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ナビちゃん(2)

私のナビちゃんは落ち着きが悪く、運転中にひっくり返ること2回。先日は、買い物おわりに、転倒が「2回目である」ことを強調し、★ート★ックスでしっかり直してもらった。というわけで、昨日は安心して仕事先に向かった。しかし、昨日彼女(声が女性)はなぜか混乱しており、案内も途中とんちんかんなのだった。まぁ、知ってる道だからいいけどさ。

そんなナビちゃんなのに、帰り道、片側二車線の交通量の少ない道路での信号待ちからのアクセルの踏み込みに反応し、「急発進です。運転に注意しましょう」などといいだしやがった! ちょっと面白かったので、もう一度、別の場所で、交通量の少ないのを見きわめて、アクセルを踏みこんでやった。やっぱり、「急発進です」と反応した。1回目の「ナビちゃんが感じた」急発進は、信号待ちの時、前方に路駐車が見え、右車線の車を押さえて前に出たかったのである。私の車は、言うことを聞いてくれるよい車で、ステキな発進だったのにそんなことを言うなんて。横の車は、私の気配を感じたのか、じりじりと見切り発車をしようとしていたが、直前で、ギブした。

ナビちゃんより車の方がカワイイかも。しかし、こんなことをブログに書いていると知ったら、ナビちゃんは「ちんぷりかいて」しまうかもしれない。内緒にしておいてください。

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みどりのゆび

母は花が好きで、いろいろな花や植物を植えては楽しんでいたものだ。朝食がすむと、後片づけもそこそこに庭に出て、ひとしきり花の様子を見ている姿が思いだされる。母が亡くなった翌年の夏の初めに、紫陽花がこれでもかと咲き誇った姿に胸を痛くした。母は頂き物の「カトレア」さえ、もらった翌年も花を咲かせるほどの腕前だった。

わたしはと言えば、ウサギ小屋住まいでもあるし、ゴミやホコリが嫌で、ベランダには何も置きたくない主義を貫いてきた。しかし、料理に使う香草だけは何とかしたいと、「ローズマリ」「ロリエ」などの挿し木に挑戦するも、ことごとく失敗し、私には「みどりのゆび(親指)」がないものだとあきらめてかかっていた。ところが、先日種から育てた「青じそ」が、1週間目にして小さな芽を出していた。小さな葉っぱが愛おしい(最近の「青じぞ」はなんだか薬臭くて、薫りが弱くおいしさが減ったと感じるようになったので、★協でキットを購入したのである)。

2009年10月に、実から植えた椿も今年はつやつやした緑の葉っぱをたくさんつけている。宅配便のお兄さんに「これ本物ですか?」聞かれたが、それほど、みどりが若々しく輝いているのだ。お見せしたいが、私のケータイは、オ★カなので、写真を撮ってブログに転送する機能はついていないのである。ついでながら、こりずに頂いたローズマリも今のところ順調である。

五味太郎。『みんながおしえてくれました』。(Ⅱ)

学校は「生きてゆくための本質的なこと」は教えず、「いろいろこまかいこと」しか教えない存在なのかという議論はともかく、五味にとっては「学校はそういう存在だった」ということであろう。これは、彼の様々な著作から了解できることである。「五味は学校を呪詛している」というのは私が敬愛するS氏の言葉であるが、この絵本は、「学校を呪詛すること」をエネルギーの源泉として作られている絵本でもある、と言っても言い過ぎではないだろう。

どうやら『みんながおしえてくれました』(1979)、『大人問題』(1996)、『むかしのこども』(1997)は同じライン上にあったのね。今振り返ってわかったことなんだけれどさ。思想とまでは言えないけれど、なにかもう揺るぎない理想論みたいなものがぼくのなかにあるみたいだね。(中略)『みんながおしえてくれました』はぼくの絵本作業のなかで初めて発言するという気持ちで書いた絵本なんだと思うな。そのころはあまり意識してはいなかったけれどさ。(中略)そして遅ればせながらぼくの中に世の中一般の「子どもの本」という存在のあいまいさや、教育システムの不合理みたいなものをあらためて考えてみる気がでてきたような気がするな。(中略)いま『みんながおしえてくれました』をあらためて読んでみると、うん、充分に描けているじゃないか、と思う。(『絵本をつくる』、ブロンズ新社。2005年。p73~p74)

