2006.05/02 [Tue]
庄野潤三の世界
ここ10年ほど、庄野潤三が年に一冊ずつだす作品を楽しみにして読んでいる。『鉛筆印のトレーナー』 『さくらんぼジャム』あたりからだったろうか、、、。彼が語る、孫のいる夫婦の日常生活を飽きもしないで読んできた。失礼ながら、彼の作品が小説なのか、エッセイなのかも私にはわからない。少なくとも「物語」とは対極のところに存在しているとは思う。基本的に彼の世界は、『明夫と良二』 『絵合わせ』あたりから一貫しているが、特に「夫婦の晩年」を描こうとしている最近の作品は、また違った風味を醸している。
語られるのは、庭に来る鳥たちのしぐさ、声、妻のピアノ、夫婦で歌う歌の話、夫のハモニカ、年二回の大阪への墓参り、宝塚観劇、子どもたちの訪問、子どもたちとの会食、それに対するお礼の手紙、などなど、夫婦を取りまく人づきあいや日常の食べ物のことだ。
お彼岸には必ず「かきまぜ」を作り、ピアノの上にお供えする。そして、子どもたちが家族でお参りに来て、「かきまぜ」を持って帰る。大阪へのお墓参りには、妻は早起きしてサンドイッチを作り、それを新幹線の中でいただく(最近、手作りサンドイッチは、車内売りのサンドイッチに変わった)。大阪では「竹葉亭」の鰻御前をいただき、帰りの新幹線では、お弁当を買って帰る。子どもたちの家族と宝塚観劇の帰りには甘味処でおやつをいただく。
どの本を読んでも、このような日常を軸に夫婦二人の生活が描かれている。孫たちが大きくなり、その生活の変化につれて、夫婦と孫とのつきあいも少しずつ変わってゆくことがわかる。「鉛筆印」のトレーナーを着て、お人形遊びを楽しんでいた「ふうちゃん」は、いまは高校生で、ブラスバンドでサックスを吹いている。そして、二人はふうちゃんのクラブの定期演奏会に出かける、というように。
ところで最新刊の『星に願いを』(講談社)では、そのような日常が微妙にそぎ落とされている。そぎ落とされて残ってゆくものが丁寧に書かれているのだ。これが「人間の晩年ですよ」と静かに主張しているようだ。
私は、なぜ庄野潤三にひかれるのだろう。
語られるのは、庭に来る鳥たちのしぐさ、声、妻のピアノ、夫婦で歌う歌の話、夫のハモニカ、年二回の大阪への墓参り、宝塚観劇、子どもたちの訪問、子どもたちとの会食、それに対するお礼の手紙、などなど、夫婦を取りまく人づきあいや日常の食べ物のことだ。
お彼岸には必ず「かきまぜ」を作り、ピアノの上にお供えする。そして、子どもたちが家族でお参りに来て、「かきまぜ」を持って帰る。大阪へのお墓参りには、妻は早起きしてサンドイッチを作り、それを新幹線の中でいただく(最近、手作りサンドイッチは、車内売りのサンドイッチに変わった)。大阪では「竹葉亭」の鰻御前をいただき、帰りの新幹線では、お弁当を買って帰る。子どもたちの家族と宝塚観劇の帰りには甘味処でおやつをいただく。
どの本を読んでも、このような日常を軸に夫婦二人の生活が描かれている。孫たちが大きくなり、その生活の変化につれて、夫婦と孫とのつきあいも少しずつ変わってゆくことがわかる。「鉛筆印」のトレーナーを着て、お人形遊びを楽しんでいた「ふうちゃん」は、いまは高校生で、ブラスバンドでサックスを吹いている。そして、二人はふうちゃんのクラブの定期演奏会に出かける、というように。
ところで最新刊の『星に願いを』(講談社)では、そのような日常が微妙にそぎ落とされている。そぎ落とされて残ってゆくものが丁寧に書かれているのだ。これが「人間の晩年ですよ」と静かに主張しているようだ。
私は、なぜ庄野潤三にひかれるのだろう。

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