの昔話である。

一つだけよかったことは、映画の出来のあまりのひどさのために、私の<ゲド戦記>の世界がまったく侵略されずに、いや、なお生き生きと残っていることである。

空の場面や水の場面は、さすがに美しかった。

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