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再会!

秋学期が始まり、ようやく1サイクル授業が終わった。ほとんどの科目がゼミ系統の通年科目なので、久しぶりに学生たちと再会することになった。ゼミをはじめ通年科目を受講をしている学生には、夏休みの課題(指定図書から8冊+『大学生の論文執筆法』を読んで、うち4冊のレポートを書くというきつい課題)を出していたので、それを集めつつ休暇中の出来事などを情報交換した。ほとんどの学生(確信犯で欠席した生徒がごく少数いたが)がきちんと提出してくれたことには感動した。とくに、1年生と3年生。中には、「一生で一番たくさん本を読んだ」といった悲しい学生もいたが、本を読んでくれなきゃ困るし、課題をクリアする中で、「学び」や「読書」ついて少しでも考えることになったらよしとしよう。

3年生は、全員出席し、全員レポートを提出してくれた。彼らの夏休みはさまざまだったけれど、しっかり遊んだりバイトをする中で、かなりの学生が東北(宮城、岩手)へボランティアに出かけていてくれたことがわかり、胸がいっぱいになった。「みなさんのことを尊敬します」と話したが、ほんとうにステキな学生たちだ。ありがとう。
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『頭痛…』から繋がって

井上ひさしほか『井上ひさしの言葉を継ぐために』(岩波ブックレット)を読んだ。とくに、井上ひさしの講演録である「原爆とは何か」には、強く思索をうながされ、深く心を動かされた。「原爆とは何か」は必然的に「原子力とは何か」「原子力発電とは何か」を考えさせることに繋がってゆく。

3.11以降、ヒステリックに「放射能被害」を訴える発言(極端な例は、福島原発より数10㎞は離れているのに、喉が痛い、目がかすむ、鼻血がでる、挙げ句の果てには、地震も台風も人為的なものだという)には強い違和感を持ち、また、この時点で性急に「原子力発電支持」を表明する人には、新しく首相となったあの人も含めて警戒感を持っていたのでここでの発言は控えていた。

しかし、この講演録を読んで、自分の曖昧な態度でさえ、ある流れに加担しているということを思わないではいられなかった。

震災の復興には、世界トップテンにはいるほどの軍事費から出資すればよいのではないか。また、いまここでもう一度「憲法九条」問題を考えることが必要ではないかと感じた。

作りたい料理

燻製料理もそうだったが、「食べたい料理」より「作りたい料理」が最近のマイ・ブーム(死語?)である。先日は、豆腐を使ったマヨネーズ風ディップをつくり野菜スティックで食した。オリーブオイルを少々入れただけで卵も使ってないので、ローカロリーデップとなり、「野菜を食べたのかディップを食べたのかどっち?」という結果になった。しかし、いわれなければ豆腐とは解らず、ヨーグルトのようだった。味に深みを出すために甘みを加えるべきだったのかもしれないが、料理の甘味に砂糖は使いたくないので(普通はみりんを使う)、砂糖は入れずに仕上げた。そのためか、少し酸味がとがった(シークヮーサージュース)ディップになった。改良の余地あり。

さて、昨日は久しぶりに、生地もソースも手作りのピッツァに挑戦した。しかも、生地は米粉とBPで作った(イースト発酵は苦手)。トマトソ-スは自慢じゃないが「絶品」であったが、やはり生地に難点があり、粉っぽいというか、半焼けっぽいというべきか、ネット上で見つけたレシピの「クリスピー」というよりは、煎餅的な部分と具の乗った非煎餅的な部分が混在していた。トマト、タマネギ、ピーマン、ツナ、生ハムがどっさりのった、こちらもトッピングやチーズが主になったピッツァとなった。じゃぁ、次は生地をじゃがいものミルフィーユにしてみたらどうだろうか? これはいけそうな予感がする。

『頭痛肩こり樋口一葉』

敵からまわってきた『頭痛肩こり樋口一葉』を読む。井上ひさしは好きだけれど、何故か戯曲(脚本)は敬遠していた。なんともったいないことをしていたのか。深く反省。

誰が演じたのかググって見ると、さすが初演のキャストは馴染みのない役者ばかりだけど、2009年には、夏子(樋口一葉)役に田畑智子、邦子役に宇野なおみ、花蛍に池端真之介(ピーター)で上演されたらしい。うーん、みたかった。

まさに、私たちは「世の中全体に取り憑くことはできない」、ならば、私は何を目指すのだろうともう一度じっくりと考えてみたくなった。ちょっと自分のおしりを叩いてやらなくては…。

鶴岡へ

毎年恒例の鶴岡へ出かけてきた。C小では5年生の国語の授業を見学した。PISA型設問に対応した教材(多様な資料から説明文を読み解き、自分の意見をまとめる)を使っての授業であったが、教材研究に未熟さが残っていたのだろうか、教師が子どもたちの疑問をすくいあげることができないまま授業が進められてしまった場面があったのが残念であった。子どもたちの授業への関心や意欲がすばらしかっただけに、この点については心が残った。これは、教師だけの責任ではなく、教材の構成と課題の設定という教科書そのものにも大きな欠陥があるように思われた。教科書を編集した編集執筆者自身が教材を読みきれていなかったため、単元の方向性にブレが生じたためと推測できる。

私にとっては久しぶりの「授業研」で、校舎も新しくなり、校長先生も変わり、顔見知りの先生も転出され、教師集団の雰囲気もかつてとは違うものを感じた。校長はほぼ2年ごとに代わり、教師も例外はあるものの4年で転出となると、あっという間に「浦島太郎状態」になってしまう。このような状況の中で、「図書館活用教育」を定着させてゆくことは、予想以上に困難であろう。

