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知的であること

石原千秋先生(早稲田大学)は漱石研究者であるが、それ以外の著作も多くものにし、その秀れた知見には深く敬愛している。その著作の多くに触発され、共感することが多い。

期末のレポート提出が近いせいか、最近学生から「レポートに関する質問」を受けることが多い。必読図書として石原先生の『大学生の論文執筆法』(ちくま新書)を読んでいるはずなのに、残念ながら読めていない学生がいることにも気づく。もう一度授業で再読を促すために、昨日は『大学生の…』を再読した。第2部の「線を引くこと」は論文(レポート)というものがよく解っていない初年度学生にはかなりハードかもしれないが、それでも、前半の「線を引くこと」の意味だけはしっかり読みこんで欲しいと痛感した。

「線を引く」とは、ある価値観(複数)で物事(テクスト)を判断する事に通じ、それを自覚的に獲得しなければ、(自分にとって)新しい「読み」など生まれてはこない。彼らのレポートを読むと、どんな作品を読書課題にしても、「一生懸命努力すれば報われる」「自分の信念を貫くことは重要である」「相手に思いやりを持つ」など、誰に教わったのか、使い古され手垢にまみれた道徳的お題目を垂れ流していることが多い。

「テクストを読む」とは、読み手の道徳観や人間性をを問うていることではないが、どうしてこんなふうになってしまったのだろうか。一つ確実にいえることは、小学校から高校までこのように「読まされて」きて、何も疑問を持つことがなかったからであろう。というか、それでこそ「よし」とされてきたのだろう。これを突き崩すには並大抵のことではない。例えば、「昔話は勧善懲悪である」と思いこんでいる学生には、「盗っ人かか」や「のま」を読んでごらんすすめてみる。「努力すれば…」は、「神話」にすぎないことは、すでに自らの体験で十分承知のうえだろうに、しがみついているのはなぜだろう。他に拠ってたつ価値観を見いだしていないからなのか。

何とかしたいのだが、教員のできる事など極く限られている。レポートを丁寧に添削し、読書を奨めるために「ブックリスト」をつくるぐらいだ。こんな事を思い悩んでいると、虚しくなって落ちこんでしまう。しかし、思わぬところで石原先生に励まされもした。

知的でない人間は、対話や議論を拒む。「いけないことは理屈ではなく、有無を言わさずいけないとおしえなければならない、それが品格というものだ」などという人間に知性は存在しない。こういう知的でない言語が大衆受けするのは、「いけない」ことの内容を自分で勝手に代入して、現在の自分の立場を無反省に正当化できるからにほかならない。これが大衆の保守化である。平成大不況の中で疲れ果て、知的に考えることが面倒になってしまったのだろう。しかし、何度でも繰り返すが。そこに知性はない。(石原千秋。『大学生の論文執筆法』、ちくま新書。pp135-136)

ああ、そうなのねとしみじみ納得した。知的な学生を育てるために何をすべきなのか。「知的でない人びと」のモデルの方がたやすく見いだされるこの状況を認識することから始めなければならないのだろうか。「知的であること」を内面化しているだけでは、ことは解決しないのだということは了解した。
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"I'll blow your house! "

山の上にある大学では、最寄り駅と大学を往復する教職員専用のスクールバスが用意されている。昨日の帰り、5限終了後出発のバスに顔見知りのアメリカ人教師(女)が息を切らせて走ってきた。このバスに遅れると、あと20分はバスがない。授業がずれ込んでしまい、そのバスに間に合いそうもないときには、キャンパス内を走りに走って、正門でも止まるバスを先回りして待つこともある。ならば、なんとか始発から出発するバスに間に合うようにしたいのが人情というものだ。

彼女はバスに乗りこむとき小さな声で "(I'll) huff and puff." とつぶやいた。普通ならば聞こえないはずのつぶやきだったのだが、入り口に座っていたわたしには聞こえてしまったのである。「あれれ?」と思っていると、すぐそのあとに彼女は "I'll blow your house! " と続けたのである。「やっぱり『3びきのコブタ』だ!」と思ってうれしくなった。

自分が息を切らした状態を、「ぜいぜい(huff and puff)」と独り言をつぶやき、その言葉につられて思わずでた "I'll blow your house!" だったに違いない。彼女に確かめると、「バスに遅れそうになっちゃったから走ってきたの」と少しはにかみながら話してくれた。ああ、こういうふうに言葉と身体は繋がっているのねとしみじみ感じた、希有な体験だった。

ちなみに日本語では、「フーッとふいて、プーッとふいて、このいえふきとばしてやるぞ!」という狼のセリフである。本当はもっとつっこんで聞きたかったのだが、なんだか彼女が照れてしまったので、残念ながらそれ以上話は聞くことができなかった。

昔はいま?

朝の連続ドラマ「カーネーション」では「聖戦」を楯に、小原糸子にミシンの供出を迫るおばさんたちが登場した(隣組か)。権威や権力を笠に何も考えることなく迎合している女たち、いるんだなぁ。

学校図書館活動の先駆者である増村王子さんの『本とわたしと子どもたち』(国土社/1986年刊)を興味深く読む。氷川小学校における学校図書館活用教育が気に入らず、久米井校長のあとに赴任してきたO校長は、「わたしは学校図書館はやらない。したがって、今後はあなたの援助はいっさいしないからそのつもりでやるように」(p86)とのたまったそうだ。いるんだなぁ。

松井るり子さんのブログ

『ふしぎなふしぎな子どもの物語』(ひこ田中/光文社文庫)によせた松井るり子さんの見解(「るり子の日記」)に激しく共感する。彼女は、「本もマンガもアニメもゲームも、媒体が違うだけで子どもに物語を提供する点で同じ」というひこ田中さんの見解に、「素材感が違うのでは」と疑問を呈している。

わたしはゲームをやらないし、アニメも見ないので、それぞれのメディアについてはまったく語る術を持たないのだが、彼の刺激的な著作を読んで以来、気にはなっていた。FFがだいすきな同世代の友人にたずねてみたところ(彼女は読書家である)、「すべて自分でクリアする限りにおいては、自分のなかで物語を作ることができる」というようなことを言っていたが、仲間たちとの情報交換や「クリアブック」などに頼っている限りは、「物語をつくることはできないだろう」ということであった。自力で解決してはじめて眼前に物語が立ちあがるということか。

わたしが暮らす集合住宅の玄関ソファーにたむろしながらゲームに興じている子どもたちの姿を見る限り、彼らが物語を手にしているとは思えない(もちろん外からでは解らないが)。

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