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社会復帰

昨日から秋学期が始まり、<ドサまわりのフリーター>である私もおかげさまで社会復帰を果たした。「社会復帰ができるだろうか」と口にしたところ、「スイッチを入れるのは授業の始まる直前で大丈夫」というJ子アドバイスはあったが、やはり緊張するものだ。教師だって「登校拒否」になる。

授業資料をつくるために少し早めに車で出かけ、空き時間を見つけて、近くのデパートで「しょっつる」「ヒマラヤの塩」などを買い求めた。帰りも快適な走行で、横横道路では、搬送中の救急車を追い越して返って来た(私だけじゃないけどね)。

昨日のアクセス数がいつになく増加している。嫌な予感。
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気になる『辺境のオオカミ』の日本語

昨年9月より、<サトクリフ読書会>で読み始めた The Frontier Wolf を昨日ようやく読みおえた。これで、気になっていた箇所や不明の箇所を、日本語訳と対照して確認することできる。ということで、とりあえず、まだ印象が強く残っている最終章の日本語訳をブラウシングしたのだが、猪熊葉子先生の訳文にはかなりの違和感をもった。

じつは、日本語訳に関する芳しくない評判は知っていたのだが、じっさいに読んでみると、猪熊先生どうしましたか? という感じである。ネット上では、「原文でも、状況がとんでいたり、説明的な部分は省いてあったりするんでしょうけど、そのままだと日本の読者には物語の流れがわかりにくくなっちゃう」「こんな読みにくい本はたぶん初めてだと思う」「原書で読んだ人は、原書の方がおもしろかったと言っていた」などという意見がアップされている(引用はすべて「子どもの本に言いたい放題」から。)

日本語訳では、①訳者の解釈が必要な文が直訳調になっていて、わかりにくい箇所 ②物語状況の把握が正確でないために生じる不明瞭な日本語 ③明らかな誤訳と思われる箇所などが散見された。また、こなれた日本語とぎごちない直訳調の日本語が混在するために、読んでいて不自然で、不安定な感覚が生じるのも気になった。訳者が状況をはっきり認識しているときの日本語は読みやすいのに、そうでない箇所では、「?」がたくさんついてしまう。

最終章の第一文は「アレクシオスがすべてを知ったのは次の日の夕方だった(岩波少年文庫版、p351)」と始まるが、これがわかりにくい。前章の最後では、左腕にひどい怪我をしたアレクシオスが、ようやくたどり着いたオナム砦で意識不明に陥ってしまう。それを受けての上記の文である。ちなみに原文は、54語からなる長い文章である。件の日本語は、最初の1フレーズである "The next time Alexios knew anything at all clearly again, it was another evening " を訳したものである。「すべてを知った」というのは前後関係からして明瞭さを欠いている。おそらくここは、アレクシオスが再び意識を取りもどした、ということが書かれていると読むべきであろうが、英文そのものも必ずしも明晰ではない。「次にアレクシオスがはっきりと何かを意識したのは、別の日の夕方であった」というほどの意味ではないかと読める。また、アレクシオスが覚醒したのは「次の日」ではない。

アレクシオスは一週間以上人事不省に陥っていたのであるが、彼が無意識から目ざめたとき、さまざまなことを思い出す。その現実感を伴わない記憶やそれを思いだすぼんやりした様子を、サトクリフは「雲に浮かんでいたようようだ」「雲のはるかむこうの出来事」いう比喩をつかって表現している。比喩は読者がそれとわからなければ意味はないし、とくに子どもの文学では注意が必要だと思われる。その点でも、「雲がやってくる前に起こったことをアレクシオスは思い出し始めた(p352)」と直訳してしまうのは如何なものかと思う。ここでの「雲」は、意識不明の空白のことを示唆しているのではないだろうか。

また、先祖から受け継がれたアレクシオスの指輪についても気になる表現がある。「傷のある古いエメラルドの指輪は指にはまっていたが、ゆるゆるだった。注意しないと、なくしてしまうだろう。とにかくそれははめるべき指にはまっていなかった。だれかがそれを彼のためにはめなおしたのだろう」(p353)

