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S先生への手紙…金子みすゞの詩

ご無沙汰しました。早くお便りをしなくてはいけないと思いつつ、「学校図書館と個人情報」のレポートを書くことを優先していました。いいわけついでに、教育出版の国語の教科書も取り寄せていたので、それで遅くなってしまいました。

まず、みすゞの詩の解釈一般についてですが、矢崎節夫氏による「伝記」のなかのみすゞ観に大きく影響を受けているのではないかと思いました。また、学校でもそのような流れの中で解釈がなされているのではないかと推測できました。教師用指導書がないので、じっさいに現場での指導の指針がどのようなものなのかはわかりませんが、「一人のやさしい詩人」(p94)、「もっと深いやさしさ」(p94)、「人のいやがることは決して言わない、やさしい少女だった」(p101)、「この地球という星に存在する全てのものに対し、深いやさしいまなざしを投げかけたものばかりです」(p102)というやさしさの大安売りの記述から、「やさしさ」をキーワードに読ませてゆくのではないかと推測されます。じっさいにはどうなんでしょう。

みすゞの詩は「全てのものに対し、深いやさしいまなざし」を投げかけている詩なのでしょうか? 村中李衣さん(教育出版の監修者でもある山口県在住の大学教員で作家)が、お嬢さんの授業参観で「私と小鳥…」を群読した時のことを書いているのですが、ちょっと引用してみます。

「娘たちの班だけが違っていた。徹頭徹尾ひとりの子が読み通したのだ。そして、他の子供達は机に顔をふせていて、一連めの『私のように』、二連めの『私のように』、そして三連めの『それから私』のところだけ、顔をあげてことばを重ねせてみせた」

教室は笑いの渦だったそうですが、彼女たちは「この詩はみんなで読まんほうがいいと思いました」「みすゞは、『私のように』『私のように』って、ずっと『自分の事』を考えているようなきがするから」「この詩はみんなで読まんほうがいいと思いました。みすゞは、『私のように』『私のように』ってずっと『自分のこと』を考えているような気がするから」「小鳥やら鈴やらの気持ちも声もきこえんから」と発言したようです。この解釈は教師によって「ユニークだね」との一言で片付けられたそうですが、一方では、このような読みを主張する研究者や教師もいるようです。

続けて村中李衣さんは、授業参観で行われた群読は、「選ばれたことばの意味内容に終始し、なぜそのことばを選ばずにはいられなかたという、みすゞ自身のこころのありようにまなざしを向けようとはしていなかったのではないか」「みすゞにとって、童謡を書くということは、『自分の存在をなんとか自分自身で意味あるものと認めていこう』とする祈りにも似た作業だったのではないかと推測される」と発言しています。

その根拠として、比べられているものはつねに「私」とであり、「私」中心の対比がつくられていることが読めるというのです。このレトリックを使い、「私は飛べはしないけれど、早く走れる」「きれいな音を出せないけれど、たくさん歌を知っている」と、よく読むと強い自我がと自己肯定が見えます。

したがって、私には、「わたし」は「みんな」につながる「わたし」ではなく、最後の「みんなちがって、みんないい」の「みんな」は「私たち人間」の「みんな」ではなく、「わたし」と「鈴」と「小鳥」を合わせた「みんな」のように思われるのです。さらに、「はやくは走れない」「たくさんなうたは知らないよ」と強い口調で突き放した感じが引っかかるのです。しかも、その強さを和らげる手段として、小鳥、鈴などのかわいい小さいものを使っているのではないかもと考えられます。このことは、私が参考にした藤本恵さんの講演録にも言及されています。また、彼女によると、「小鳥」のところを「カラス」、「鈴」のところを「鐘」と置き換えて替え歌をつくった学生がいたというエピソードもあります。こうすると、詩のイメージが大きく変わる(笑いの方向へ)ことがわかります。

また、みすゞの詩は調子がよく、よくいえば「読みやすい」「調子がよい」と言われますが、その調子の良さに流されて上っ滑りすることも気になる点です。個人的な好悪かも知れませんが「お空」と「空」に「お」をつけることも、ここだけなんだか「甘さ」を感じます。

みすゞの詩についてはこんなところでしょうか? 勝手な言い分を長々すみません。ご意見を聞かせていただけたらうれしいです。

参考論文
藤本恵。「金子みすゞ:読み物としての童謡」。

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お話会練習

今週金曜日に迫った中学校のお話会であるが、一人で練習となるとなかなか進まない。「煮詰まっちゃう」のである。昨夕、大きな新高梨を届けに来てくださったAさん(多趣味な方で朗読もなさっている)をこれ幸いとつかまえて、練習中の「八郎」を聞いていただいた。彼女は、ときどき声を出して笑い、最後には涙ぐんでいた。

「お話がまっすぐ伝わり、情景がうかんできた」との感想を頂いた。「八郎」は、学生の前でも「練習中」であるといって聞いてもらったが、彼らは声を出して笑うことはしなかった。笑わせるつもりで語っているわけではないが、笑ってもらうとうれしい。

Aさんも11月の発表会のために「蜘蛛の糸」の「極楽編」を練習中で、やはり「煮詰まっている」とのことだったので、極楽での語りはどんなものであるかなど、二人で試行錯誤を試みた。そういえば、昨日、誕生日メールをした妹もコンサートの練習中であると言っていたなぁ。彼女はゴスペルで? それともロック? 

