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Literature Circle という方法

今年2月に訪問した小学校で、「Literature Circle」という読書教育方法の実践資料をいただいた。そういった方法論があるということは知っていたが、実際にどのように行うかについまでは勉強不足の状態であった。また、本(Literature Circle: Voice and Choice in Book Clubs & Reading Groups)を読んだだけではなかなか理解しにくかったのが、実践資料を参考にすると、おかげさまで、解りにくかったところがすっきりした。

この方法は、複数の人間が同じ本を読み、それぞれに役割を与えられ、役割にそった形でディスカッションの材料を提供し、個人の読みを集団でわかちあい、作品を理解し、それぞれが読みを深めることが目的である。例えば、「Summarizer」は、与えられた部分の内容を簡潔に紹介し、「Reseacher」は、その作品の背景にある情報を調べるというものである。そのほか、「Connector」「Questioner」「Literary Luminary」「Illustrator」「Word Wizard」「Scene Setter」と基本的に役割は8つある。個々の役割が、別の役割と少しずつ重複しながら、独自の調査や読みを要求され、いわば「読者反応批評」を基盤にした方法論である。

というわけで、今年のゼミは(3ゼミ、4ゼミとも)、大学生用に少し変更を加えた「リテラチャー・サークル」方式で授業を進めることにした。漫然と作品を読むのではなく、「読むべきポイント」がはっきりしているので、つまり、それぞれの「役割」によってはっきりした課題を示され自分の責任もクリアにされるために、取り組みが容易になるといえる。しかし、取り組みそのものは、質的に高く深い姿勢が要求されることは間違いない。さらに、最終的には、すべての役割を自分の読書に反映されることが求められるのだ。

4年生は、The Lord of the Rings を毎回30ページ程度の分量で読み進めてゆくことになる。少々先行きが心配であるが、この方法で自らの問題意識を育てて欲しいと思っている。
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ようやく授業が…

震災の影響で五月雨式に始まった授業が、ようやく通常状態でワン・サイクル終わった。木曜日が一番きつい。ゼミ2コマ、講義(英米児童文学)一コマで、授業の終了は7時35分であるから、帰宅は9時過ぎとなる。これで、学生と泡などで乾杯したらばもっと遅くなるだろう。せめて、ウイング号の最終便には間に合うように切り上げようとひそかに決意した。

昨日は、教員ラウンジで久しぶりの顔に出会い、近況報告などして久闊をわかちあった。サバティカル休暇を終えて復帰した口の悪い古田新太似の某先生には、美脚ミニ・スカート姿を「若作り!」との批評をいただいた(ありがとねっ!)。

また、3月で退任なさり、今年度から非常勤でご出講のT先生とは、村上春樹の翻訳話に花が咲いた。柴田某の『翻訳夜話』のなかでのポール・オースターの翻訳競演について、私は、村上の日本語はつねづねいただけないと思っていたので、ぽろりとそのことをこぼすと、T先生もまさに同じように感じられていたことがわかり、自分の感覚に自信を持った。彼によると、村上訳の『キャッチャー・イン・ザ・ライ』もたくさん問題(および誤訳)があるそうだ(これには★マゾンのレビューでも厳しい評がついていたが、やはり少数意見であった)。「大きな声では言えないが…」といいながら、村上春樹人気に対する疑問を共有でき、心強くうれしかった。

なにしろ、T先生は『本格派のための「英文解釈」道場』(大修館書店)をお書きになるほどの英語読みの達人であるからだ。

今年度は、学生が予習をしていなくても、とんでもない超訳をしても、「and」を「あんど」と「it」を「いっと」と発音しても「檄を飛ばさないない(血圧を上げない)」ことを目標にがんばろうと思っている。多少、声に不機嫌がでても許すことにしよう。実は、すでに月曜日、まったく予習もしないで授業に臨んだ女子学生に対して、若干不機嫌になった。だって、「★★の意味は?」とごく簡単な単語の意味をたずねると、そのたびごとに辞書を引くんだもん。「こんな奴に単位なんかだせねぇ」と不機嫌になりながら、スルーした。「授業の準備をしていなくて、恥ずかしい」と感じてくれればよいことにしよう、と。ようやくのことで達した悟りの境地である。合掌。

ローザンヌ・バレエコンクール番組に一言

先日、「ローザンヌ・バレエコンクール」の模様がテレビで放映された。コンクールそのものはすでに2月に行われたものだ。5日をかけて行われたコンクールの「ファイナル」を編集したものが放映されたのである。日本からは3名が「ファイナルに」残っていた。また、韓国、中国の出場者もいたから、ファイナル20名中の東アジア占拠率は大きい。さらに今年は、男性が12名残っていた。

出場者は、クラッシックとコンテンポラリーそれぞれ1分程度の作品を踊って結果を待つ。もちろんこれだけで判断されるわけではなく、予選、準決勝などの成績やワークショップなども評価に加味されるということだ。このあたりは、『テレプシコーラ第2部』に詳しく、参考になった。

ところで、番組では解説者(舞踊家、新国の芸術監督)がそれぞれの出場者の踊りに短いコメントをつけていたが、どうもこのコメントがいけない。聞いていてフラストレーションがたまるのである。とくに「音楽性云々」についてのコメントは、全くの印象論にしか思われず、バレエにおいての「音楽性」をどう考えたらよいのかが不確かな、私のような視聴者にはまったく不親切なものであった。