『みんながおしえてくれました』は、初版が1979年(1983年初版となっているものもある)で、79年には『さる るるる』『ことばのあいうえお』をはじめとして、全部で20点の絵本が出版されている。これ以後、出版点数は爆発的に増えている。五味太郎の絵本作家としての出発点が、1973年の『みち』(福音館書店/絶版)であり、1978年までの彼の作品の出版点数がすべてあわせて17点であることを考慮すると、この『みんながおしえてくれました』は、五味太郎のキャリアの中のごく初期(の最後)に描かれたものであると判断できる。さらに、上記のように、ずいぶん後になって彼自身が「充分に描けている」と評価しているが、同じようなテーマを持つ『正しい暮らし方読本』(福音館書店/1993年)と比べると、アプローチの手法やユーモアの使い方に関して洗練度に違いがあると感じるのは私だけであろうか。

また、彼の根底にあると思われる「じょうぶな頭とかしこい体(言われたことの意味をたしかめ、決められたことの内容を考え、必要があれば問題をとき、自分のために楽しい仕事をさがし出し、やるときはやるし、さぼりたいときはすぐさぼる)」というテーゼは、残念ながら現行の学校教育の中では実現し得ない。とすると、この作品を「学校へいって先生から学び、なにより友達がたくさんいるのが一番ですね(「絵本ナビ:みんなのこえ」から)と読んでしまうのは、大いなる誤読であると言わざるを得ない。

最終場面の「なにしろ/ともだちがたくさん/おりますから/どうみても/りっぱなひとになるわけです」では、主人公の女の子は隣の子に髪の毛をひっぱられているし、友だちは、てんでに好きなことをやっている。この絵に、「どうみてもりっぱなひとになる」というテクストかぶさると、「りっぱなひと」という言葉が浮遊してゆく。その言葉と絵との遊離は、「りっぱなひと」という概念を無化し、無意味化してしまうだろう。だから、少なからずの受講生が混乱し、「よく解らなかった」と感じ、「何とか書評をひねりあげた」という感想がでてきたのだと推測できる。しかし、それが五味の狙いだったのではないのだろうか。

「絵本ナビ:みんなのこえ」には「最終ページにいくにつれてだんだん内容の意味がわからなくなってきます。読み終えても『一体この絵本は何が言いたいんだろう??』と未だに疑問です」という声もあったが、「★★は☆☆におしえてもらいました」というくり返しに、心地よく揺さぶられながら、その揺さぶりに身を任せて後半部分を読んでゆくと、心と身体が頭から分離してゆく違和感がある。それが、「??」の理由ではないか。違和感に敏感でない読み手は、力技で「学校へいって先生から学び、なにより友達がたくさんいるのが一番ですね」「ともに教えあうことのすばらしさがあります」と読んでしまうのかもしれない。

もちろん読者には「誤読の権利」がある。誰がどう読もうと批判されるべきではない。しかし、それが許されるのは、「素人の読者」であるという限定括弧付きである。教師や図書館員をはじめとする子どもの読書に関わる人は、自分を鍛えて、できうる限り誤読を避けるべきだというのが私の持論である。それが、子どもに対する責任なのだ。

ある受講生から「家族の不在に不気味さを感じた」という意見が出されたが、誤読を承知で、家族を描かなかった五味の意図を探りつつ、この意見に対して私自身の読みを展開するとするならば、私はこう考えたい。この作品は、子どもの周りにいて、子どもを支えるおとなは、ある時には「歩き方を教えるネコ」になり、ある時には「おなかの冷えない昼寝の仕方を教えるワニ」なり、また、ある時には「土の上の出来事や土の中の秘密を教えるアリ」にならなければいけないと伝えているのではないかと。したがって、実は、この作品は、前半では理想のおとな像を語っていると読んでみたい。いささか、強引かもしれないが、いかがであろうか。

絵本であろうと物語であろうと、おとなの小説であろうと、やはり、文学批評はおしなべて、理性的に論理的に読者を新しい「読みのステージ」に導くものであるべきだ。そのために、その場にいるものは、自分を鍛えるしかないのである。


五味太郎。『みんながおしえてくれました』、絵本館。(Ⅰ)