もとC小の研究主任だったS先生が勤務されるA小学校では、1年生から4年生の子どもたちと絵本や物語をわかちあった。4年生の子どもたちには「なぜ大学の先生になったのか」というテーマで(総合学習への導入)、昔話絵本(『おおきなかぶ』)の比較をするというミニ授業をした。

わかちあいでは、今年は川端誠『うえきばちです』を使わず、織田道代「愉快な夜想曲」(絵本では『あるのかな』)や長谷川義史『いいからいいから』を用意していたのだが、思っていたよりも食いつきが悪かった。あとになってA小の3年生のほとんどの子が幼稚園の時によく読んでもらっていた絵本(『いいからいいから』)だったことがわかった(こういうのは辛い。3年生ともなるとシビアだ)。というわけで、1、2年生には、絵本はやめて、詩「愉快な夜想曲」を紹介した。1年生に「○○に××はあるのかな」と問いかけると、みんなで声を揃えて「なーい」と楽しそうに唱和するのが予想外で面白かった。この詩については、1年生と2年生の反応にも大きな違いがあって、興味深いことであった。1年生の方がのりがよかった。

1,2年生には、ペープサート「いちもくさん」と絵本『ひゃくにんのおとうさん』をメインにした。すべてのプログラムが終わったとたん、子どもたちが文字のペープサートに押しよせて、手に手にペープサートを持って両手で回し始めたのがかわいらしかった。ペープサートを動かしてくれたのは、ボランティアのお母さんと先生がたであった。ありがとうございました。

また、A小ではボランティアのお母さんや図書館コーディネーターの方たちとの懇談会で「言葉の獲得と物語体験」をテーマにお話をさせていただいた。ボランティアの研修やスキルアップに関してはどこでも困難を抱えているようだ。こちらの要求度が高いと敬遠され、定着しないのは悩みの種だ。「地域のおとなが学校に入り子ども支援に関わってくれるだけでありがたい」という意見もあるようだが、それでも、子どもに関わるボランティアに関しては、自覚的に問題意識を持って取り組んで欲しいし、あるレベルの技量や知識は不可欠であると思うのであるが…。

光原百合『イオニアの風』を読む。

光原百合『イオニアの風』を堪能した。2段組み、367ページで、活字も文庫本並みに小さくて結構読みごたえがあったが、ワクワクしながら面白く読んだ。

ひと言でいえば、ある種の「ギリシア神話的神々の黄昏」(神々と人間との間に断絶が起きるという意味で)といえるようなテーマを持った、「ギリシア神話をベースに作者が勝手に展開させた物語」(作者あとがき)である。例えば、ギリシア神話本編では、事実としてのみあっさり語られる、トロイ戦争後のアガメムノンのエピソードやそのほかもろもろの出来事やエピソードに作者の想像力で肉づけがされ、説得力を持った作品になっている。もちろんこれは、近代的小説が人間の内面を描く技巧を習得したからこそ可能になったといえるだろうけれど。

そのため、アガメムノンとメネラオスの関係や、ヘレネの結末など、光原さんの作品はじんと心にのこるものになった。とはいえ、作品の中心であるテレマコスとナウシカアの冒険の旅は、神話的世界観の上に展開されたからこそ、その気品や高潔さにリアリティがあるともいえるのである。

神話が断片的な記述の集大成であるのは周知のこととしてあるので、合理的な因果関係や理由づけなどはあえてしないではいたものの、やはり、作家の想像力できちんと物語化されるとおもしろい作品に結実するものであると今さらながらに感心した。なかでも、ローズマリ・サトクリフの『オデュッセイア』、『トロイの黒船』(イリアッド)と比べても、ギリシア神話を「独自に展開させた」という点では大きく凌いでいるといえるかも知れない。再話をこの作品と同じレベルで議論することはルール違反であることは承知しているが、「ギリシア神話系」という大きなくくりの中で考えたとき、この作品には独自のおもしろさがある。日本語も美しい。

「あかちゃんのぎゅうにゅう」その後

E=ラーニング大学の学生が、先日筒井頼子さんの講演会に出かけた折、例の「あかちゃんのぎゅうにゅう」の件について、勇気を振り絞って質問してくれたらしい。先日、彼女からその顛末の報告を受けた。

どうやら、筒井さんの意図では、牛乳が飲めるぐらいのあかちゃん(筒井さんの次女)を想定して作ったとうのがそのお答えだったそうだ。けれども、林さんのイラストレーションでは、小さい子どもを一生懸命育てている様子が丁寧に描かれ、お母さんの大変さがより伝わりやすいと考えてそのままにしたというお話だった。筒井さんは、とても誠実に答えてくれたようです。

なるほど、やはり微妙な齟齬はあったのだと納得しました。お話作りの核には、「(ご自分の)長女の背中を押してやりたい気持ち」があったのだそうです。私が直接伺った訳ではないのだが、あのエントリにはいくつかコメントもつき、気になっている人もいるかも知れないと思い、報告させていただきました。

いま、私のなかにある問題の一つに、「誤読の責任」というものがある。テクストであれ絵であれ「誤読」を避けることは困難である。いやむしろ、「誤読の自由」という言葉すらあるわけで、だからどうなんだということになってしまいそうだが、初歩的な「文学テクスト」を誤読した上に、子どもとわかちあう状況があったとしたらということを考えている。


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