まわりの秋はみな忙しそうである。

あの人はだれ

★ャネル5番のコマーシャルに出て来る渋い男性に引きつけられた。どちらかというとボソボソと「旅は終わるが、人生は終わらない」などとつぶやいているのを耳にしたとき、「ドキュン」とやられてしまった。思いついてググって見たところ、「ブラッド・ピット」であることが解った。「へー! あれが<ブラビさま>なのね」。私好みの良い男。しかし、彼の映画は『トロイ』しか知らないかったし、意識してもいなかった。渋い声で、"Wherever I go, here you are.""My luck, my fate, my fortune." とつぶやく男は別人のようだ。

『エリザベス女王お針子』(ケイト・ペニントン/徳間書店)をおもしろく読んだ。新刊ではないけれど、ブリッグズの『魔女と二人のケイト』繋がりで、あのあたりの歴史状況を補強するものをとさがした作品であったが、その点についてはあまり役立たなかったが(もちろんカトリックと英国国教会の対立が作品の伏線となっている)、女王暗殺陰謀を軸にした物語はスリリングであった。

今日のおつまみ

ピーマンの一品

頂き物のじゃがいもで「鮭じゃが」をつくったが、野菜をもう一品つけたしたくて作ったもの。千切りにしたピーマンを「チン」して、塩昆布とちりめんじゃこで和えたラクチン料理。メインは自家製味噌とみりんの漬け汁につけた鶏もも肉で。

お話会のプログラム

今月26日に予定されている中学校のお話会のプログラムを調整した。絵本3冊、お話(朗読)2つの作品を決定した。お話は、自分たちが選び持ちよったものですんなり決まったが、中学生相手に絵本を選ぶのはなかなか難しい。事前に何冊か選び出しておいたものから、相方に聞いてもらって選んだ。

最近、私は「ボイス・トレーニング教室」でひさびさに斉藤隆介に触れて以来、また、作品を読み直してきた。なかでも、「三コ」「八郎」の神話的壮大さに心惹かれているので、私の「お話」は、斉藤隆介のものから選ぶことにした。そして、相方はグリムのものを使うことになった。テキストは『子どもに語るグリム童話』(こぐま社)に依拠することにしたが、1カ所、気になる描写があったので、他の版や英語版を検討して、言葉を直して使うことにした。

2つの作品を軸に、導入、転換、終了の流れをつくるものとして絵本を選んだ。今回も、英語で絵本を読むという試みをしようと考えている。

斉藤隆介に関しては、「やさしさ」「けなげさ」の押し売りにならないように、むしろ神話的で、しかも、力も名もない民衆によりそうヒロイズムを表現できたらいいなと考えている。

昨日だったか、由紀さおりが「童謡を歌い、姉と声を合わせるため」、酒焼けの声ではいけないと思い、お酒を断ったというような話をしていたような気がする。これは、見習うべきか。私はいわゆる「カワイイ声」が出せない。

みどりのゆび(2)

ローズマリー1210
何回トライしてもうまくいかなかったローズマリーが根づいたので、昨日、少し大きな鉢に移し替えた。さて、これからが正念場。って、大げさ! しかし、失敗つづきの私としてはそんな気分である。下さった方の「なるべくいじらずに、水やりも控えて」というアドヴァイスも守ってきたつもりである。7月のすえに、これも教えていただいて、中心に伸びている枝を切ったが、切った下から新しい枝が元気に伸びているのがわかる。少なくとも私には。料理に使おうという魂胆で育てはじめたローズマリーだが、果たして、その目論見通りゆくのか、そうでないのか……。

自主練習のスタジオでは…

バレエの自主練習は敷地内のスタジオ(スポーツ施設のスタジオでのクラスレッスンとは違う場所)で行っている。このスタジオは使用者が責任を持って管理をする(消灯、掃除、施錠、受け渡し等)ことになっている。もちろん、管理者による清掃は定期的に行われるものの、終了時にはきちんと掃除して、次の人に使ってもらうようにしてゆくのは、使用者の当然のマナーである。

しかし、金曜日はいつ行っても、数本から十数本の長い毛髪が落ちている。部屋に入るとすぐ目につくところに落ちていることがしょっちゅうある。私たちの前に使っているのは、おばさんのフラ(ダンス)集団であることも、入れ替わりがあるから解っている。2度ほど、終了時刻を過ぎても部屋を引き渡してくれなかったので、その旨を伝えたり、ゴミが落ちていた時にも「掃除をしてください」と不愉快ながらも伝えたことがある。最近は、心がけて常識的な時間に部屋を明け渡してくれるようになったが、最初の頃は、外で待っている私たちを見るや「いるいる」と大きな声で反応していたこともあった。

そのような状況から明らかに掃除をしていないだろうとにらんでいるが、彼女たちは「点検用紙」の掃除の項目にきちんとチェックを入れているらしい。鍵を管理するセンターとしてはそれ以上の声かけは難しいらしい。

掃除をしていてこのような状況であるとしたら、いったいどんな掃除をしているのだろうか。平日の昼間に練習をしているのだから、基本的に彼女たちは、それぞれの家庭の主たる家事者であると予想できる。自分の家の掃除はどうなっているんだろうかと勘ぐりたくもなる。恥ずかしい話だ。

学生も含めて他人のふるまいにたいして不愉快に感じる事ばかりが続いている今日この頃だ。そういう事態を私が招きよせているのか、そうならばどうしたらその事態から逃れることができるのか、鬱々している。

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