なぜ、「指」としたのだろうか? アレクシオスはおそらく左手に指輪をしていたのであろう。しかし、左腕に大怪我を負ったアレクシオスの治療のためには、それは不都合なので、誰かが右手にはめ直したのではないかと推測される。原文でも "on the wrong hand" とあるのだ。また、エメラルドの指輪には確かに傷はあったが、ここでは "its flamed emerald" とあり、指輪は輝いている。

病床でアレクシオスは指輪をはめた手をかざして動かしている。「指輪の石に日光があたった。そしてその石の奥に小さな緑の火花が散り、そして消えるとまた目覚めた(p353)」。いったい何が「目覚めた」のだろう。もちろん、エメラルドの「緑の火花」が消えたり「目覚め」たりしたのである。しかし、「火花が目覚める」という表現は適切であろうか?

最初の数ページでこんなに気になるところが出てきてしまった。もちろん、さすがと感服した「こなれた日本語」もある。しかし、どちらかというと、文脈から外れていて理解できない表現が多く、文意を伝えきれていないのではないかというのが最終章を読んだ印象である。だから、「三人寄れば文殊の知恵」の読書会でも未解決だった疑問は残念ながら解決できていない。

開き直るわけではないが、翻訳には誤訳がつきものといってよい。また、翻訳者が作品世界に入りこんでしまっていて、客観的に自分の作品(訳文)を批評することが難しい場合もあるだろう。だからこそ、丁寧に正確に厳しく物語を読んで、言いにくい意見も率直にいえる編集者の存在が不可欠なのだ。最初の読者である編集者の責任は重い。この作品の場合はどのようなプロセスを経たのだろう。

サトクリフは必ずしも読みやすい作品を書いてはいない。石を積みあげて強固な建物をつくっていくようなサトクリフの緻密な英語には本国でも読者離れがおこっているときく。しかし、一方では「フェニックス賞(出版後20年後たった作品に与えられる賞)」を2作品で受賞している作家であり、永続的な価値を持っている作品を書いている作家として評価されてもいる。彼女の作品をすべての子どもたちが読むべきであるとは考えないが、確実に読みつがれてゆく作家であり、読みついでゆかなければならない。そういう作家の作品はどんなことがあっても守るべきであると考える。そして「守る」事の意味を考えたい。


「花咲き山」に思うこと

ボイス・トレーニングのセミナーを受けた夜、興に乗って「花咲き山」を声に出して読んだ。この作品を初めて知ったのは高校生の頃だった。当時、とても感動して、その言葉をハンカチに刺繍して、卒業記念としてあこがれの人にあげようと思ったくらいだった。刺繍そのものは途中で挫折して、その人にハンカチをさしあげることはなかった。

その後、まだアマチュア時代に、清水眞砂子さんの「『花咲き山』は子どもの文学としてむごい」というような趣旨の発言を聞いて、「やさしさ」で人を縛ることのまなざしとそこに存在する欺瞞を意識するようになった。そして、いま、ほんとうに長い時を経て、「花咲き山」を声に出して読んだ。なんと私は不覚にも涙を流してしまった。以来「涙」の理由を考えている。

読みはじめた時から私は山姥に感情移入していた。山姥の視線から、あやに語りかけ、あやを見つめていたと思う。あやの健気さ(といっていいかどうか、もっとふさわしい言葉があるようにも思う。この言葉を嫌悪する人もいるだろう。また、健気さを意識的に称揚することはあやういというのも承知している)が迫ってきたのである。

読みながら、私にも同じような経験があったことを思いだしていた。もちろん、私の場合は弟妹のことを思いやってのことではなかったが、3ヶ月も待った人形を、「さあ買ってあげる」と母に連れられていったデパートで「いらない」と言ったのだ。いや、いらないと拒否したのではなく、本当に欲しかった人形をあきらめて(この言葉は正確ではないかもしれない)、それより安い人形を買ってもらった(ように記憶している)。「本当にいいの?」と何回も問いかける母の言葉がいまも耳に残っている。多分、小学校の1年か、せいぜい2年生の頃だったろう。

