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続「とっちんやのばば」

「とっちんやのばば」を竹内智恵子『鬼追い:続昭和遊女考』(未来社)で見つけた。『鬼追い』では「トッチン家」というタイトルで収録されているものだと思われる。活字で読む「トッチン家」と語りで聴いた「とっちんやのばば」とのあまりの違いに驚いている。雨もりをする家が「トッチン トッチン」と音を立てるのがうれしいとよろこんだ娘が、祖母とともに郭に売られてゆく話である。「語り」では、一つの世界がきりりと屹立した感じを受けたのであるが、文字では「語り」で聴いたときの力は感じられなかった。

「語り」では、かなり悲惨な生を引きうけなくてはならなかった少女の唯一ともいえるであろう「美しい」祖母の思い出がさりげなく語られたが、この「さりげなさ」が聴くものの胸に迫るのであろう。「語り」としては美しすぎたきらいはあるが、、。文字で読んだだけでは、忘れてしまうであろう小さな小さな話である(もちろんこの少女の生を小さいものと思っているわけではない)この「とちんやのばば」は、お話というほどの流れをもつものではなく、ひとつの出来事を語ったものである。しかし、あの「語り」を聴いたときの「雰囲気」がずっと私の心に残っていて、その雰囲気が元話を探そうというエネルギーを生みだしたともいえるかもしれない。

「語り」を文字に書きとめることから失われてしまうものの大きさを感じ、語りのもつ「力」を実感している。「語り口」をつくることの大切さ意味が少しだけわかった。

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語りについて

先生、こんにちは。お久しぶりです。
Y大学の児童サービス論、前期にゲド戦記のレポートとチョコレート工場の秘密の件でお世話になった者です。
お正月明けごろから、ブログを拝見するのにパスワードが必要になっていて、パスワードを知らない私は拝見することができず、悲しい気持ちでおりました。
久しぶりに、だめもとで、こちらへ伺ったところ、今日は普通に拝見することができてとてもうれしいです。
さて、先日、今西祐行さんのすみれ島の絵本の読み聞かせをブックトークの勉強会の中で聞かせていただきました。その時、
「このお話は絵本の読み聞かせでは、戦争の辛さばかりが子どもたちの中に残ってしまう。以前、別の人が語りでされていたときには、そんな感じではなかった。」というお話が出てきました。
語りと、絵本の読み聞かせで、それほど違いが出るのだ、と鵜呑みにして帰ってきました。
確かに、あの絵本の読み聞かせを聞いて、悲しくて痛ましくて、辛い気持ちになりましたが、語りで聞いたら、もっと身に迫るものがあるような気もしました。
白雪姫のように残酷なシーンのあるお話でも、語りならば残酷さは子どもたちの中に残らず、愉しみだけが残る、と言われますがそれと同じことなのでしょうか・・・。
まだまだ、勉強不足で申し訳ありません。

『すみれ島』

信楽さん:コメントありがとうございます。お久しぶりです。『チョコレート・・・』もまだお約束が守れず、申し訳なく思っています(あんなにお世話になっていたのに)。

『すみれ島』はまだ読んだことのない作品なので、何とも申し上げることができないのですが。「語り」や「絵本の読み聞かせ」は、10人が10人同じ印象を持つとは限らないと思います。「とっちんやのばば」についても、ごく個人的な感覚です。しかし、「語り」が瞬間芸術であることを意識しておくことは大切だと思います。チャンスを見つけて『すみれ島』を読んでみます。アマゾンのカスタマー・レヴューでは「泣けた」というコメントがついていました。「泣ける」からといってすぐれた作品だということにはなりませんね。テクストの中に意識的に「涙腺」を刺激する要素があるのでしょうか? ちょっと気になります。

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