2006.01/27 [Fri]
レポートの性差
レポートの添削をしていると気がつくことがある。私は「課題図書」の作品論をレポートに求めているのであるが、そのとき口を酸っぱくしていうのは、作品に深く沈潜して、「自分の読み」を展開させろ、ということである。ところが、これがなかなかむずかしい。どこかで聞いたことのあるような議論を展開し「予定調和的結論」に無難に着地しようとするレポートの何と多いことか。そんなレポートは、「即返却・再提出」なのは当然なのだが、「予定調和的な無難レポート」を書いてよしとする心性を突き崩すのが、至難の業だ。
とくに、男性の書くレポートにそのようなものが多い。そんなレポートからは「作品と格闘した作者の顔」が見えてこない。彼らは、作品との向きあい方が「理性的」で、具体的に論じるよりも、なんとかうまく「まとめて」「整理」しようという姿勢がレポートのなかから垣間見える。作品論は確実に抽象化の方向へ進む。読んでいて、一瞬、居心地がよいが(うまくまとめてもらうと「ふんふん」と納得し、感性的な私は感動してしまいそうになる)、私の授業では「不受理」だ。
作品を楽しんだのか、そうでなかったのか、というところから出発して、自分の問題意識を目覚めさせて欲しいのであるが、そのような理性的な読みでは、作品からは一歩退くことになり、自分の読みが見えてこない。作品がおもしろくなくて、のめりこめないから、客観的に論じようとするのか、とも思ったりもする。「自分の感性」を圧し殺してまで、客観性を重んじようというのは、何か理由があるのだろうか? これは、男性のレポートにほぼ共通する傾向である。そのようなレポートからは、「生の声」も聞こえてこないし、いままで読んだ「参考文献」の整理・整頓であるから、添削する方としては、正直、読んでいてつまらない。
私は、子どもの本とはこんなふうに関わりあって欲しくはないし、このような向きあい方では、子どもの本の本質がみえてこないと思う。
それとは反対に、女性の書くレポートは、情緒的な部分から出発することが多い。これが、作品の裏づけや、参考文献の読みこみで深められると、レポートに論理性が出て、説得力をもったおもしろいものになるのだが、こちらも着地がなかなか難しい。だが、このようなレポートは、とりあえず「自分の拠り所」があるので、そこに立ちもどって、ふり返ることで、着実に洗練されたレポートができあがる(もちろん本人のやる気もあるけど)。
現代社会では「性差がない」ということが前提にあるように見えるが、レポートを読んでいても「性差」を感じるし、わが家の夫婦げんかも「問題」に向きあうまなざしの違いや、お互いを説得させる「技」の違いから勃発することに気がついた。だから、「ケンカの種」で議論するより、「種」への向きあい方についてお互いを批判することがよくある。私は、その向きあい方を夫の「性格」だと思っていたが、実は、性差ではないかと考える今日この頃である。
とくに、男性の書くレポートにそのようなものが多い。そんなレポートからは「作品と格闘した作者の顔」が見えてこない。彼らは、作品との向きあい方が「理性的」で、具体的に論じるよりも、なんとかうまく「まとめて」「整理」しようという姿勢がレポートのなかから垣間見える。作品論は確実に抽象化の方向へ進む。読んでいて、一瞬、居心地がよいが(うまくまとめてもらうと「ふんふん」と納得し、感性的な私は感動してしまいそうになる)、私の授業では「不受理」だ。
作品を楽しんだのか、そうでなかったのか、というところから出発して、自分の問題意識を目覚めさせて欲しいのであるが、そのような理性的な読みでは、作品からは一歩退くことになり、自分の読みが見えてこない。作品がおもしろくなくて、のめりこめないから、客観的に論じようとするのか、とも思ったりもする。「自分の感性」を圧し殺してまで、客観性を重んじようというのは、何か理由があるのだろうか? これは、男性のレポートにほぼ共通する傾向である。そのようなレポートからは、「生の声」も聞こえてこないし、いままで読んだ「参考文献」の整理・整頓であるから、添削する方としては、正直、読んでいてつまらない。
私は、子どもの本とはこんなふうに関わりあって欲しくはないし、このような向きあい方では、子どもの本の本質がみえてこないと思う。
それとは反対に、女性の書くレポートは、情緒的な部分から出発することが多い。これが、作品の裏づけや、参考文献の読みこみで深められると、レポートに論理性が出て、説得力をもったおもしろいものになるのだが、こちらも着地がなかなか難しい。だが、このようなレポートは、とりあえず「自分の拠り所」があるので、そこに立ちもどって、ふり返ることで、着実に洗練されたレポートができあがる(もちろん本人のやる気もあるけど)。
現代社会では「性差がない」ということが前提にあるように見えるが、レポートを読んでいても「性差」を感じるし、わが家の夫婦げんかも「問題」に向きあうまなざしの違いや、お互いを説得させる「技」の違いから勃発することに気がついた。だから、「ケンカの種」で議論するより、「種」への向きあい方についてお互いを批判することがよくある。私は、その向きあい方を夫の「性格」だと思っていたが、実は、性差ではないかと考える今日この頃である。

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