日頃、泣き虫でわがままな(だといわれていた)私が決して豊かではなかった家庭の事情を慮ってのことだったのだろうか。一人っ子のアダチタカコちゃんが羨ましかった。長女だからとことさら我慢を強いられているという被害者意識もあったのかもしれない。そんな私が「いらない」と言ったので、母はびっくりもし、辛かったろうと、いまになって解る。しかし、記憶はそこで途切れている。本当に安い人形を買ってもらって家に帰ったのか、その人形すら買わなかったのか。あの時のわしこちゃんを思うといまでも切ない。

そんないろいろな思いが綯い交ぜになった私の涙だったのだろう。いまの私だったら「花咲き山」を受け容れることができるかもしれない。私の「花咲き山」は、「やさしさが花を咲かせる」ことを伝えるよりも、あやの存在そのものをつつみこむ物語だ。これは、声に出して読んだからこそ生まれた解釈であると思う。「やさしさ」などとことさら言わなくても、小さい人だっておとなと同じように、ことを直感し判断することがあるのだ。「健気」という言葉で括ってしまわないで(この言葉は明らかに相手を見下している臭いがある)、その人まるごとを自分の中に引きよせ、対峙しみつめてみよう。そこから、また新たな「読み」の可能性が生まれてくるのではないかと感じている。

ところで、「あこがれの人」とは英語の先生でした。生徒から刺繍入りのハンカチなんかもらったらさぞ迷惑だったろうに。さしあげなくてよかった。恥。斉藤隆介繋がりで、『ちょうちん屋のままっ子』も再読。何年ぶりだろう。文句なしに面白かった。私は好きだな。「八郎」や「三コ」のヒロイズムもこれから検証してみたい。

マグロのカルパッチョと牡蠣のコンフィ

マグロのカルパッチョ
牡蠣のコンフィ











おいしく頂きました。これは撮影用にあとから準備したもの。H女史とワインを飲みながら、器を評定していたときに思いついて写したのである。「その」時は、写真のことなど忘れてしまっていたのだ。瑠璃色の貝皿は一点もの。黒い舟形は確か「フラン・フラン」だったと記憶している。器は圧倒的に土ものが多い。土ものはすぐ欠けてしまうのが難点だが、大好きである。しかし、ピントが甘いのが気になる。ケータイだからか、初心者だからか。

朗読とボイス・トレーニング

敷地内で「朗読のためのボイス・トレーニング」というセミナーが開催されることになり、昨日1回目の講座が開かれた(全5回)。次回は予定があって出席は無理なのだが、そのほかはなんとか出席できそうだ。メンバーはお世話がかりさんを含めて8名と少人数のクラスである。メンバーのほとんどが、小さい人を子育て中か、子育て終了後の専業主婦である。

ストレッチと発声練習にかなり時間をかけているなというのが第一印象であった(ストレッチはまかせて!)。大きな声を発声する時に喉がかゆくなって困ったが、それ以降はそれほどでもなく、気持ちよく声が出せた。かつて受講した「朗読教室」では、「外郎売り」「牛」(高村光太郎)などを「発声練習」素材に使ったが、今回のセミナーでは、「いろはがるた」や北原白秋の「あいうえおの歌」などの教材が用意され、目新しくて楽しかった。「いろはがるた」は、江戸、京都、大阪と3種類をそれぞれ「滑舌の練習」として読んだ。「<いろはがるた>ね」とよく知っているつもりでいたが、とくに上方かるたには初めて聞くのも多かったあった。その後、「モチモチの木」を読みあい、それぞれ先生の講評をうけた。あっという間の2時間で、他人の朗読からも大いに触発されるところも多く、たのしく充実した時間を過ごした。「花咲き山」(斉藤隆介)や金子みすゞの詩なども朗読教材としていただいたが、このあたりのセレクションに関しては、朗読界独特の「クセ」を感じるわしこである。

