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2006.01/12 [Thu]
「英米児童文学」今年度最後の授業
「英米児童文学」が今年度最後となった。「みなさん、あけましておめでとう。そして、元気でね」というさみしいあいさつになる。
授業は『週刊読書人』に掲載された、ひこ・田中氏の「2005年回顧」を枕に、「子どもの文学の核となるもの」をテーマに、一年間のまとめとして話した。ひこ氏は、『悲しい本』『ぼくはジョシュア』『イクバルの闘い』『ドアーズ』などをあげ、「子どもの本は今どんなことでも物語にできる幅を持ち始めている」と、評価する。確かに「幅」が拡がっているという見方もできる。でも、ひっかかるのだ。どちらの方向に「幅」が拡がったか、というと、子どもの文学の世界が「しあわせな方向」に向かってばかりいるとも思えないのである。作品のなかに、子どもがしあわせであることの証左が見えてこないのである。これは、現実の子どもの姿が作品に映しだされている、ということが前提になってはいるのだが。
おとなの文学に「無視できないほどYA的スタイルの作品が増えてきている」という指摘には納得。彼はその理由を「近年確実に進行しつつある自我の曖昧化の前で何をどう書けばいいのか模索し立ち止まったとき、そこに浮上してきたのが、自我の生成から形成の辺りを得意として書いている(かのように見える)YAや児童文学なるジャンル」にシフトしたのではと述べる。なるほど。ところで、「自我の曖昧化」ってなんだ?自分を関係性のなかで生かすことが困難になってきている、ということなのかしら。
総体としての「子どもの文学」を考えたときに、ひこ氏があげた作品の多くは、周辺を広げているとはいえるだろう。しかし、「子どもの文学の核」となりうるものとして、それらの作品を評価できるのか、それはまた別の問題意識や基準が必要だという気がする。
そして『どんなにきみがすきだかあててごらん』というベストセラー本の欺瞞性をthe dotと比較しながら、基本的に「ほら話」であり、loveの本質から情けないほど乖離していると、縷々自説を主張した。
複数の学生から「学生生活最後の授業がこの授業でよかった」というありがたいお言葉をいただく。しあわせ。
授業は『週刊読書人』に掲載された、ひこ・田中氏の「2005年回顧」を枕に、「子どもの文学の核となるもの」をテーマに、一年間のまとめとして話した。ひこ氏は、『悲しい本』『ぼくはジョシュア』『イクバルの闘い』『ドアーズ』などをあげ、「子どもの本は今どんなことでも物語にできる幅を持ち始めている」と、評価する。確かに「幅」が拡がっているという見方もできる。でも、ひっかかるのだ。どちらの方向に「幅」が拡がったか、というと、子どもの文学の世界が「しあわせな方向」に向かってばかりいるとも思えないのである。作品のなかに、子どもがしあわせであることの証左が見えてこないのである。これは、現実の子どもの姿が作品に映しだされている、ということが前提になってはいるのだが。
おとなの文学に「無視できないほどYA的スタイルの作品が増えてきている」という指摘には納得。彼はその理由を「近年確実に進行しつつある自我の曖昧化の前で何をどう書けばいいのか模索し立ち止まったとき、そこに浮上してきたのが、自我の生成から形成の辺りを得意として書いている(かのように見える)YAや児童文学なるジャンル」にシフトしたのではと述べる。なるほど。ところで、「自我の曖昧化」ってなんだ?自分を関係性のなかで生かすことが困難になってきている、ということなのかしら。
総体としての「子どもの文学」を考えたときに、ひこ氏があげた作品の多くは、周辺を広げているとはいえるだろう。しかし、「子どもの文学の核」となりうるものとして、それらの作品を評価できるのか、それはまた別の問題意識や基準が必要だという気がする。
そして『どんなにきみがすきだかあててごらん』というベストセラー本の欺瞞性をthe dotと比較しながら、基本的に「ほら話」であり、loveの本質から情けないほど乖離していると、縷々自説を主張した。
複数の学生から「学生生活最後の授業がこの授業でよかった」というありがたいお言葉をいただく。しあわせ。
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ひこ田中氏のご意見について。
わたしは常々、英米のYAと日本の中高生向け物語をいっしょに語っていいのかな……と疑問に思っていました。
とくに米国のローカル事情は、日本社会とはことごとく異なります。
ここをはっきりさせない限り、YAと叫んでもわたしには響きません。
YA的作品増加の原因は、社会の多様化と、それに伴う新しい市場開発のいったんと思えてしまいます。