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<ゲド戦記>『影との戦い』を読む。

秋学期の「英米児童文学」のメイン・テーマの一つは、4回かけて『影との戦い』を読むことにある。この4回はゼミのような授業展開となっている。学生は1章ごとにワークシートへの書きこみが要求され、そのワークシートをもとにして、作品を読みこんでいこうというのである。一回につきほぼ70ページ(2、3章分の準備が必要となる)分が課題となる。まずは作品を読み、あらすじを整理するところから出発する。文学専攻の学生だからといって、何人かの例外を除いては読書を日常的にしていないのが現状だ。だからこそ、こんな風な授業をすることにもなるのであるが…。

私は<ゲド戦記>に関しては、4巻までは英語で読んでいて、きちんと日本語訳を読んだのは今回が初めてである。第1巻の中心的な流れはゲドが影をおびきよせ、その影をめぐるゲドの「戦い」のさまざまなこと(と曖昧な言い方をしたのは、ネタバレになってしまいそうだから)が語られる。気になったのは、日本語におけるゲドの造形である。彼が影をおびきよせたのは、もちろん彼の傲慢さであることは明白である。しかし、英語版と日本語版のゲドの印象があまりにも違うのである。

Standing there with rage in his heart, looking after Jasper, Ged swore to himself to outdo his rival, and not in some mere illutionmatch but in atest of power. He woould prove himself, and humiliate Jasper. He would not let the fellow stand there looking down at him, graceful, disdainful, hateful.

ここでは、ゲドのJasper =ヒスイに対する怒りからはじまり、ついには彼を打ち負かそうと決意する重要な場面である。ゲドのヒスイに対する怒り、コンプレックス、嫌悪の情が描かれているが、文体は間接話法が使われ冷静で客観的な印象を受ける。間接話法で書かれていることにより、読者とゲドとには距離が生まれている。読者が共感できるような書き方ではなく、説明されて「そういうことか」と了解すべきことのように書かれていると私は感じた。

間接話法は「他の話法に比べて活気に乏しく、重苦しい文体になる」と『英語文体論』の著者池田拓朗は指摘している。つまり、伝達者(=筆者)の言葉によって再構成されているため客観性が生まれ、ここではむしろゲドの生々しく激しい感情は幾分抑えられているように思われる。じつは、日本語訳は次のようになっている。

ヒスイを見送るゲドの全身は怒りに煮えたぎった。(いつか、絶対、あいつをやっつけてやる。それも目くらましの術なんかでなく、本当の力の試し合いで!)(どれだけ力があるか見せつけて、あいつに恥をかかせてやるんだ。あんなやつに見下されてたまるか。なんだい、あの憎たらしい、お上品なまねは。ふん、お高くとまっていやがって!)

原文の英語では三人称で語られ、心情の表出については伝達者が媒介している間接話法が使われている部分が、日本語では、心情を表す丸括弧を使って、あたかもその場でゲドが発したかのような臨場感を持った「ゲド自身の言葉」で伝えられている。ゲドの腹立ち、苛立ち、嫌悪感がひしと伝わってくる。読者の感情移入をさそうような文章だ。ことによったら、ゲドの子どもっぽさすら感じてしまう。訳者の思惑はどこにあったのだろうか? 

ゲドが影を召喚する場面は3カ所ある。1回目は、領主の娘に唆されて、オギオン(日本語訳ではオジオン)の書物を無断で手に取り死者の魂を呼び出そうとしている場面、2回目、3回目はヒスイが絡んでくる。ゲドとヒスイは初対面の時から馬が合わなかった。彼らは「ライバル」と言うより、お互いがお互いの「鏡」のような存在に思われる。生まれや育った環境こそ違え、二人は自分の力を過信し、他人に認めさせたがっているのだ。ゲドはヒスイの力を、また、ヒスイはゲドの力を受け容れることができないでいる。若気の至りで、若者特有の傲慢さで。ゲドの傲慢さが影を呼び出してしまったという読みは真実であり、正しい読みであることは間違いないところであるが、しかし、ゲド固有の傲慢さ、慢心のみだけから生み出されてしまったとすることには異論を持つ。

この日本語訳は人が持ちうるであろう「影の感情」をゲドだけの特別な感情と読ませることに導いてゆくのではないかと感じさせるものであった。
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ゼンタングル・インスパイアド・アート



この手ものは「ゼンタングル・インスパイアド・アート」と呼ぶらしい。全然アートじゃないけど。

本日のタングル

zentangle revised 1108

最近のゼンタングル



この作品にはお手本があるのだけれど(芳野かえさん)、おなじ構図でおなじタングルを使ってもできあがりは全く違うのは、腕のせいでもあり個性でもある。もう少しのびのびと書けたらいいなぁ。

『火山のふもとで』を読む。

夫が図書館で借りてきた『火山のふもとで』を読んだ。端正な文章で綴られた先生を始めとする個性的な人たちの「図書館の設計」を軸に展開された世界がとても心地よかった。さらに、ユーストで手に入れた『沈むフランシス』『優雅なのかどうか、わからない』を購入して読んだ。これが期待外れでがっかりだった。読後感は「?」がつきまくった。何を書きたいのか、何がテーマなのかもわからなかった。そこそこ魅力的な人が出てくるのだけれど、さまざまに尻切れトンボ感が拭えない。残念。

「火山のふもと」といえば、ラウリーの Under the Volcano を想起せずにはいられないが、関連性は全くないようだ。こちらの方は「浅間山」(しかし、著者の前職が文芸系の編集者だというから、ラウリーのことが頭にあったことは間違いないだろう)。ストックホルム市立図書館を設計したアスプルンドを知ったことも収穫であった。アスプルンドつながりで『北欧が好き!②』を購入。また、作者の松家氏が須賀敦子さんとの浅からぬ関わりがあることには、たまたま『須賀敦子の手紙』を入手したばかりの私にとっては、偶然とはいえ驚きでもあった。

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