帰宅して、意味のよく解らない「いろはがるた」を調べた。知ってはいるもののなんだか意味があやふやなものや誤解していたものもあった。ことさら勉強したわけではなく、日常生活の中で母親に諭されたり、会話の中で教わったりなどして覚えてきたものが多いことが実感された。そういえば、「かるた」ではないけれど、「貧者の一灯」とか「蟷螂の斧」などは成人してから母に教わった俚諺である。

「三辺廻ってたばこにしょ」は意味を誤解していた。「さあ、休憩だ」ぐらいの意味であると何となく思っていたのだが、まったく違うことが判明して、恥。「綸言汗のごとし」「下駄に焼き味噌」「幽霊の浜風」「栄耀に餅の皮を剥く」などは辞書で引いたり、グーグルのお世話になったりしたものだ。やはり、上方、京かるたに解らないものが多かった。同じような意味をもつものでも、江戸と上方では違っていたりして面白い。「鬼も十八(番茶も出花)」は「陰裏の豆もはじけ時」、「青菜に塩」は「幽霊の浜風」、「貧者の一灯」は「志は松の葉」に通じている。

いつまで経っても、知らないことばかりである。

牡蠣のコンフィ

久しぶりに、牡蠣のコンフィをつくった。★崎海産風にいうと「花瑠&花星」であるが、それを名乗ってしまうと、きっと商標法に抵触するだろうな。瓶はレモンカードの空き瓶を使い回し、色もきれいではないが、味は絶品のはず。多分…。少なくとも、先日生協で購入した缶詰よりも絶対おいしいはず! あのレベルでありがたがってはいけないのである。

自家製ラスクは試行錯誤の結果、今のところ、ペックのパン(名前がわからないが、縦長なまこ型のイタリア風のフランスパン???)を使うとひと味違う。先日、味にうるさいH女史に初めてペックのパンでつくったラスクをお出ししたところ、「これ、おいしい!」と感動してくれた。コンフィは土曜日の<キプリング読書会>の前菜にいただく予定。

花瑠&花星

カーテン越しに夜明けの空が見えるが、ほんとこんな朝っぱらから私はいったい何をやっているんだと一人つっこんでみるが、なんのことはない例によって本探しである。今回は、以外にすんなり見つかった。よしよし。

左手の薬指

不注意で左手の薬指を詰めてしまい、指の腹側が紫色になっている。使わなければほとんど痛みはないので、見た目よりもこちらのダメージは少ない。しかし、PCを打つとなるとこれがとても大変なことがわかった。いつも左手の薬指で打っているキーは小指で打っているので(さすがに痛む)、それに連動して、他の指の動きも不自然になり、左手の領域に右手が侵入してくることにもなっている。人間の体って、不思議でよくできているのだなと、あらためて感じ入った。

先週末にようやく高楼方子訳の『小公女』を読み終えた。手に取れば早いのに、なかなか手が出なかったのだが、CSで「小公女セーラ」(セーラ/志田未来、ミンチン先生/樋口可南子)の再放送を見て、高楼訳を手にしたのである。テレビドラマの方は、地上波で放映中にたまたまゼミで The Little Princess を扱っていて、ドラマを見た学生が「原作とはまったく違う」と憤慨していたことがあったので、あまり期待はしていなかった。しかし、「バーネット原作」と称してドラマをつくるのであれば、ドラマ自体が原作への批評になるわけで、今回はその視点から再放送を見た。樋口可南子をセーラに相対するミンチン先生として準主役にすえたあたりに作品に対する新たな読み(解釈)を見せようとする意気込みはあったように思われたが、最終的には尻切れとんぼで終わってしまったのというのが、私の感想である。惜しい!