バレエには音楽がつきものである。音楽にのらなければ踊れない、というか、音にのせて踊らなくてはいけないというのは周知のことである。その上で、ダンサーとしての音楽のとらえ方があるのだということは解るが、「どう」音楽性を表現していたのか、私は具体的に説明して欲しかった。ほんの一言二言のコメントであるからこそ、的確にわかりやすいコメントが欲しいのだ。

見ていて「あ、この子ステキ!」「すごいテクニック」と思った子が受賞していたが、ジャンプの着地にしろ、回転のあとのポーズにしろ、きちんと基礎ができているな(プレていない)と感じた子が受賞していた。

ガタイのいいスペイン人のダイナミックなダンサーが受賞を逃したが、その理由の一部には、あのがっちりとした筋肉太りとでもいえるような彼の身体が禍したことにあると思われた。この挑戦者に関しても、素人の私にさえ「体格」が踊りの印象に与える影響がわかったのである、そういう発言は、「放送コード」に触れるのだろうか。であれば、「批評眼のあるコメント」を期待した私が間違っていたということか。いずれにせよ、バレエダンサー予備軍だけが番組を見るわけではないだろう。アマチュアにもわかる具体的で適切なコメントが欲しいものだ。

スワニルダ(『コッペリア』)を踊ったダンサーが数人いたが、マイムの部分が(人形に手を振るが答えてくれないとふくれる場面)それぞれ違っていて楽しかった。こういうところも、他人と比較してはいけないというコメント・コードがあるのだろうか、それぞれの違いには一切触れていなかった。しかし、この「マイムが違う」という発見は、素人鑑賞者にとってはとてもうれしいものである(バレエは瞬間芸術であるから、よほど意識して鑑賞するか、そういう意図で映像を作成するかしなければ解りにくいのだ)。そして、そこから、「動きを見るよころび」が生まれてくるのだと思う。

というわけで、本日の結論。「★★のコメント」はいらない。

芋づるで When Patty Went to College へ

北村薫の作品はインターテクスチャリティの宝庫だ。中でも、昭和初期の帝都(東京)に暮らす上流階級のお嬢様「花村英子」を主人公にした<ベッキーさんシリーズ>は、私の読書心をくすぐる。というわけで、ウエブスターの Just Patty When Patty Went to College を読んだ。<ベッキーさんシリーズ>第2巻の『玻璃の矢』に収録されている「相夫恋」にパティ大学編の "Elusive Kate Ferris" などが使われ、作品のプロットとうまく絡まり合っていて、いたく興味をそそられたためだ。

このシリーズはミステリに分類されているらしいが、私はそうと意識して読んではいない。確かに、作品では、些細な日常の綻びや気づかれそうにもない謎に目を凝らすところから、不思議がほろほろと解きほぐされてゆく鮮やかさが秀逸であると思う。しかし、私にとってさらに魅力的なのは、「時代の空気感」のようなものである。「相夫恋」であれば、岩波文庫で出版されたばかりの『あしながおぢさん』が、冒頭部分で作品をすすめてゆく大きなきっかけとなっている。あー、『あしながおじさん』は『あしながおぢさん』として岩波文庫で出たのか、などと、この作品には思い出があるだけに、深く感じ入ってしまうのである。

英子は子どもの頃に英国人の家庭教師に英語を習っていたそうだから、英語の読書でも不自由しないだろうが(「桃太郎」より「ピーターラビット」らしいから)、それにしても、学友の綾乃さんもWhen Patty Went to College を読んでしまうというあたり(読まなきゃ話が始まらないのは承知しているが)、当時の女学生(現在では中3か高1あたり)の英語力はすごかったんだと思う(もちろんすべてではないし、もてる階級の特権であったともいえるけれど)。あの英語はなかなかのものだと思う。

また、北村薫の文章は簡単に読み流せないところにも魅力がある。暇つぶしにぼんやりと読んでなどいられない。そんなことをしていれば「???」となってしまう。納得するまでに、何度も立ち戻り、頭をひねったり、「ええっ?」と思い読み返したことも多い。「漫然と読んでいるから混乱するのだぞ」という天の声が聞こえてくるようだった。さらに、比喩も豊かに使われている。たとえば、「校内の挨拶は≪ごきげんよう≫と≪おそれいります≫の二つでほとんどまかなえる。効能の多い葛根湯のような言葉だ。」(『玻璃の矢』p92)「葛根湯」や「クレオソート」など昭和の臭いがする言葉だ。

残念なことに<ベッキーさんシリーズ>は『鷺と雪』(直木賞受賞)で完結してしまった(最後のエピソードは深く心に突きささるものだった)。しかし、また、どこかでベッキーさんと英子さんに出会いたいと思う。ところで、ベッキーさんのニックネームの由来は『虚栄の市』から取られているが、かといって、サッカレーは今さらねぇと読むには至らなかった。

そういえば、『あしながおじさん』の原書である Daddy Long Legs は私が初めて買った(京都の丸善で!)原書である。先頃、訳し直された『あしながおじさん』では、本文の呼びかけに「おじさん」とあったのが興ざめだった。やはり手紙の書き出しは「おじさま」でなくてはと思うのは、私だけか。

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