複数の書評や紹介文から疑問を持ちはじめてほぼ1年、満を持して、『みんながおしえてくれました』(五味太郎/絵本館)を授業で取りあげた。授業のテーマを「書評とはどのような行為か」「児童図書館員としての作品評価の姿勢」とし、事前に受講生から提出してもらった200字~300字の書評をじっくり検討しながら、作品を読み解こうという試みである。

授業の場では、ごく基本的な日本語表現についての疑問から、自分の読みをどのように言語化するのかというかなり高度で実践的な問題にいたるまで多くの課題が出てきたが、結果として、受講者全員が書評について基本的な問題意識を共有することができた、充実した授業であったと思う。

書評とは、①作品に対する自分の評価を言語化したものである。②評価をするためには、まず、自分の「読み」を検討し、提示すること。③作品を「読む」とは、自分と作品との向きあい方を問われることである。つまり、作品を通して、自分自身の世界観や価値観を再点検する機会であること。④「読み」は多様であるが、とりわけ、子どもの本のための書評では、「誤読」を避けるために最大限の努力をし、自分を鍛える必要があること。深く読む努力を惜しむ人は、子どもに関わるべきでない。ここを前提に、一つ一つの書評を検討した。

結論からいうと、『みんながおしえてくれました』は強烈な学校批判を含んでいる作品といえる。ところが、ネット上で見かけた「カストマーレビュー」や「おすすめ評」では、「周りから何かを見て学ぶ事、 色々な事に興味を持つ事、何でも良く考える事、積極的に人に聞く事、周りの人や生き物のありがたみ(中略)が、ごく自然に、シンプルに、ポジティブに描かれています」というようなごく表層的なコメントがほとんどで、前半(見開き15画面のうち4分の3をしめる12場面)と後半(見開き3場面)の連続性と非連続性を読みきれていないための誤読、後半部分のテクスト「それにそもそもわたしはかんがえるひとでもあるし」から始まり、「ほかにいろいろこまかいことはこのひとたちがおしえてくださいますし」「どうみてもりっぱんなひとになるわけです」のサーカズムの響きを理解できなくて、後半部分も前半の繋がりから「みんなに助けられていることの大切さを伝える」絵本であると読んでしまった評者も少なからずいた。

しかし、後半にはいると前半の「★★は☆☆がおしえてくれました」という包みこむような柔らかい調子が影を潜め、テクストは、一変して皮肉な調子で語られる。ここは、「字面」だけではよんではいけないところだ。字面だけを追うと誤読をしてしまうだろう。声に出して読んでみるとよい。前半の調子と違うことが体感されるだろう。

第1場面の「あるきかたはねこがおしえてくれました」から第12場面の「うたのことはことりにおしえてもらいました」まで、ひとつひとつの行動をそれが得意の動物たちに教えてもらうというテクストと絵の流れから、主人公の少女のよろこびがゆったりと伝わってくる。後半の3場面は、「自分の部屋で考える主人公」「学校」「友だち」の場面と続き、慌ただしく収束に向かっているとさえ感じる。とりわけ学校の場面では、校舎を背景に3人の先生が主人公の少女を待ちかまえて、「ほかにいろいろこまかいことは/このひとたちがおしえてくださいますし」と語られていて、絵もテクストも意図されたおざなり感がある。つまり、ここで五味は「学校では生きてゆくための本質的なことは教えない。こまかいことしか教えない」というメッセージを発信しているのだ、と読めないだろうか。(この項続く)

ああ、勘違い(駄)

「総選挙」ってゆうから、国政選挙かと思ったよ。消費税問題でもめているし…。AKB48の総選挙なんだって。そういえば、しばらく前に、AKBの★★と☆☆が「センター狙う」というリードが検索画面に出てきたことがあり、「あぁ、大学に行って勉強すること考えてるんだ。まともじゃん!」と思ったことがあったが、「センター狙い」とは「センター試験」を目指すのではなく、舞台での立ち位置のことだったんだ。ああ、勘違い。ところで、卒業する子にそっくりな子がいるんだけど、AKB。

英語の授業を持っている某大学の学生について発見したこと。国文学専攻と外国語(おもに英語)専攻の学生の2クラスを持っているんだけど、なんと、国文学専攻の学生の方が英語ができる事を発見! 結局、偏差値で振りわけられてしまうてことね。だから、英語嫌いなのに(でも、日本語の感覚や読書力も相対的に低いのだが)、英語をやらされる学生ちゃんは気の毒だけど、教える方の身にもなって欲しい。

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