高楼版では、東京女子大学の原田範行先生の「学校、インド、想像力」と題する解説がとくに秀逸であった(夫の感想の第一声でもある)。イギリスの教育制度やダイヤモンド鉱山についての歴史的な解説は、作品理解に多いに貢献している。本文にしても、翻訳者が児童文学作家だけに、日本語もとてもこなれていて読みやすく、原作との齟齬もほとんど感じられなかった。端正で丁寧なよい翻訳だと思う。で、高楼方子繋がりで『11月の扉』も読み直してしまった。

しかし、気になった所もある。アーメンガードに「でもいいの。全然いいの、そんなこと」(p153)と言わせているのには、びっくりした。会話では、「全然」が、「全然~ない」と使われずに、強調として使われるようになって久しいが(学生のその言葉使いを訂正する意思をもくだけさせるほど濫用されている現在である)、文章でお目にかかったのは初めてかもしれない。翻訳つながりでは、河合祥一郎氏訳の『ドリトル先生航海記』についても思う事があり、そのうち「翻訳」についてじっくりまとめて見たいと思っている。

ところで、上記の学生の「原作とまったく違う」発言は、「原作とは全然違う」と言いかえても、不自然に感じないが、如何だろうか。この場合の「全然」は強調として使われている。ということは、「全然」にはもともとそのような意味が含まれていたのだろうか? しかし、私は心して「全然大丈夫」などとはいわないようにしているが、ひょっとして無意識に使っていないだろうか。こわい。

薬指のことだけを書いて閉じようとしたこのエントリだったが、ぎごちない指動きでかえって、筆が進んでしまったのはどういう訳か。

こんな本読みました

<英米児童文学>の授業で扱った「シンデレラ物語」をさらに深めたく、8月の前半は、シンデレラ型の昔話を読んでいた。それぞれが、微妙に違っていたり、お国柄が出ていたりで非常に興味深かった。来年度の4ゼミ(予定)は持ち上がりがないので、おそらく少人数のゼミになるだろう。そんな思惑もあって、<シンデレラ研究>として、物語分析、絵本分析、作品分析を3つの柱に据えて取り組もうと考えている。真ん中のケヴィン・クロスリ=ホランド編による北欧伝説・昔話集も楽しく読んだ。


books 0901

自堕落に過ごしてしまった8月であったが、今日から心をいれかえて(あー。夏休みの宿題を最後まで残してしまった小学生みたいだ)、勉強しよう。

久しぶりの<わしこの昔話塾>では、協議の結果、次回からClevere Gretchen を講読することになった。昨日は、ファージョンの小品 "The Flower Without a Name" を丁寧に読んだが、彼女のぴりりと皮肉の効いたユーモアって理解されるんだろうか、と考えこんでしまった。花に名前がないからと、それを「なきもの」にしてしまった人間の浅知恵を名前なんかなくても「花そのもの」を大切にしているクリスティを置くことで浮き彫りにしている。物語が象徴的で深いが、それだけに、物語そのものを楽しむことはなかなか難しいように感じた。また、受講者からは、作品に底流する「キリスト教的発想」が理解しづらいとの意見も出された。<サトクリフ読書会>も10月から新しいテキスト(Shinning Company)になる。

『名作英文学を読み直す』(山本史朗)を再読して(『マクベス』論が面白かった。ほかにもいいたいことはたっぷりあるが…)、河合祥一郎氏の存在を知った(前回読んだときにはスルーしたのね)。『『ロミオとジュリエット』恋におちる演劇術』には大いに触発された。とくに、シェークスピアのソネット形式が演じ手の感情と連動しているという指摘には、なるほどそうなんだとと納得。彼の翻訳した『不思議の国のアリス』も手に入れた。文庫本だから、本の堆積層に埋もれてしまわないように、要注意!

西山利佳さん『<共感>の現場検証』は、いまだ少しずつ読書中。一気に読んでしまわないで、じっくり考えながら、考えながら読んでいく。そうだ、同シリーズの『<物語>のゆらぎ』(奥山恵)も再読しよう。西山さん繋がりで、加藤典洋『言語表現論講義』再読中。ああ、読みたい本、読むべき本が芋づる式に増えてゆく。机やテーブルのまわりに本が<フルヘッヘンド>している。

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