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詩集

美智子皇后の新たな訳詩集『にじ』『けしごむ』が出版された。まどさんの原文もよいが、彼女の英語のセンスと原詩を読みこむ力が秀れていなければできなかった詩集に違いない。ごくごく短い詩が載っている『けしごむ』も、言葉のよろこびを堪能させるが、「りんご」「さくらのはなびら」(『にじ』)は哲学的ですらある。
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緑の指

頂いてから一年以上経過して、夏の暑さにもめげずにがんばっていてくれた、ローズマリが枯れてしまった。何が悪かったのか? 一年中外に出しておいても大丈夫とのことだったので、冬もそのままベランダに出しておいたのがいけなかったのか、気づいたときには遅かった。

「ローズマリほど簡単なものはない」といわれて育て始め、もう何回失敗したことであろうか。料理に使いたいという目論見は、もちろん果たせていない。数え上げれば、房総半島に遊びに出かけたとき、「シェークスピアガーデン」で購入したもの。敷地内のローズマリの植えこみからいただいてきたものなど、何回失敗したのだろう。私には緑の指がないのか。がっかり。

最後の手段で、すでに大きくなっているものを鉢植えで購入しようと、とりあえずはネットで検索してみたが、これが存外高価なのである。小学校に行く途中にも、生け垣のようにはやしているお宅もあるというのに(まったく手をかけていないように思えるのだが)、なぜに私にはできないのか? あの硬い実から植えた「致道館の椿」は、今年もまた若草色のつるつるした葉っぱをつけているのに…。私はローズマリとの相性が悪いのだろうか。

作家を追う

いつも心にとめて、その著作や翻訳の出版を待ちかねている作家や研究者がいる。例えば、清水眞砂子さんや灰島かりさんなどである。それは、彼女らがお訳しになる日本語に対する信頼ばかりでなく、その「作品を見きわめる目」を信頼しているからだ。

また、1人の著作者を追うということもしている。最近、そんな人の旧作を読み直した。千葉敦子氏である。彼女がガンで逝ってから何年経つことだろう。収納スペースの関係で、彼女の著作はずいぶん前にすべて古書店に持っていってもらったが、なぜか1冊だけ『千葉敦子のななめ読み日記』が残っていて、何となく再読した。そして、この著作の構想が犬養道子の『マーティン街日記』からインスパイヤされたことを知り、そちらも再読(再再読?)した。そういえば、犬養道子さんの作品も『花々と星々と』をはじめとしてずいぶん読んだ。彼女の著作はまだ現役で書棚にある。★マゾンで、2000年以降も彼女がまだ何冊かお書きになっていることを知り、さっそく手に入れることにした。これは、学生への課題図書リストに入りそうな著作である。

現在は雑誌『新潮』に一部が掲載されて気になっている、尾崎真理子氏の「石井桃子の評伝」の出版が楽しみである。待ちきれなくなって同氏の『現代日本の小説』まで読んでしまった。これを読んで、どうやら最近の傾向として、村上春樹が読めなければ現代人じゃないような、小説読みではないといわれているような気がしてきた。春樹の日本語好きではないのだが…。

追>我が集合住宅のエントランス歌壇にラベンダーが花をつけはじめたので、こちらのテンプレートも「ラベンダー」にしてみました。

中学校の図書館

2週続けて行った東横線沿線にある私立中学校の「英語でのおはなし会」が終わった。「わしこの英語塾」としての本格的な発表会でもあり、それぞれにたいへんな思いをしたけれど、楽しく意義深い経験であった。協力してくださったN先生に感謝。ありがとうございました。

それにしても、すばらしい学校図書館であった。私は、レファレンスコーナーにあった『国歌大観』『希臘語辞典』にまず度肝を抜かれてしまった(『国歌大観』を生徒が使うことはまずないだろうが)。広さは公共図書館の小さい分館レベルなのに(もっとこぢんまりしていたかも)、レファレンスコーナーの充実ぶり! 確かに中学校の図書館であるから「学習」のための資料が重要であることは了解できるが、9類だってほかと比べて決して遜色ないのだ。伺うと、書籍の年間予算は200万円だそうだ。中学校だけの予算だから、決して多い方ではないという(私立のなかではということです)。

また、1年生には週1回「図書の時間」が設けられていて、彼らは1年をかけて「図書館の使い方」から始まる「図書館の資料を活用するための教育」を受けるのだ。自分の中学校時代の図書館の貧しさを思いだすと羨ましすぎて、ため息がでてしまう。

おりしも、昨日の夕方大きくニュースで取りあげられたのは「新潟県の中学校司書の図書館蔵書転売・横領事件」だった。数年間にわたっての「転売・横領」が、学校司書が変わってはじめて発覚したそうである。夫は、「如何に学校図書館を教師も使っていなかった事の証明だ」というが、確かにその通りであることが、ニュースで流れた映像からはっきり解った。

新潟県の当該図書館は人の気配のない、ただ本の入った書棚がずらりと並んでいるだけの図書館であった。図書館にはおきまりの、書棚につけられた分類コードすら見えなかった。つい数時間まえに目にしてきた、人に使われ、愛情をかけられて育てられている図書館とは大違いであった。私が2週にかけて伺った図書館の書棚の横には、生徒たちを読書に誘うために、さまざまな情報が貼られていた。『はらぺこあおむし』の各国語版タイトル(20ヶ国語はあったように記憶している)。「センダックが亡くなったことを知らせた新聞記事とセンダックの絵本の紹介」など、さまざまな分類の棚に、それに相応しい情報が提供されていた。

図書館は人がいて図書館であるし、人に使われて図書館になるのだ。

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