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「とんでもございません」考

「とんでもないです」「とんでもないことでございます」というのが正しい表現であると最初に認識したのは、いつのことであったか定かではないが、どこでというならよく記憶している。阿川佐和子のエッセイの中での事である。阿川の父上であるあのうるさそうな阿川弘之御大が、彼女に苦情として述べ立てたと言うことが件のエッセイには書かれていた。ずいぶん前の事である。以来私は、この「とんでもございません」にはアラートな状態であった。

気にすれば気にするほど、この「とんでもございません」は、耳にし、目に入ってくる。とくに日本語発展途上にある子どもたちが読む物語でお目にかかるととても違和感を覚える。最近読んだ3冊の江戸時代を舞台にした小説の中でもその2作に使われていた。江戸時代から使われていたのならば、その表現は人口に膾炙しているとみていいのねっ! そうなのねっ!

しばらく前に、40年前の「ありがとう」(石坂浩二、水前寺清子主演の病院編)の再放送を見ていたら、この「とんでもございません」が丁寧語として使われている場面に遭遇した(付き添い看護婦役の山岡久乃が職場の病院長につかった言葉)。そっか、私の生まれた頃()から使われていたのねと、ある感慨を持った。妙に納得させられてしまったが、しかし、私にはこの表現は使えないなと思う。

「全然」のあとに肯定表現がくる使い方も、違和感があると指摘されて久しいが、あれだけ連呼されると「耳慣れ」して麻痺してしまうのがこわい。話し言葉には「間違い表現」が使われる確率が多いのは、やむを得ないところもあると思うが、TVのアナウンサーやコメンテーターにやられると、とくに不快だ。昨日は、「行列が並んでいる」という表現をしていた。思わず、「行列は並ばない!」とつっこんでしまったが、聴くに堪えない言葉遣いが跋扈していると、苦情を言いたくなるのはこちらが歳をとったということなのだろうか。

ところで、「全然」に肯定表現をつけるのは、漱石なども行っていたらしい。とはいえ、「全然おいしい」「全然大丈夫」はやっぱり嫌だ。「とても大好き」も気になる。これは、「とっても大好き、どらえもん」(歌詞)からきているのかなぁ。

日本語表現に対して出版社(講談社)のチェックが入ったという『獣の奏者』にも、この「とんでもございません」が使われているんだなぁ。気になる。とても気になる。ぜんぜん気になる!! チョー気になる!!!


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『テレプシコーラ』第2部完結

『テレプシコーラ』の第2部が5巻をもって完結した。単行本化を楽しみに待っていて(『ダ・ヴィンチ』は読まず)、ようやく第5巻を手にした。第2部では、途中から山岸涼子が何をめざしているのか、本人自身も混乱しているのではないかと思われるほど物語性を無視して、「ローザンヌコンクール」を微に入り細に入り描きこんでいることが気になった。

「叙情性」とか「観客を巻きこむ力」と書かれていても、それを、絵で描くことは難しいし、また、読者にはそれを絵からを読みとることの力が要求される。確かにローラ・チャンがスワニルダの黒い衣装で登場した場面は、迫力があり美しかったが、じっさいの舞台や動画ですら素人目には評価は難しいのに、バレエの絵だけで、踊りの叙情性や観客訴求力を感じ取ることは不可能に近いように思う。

プロ中のプロのダンサーによるバレエは、一瞬のポーズをそれだけ取りだして見ても美しいが(先生はどの場面を撮っても美しくなくてはいけないという)、動きの連続性にこそ美があり、鍛えられた技巧が問われる。山岸凉子は舞踊漫画を描くプロとして、あえてそこを乗り越えようとしたのかも知れないが、残念ながら彼女の意図は達成されなかったように思う。

一読者としては、ローラ・チャン=空美ちゃん説の謎を解き明かして欲しかった。『アラベスク』をこえるバレエ漫画は出てこないのだろうか? 『アラベスク』を山岸凉子の現在の画力で読んでみたいと思うのは私だけか…。

山本兼一『利休にたずねよ』

山本兼一『利休にたずねよ』を読んだ。1591年(天正19年)の利休切腹の朝から語りはじめられるこの作品は、利休と秀吉の確執を追いながら、つぎつぎと焦点人物を換え、過去に遡りながら語るという特異な手法で書かれている。最後には利休(千与四郎)19歳の時代まで戻るのである。

利休を語ると思わせ秀吉を語り、そして、2人の間にまるで自在に姿を変える生物体のように存在する関係を語り、いつの間にか、彼らの確執の奥底に見え隠れする、緑柚の香合の由来をたどってゆく。この香合とそれにまつわる女性の存在こそが、利休の美学の原点であり、茶人としての出発点であると読める。

何かを求めることが我欲に繋がらず、求道となるにはどうあるべきかが、さりげなく書かれている部分を発見した。いまの私の大きな関心事である。文庫本で500ページを超えるが、それほど時間もかからなかったのは、改行が多いせいか。文句なしにおもしろかった。

どう読んでも、ケータイから提出しているのではないかと思われるレポートに遭遇。この方は、欠席レポートも、授業教材を受講することなく提出している(もちろん書き直していただきますが…)。そんないい加減なことをしてもすぐ解るのだが、教師もバカにされたものよのう。

YA月間

期末レポートのためにYA課題図書リスト(21冊)をつくり、未読作品を粛々と読んできたが、ようやくそれも昨日『ライオンとであった少女』(ドハーティ)を読んで終了した。厳選したつもりでも、思いがけずがっかりさせられる作品もあり、なかなかハードであった。

新刊よりもやはり読みつがれている作品、定評のある作家の作品に軍配があがったが、最近の作家では、ジョーン・バウワーに注目したい。翻訳の場合は訳者の日本語表現力がその作品の質を大きく左右することを身にしみて実感した。

好みもあるだろうが、斎藤倫子さんの日本語には好感を持っている。

『みんなワッフルにのせて』

ポリー・ホーヴァートのニューベリー賞(オナー)『みんなワッフルにのせて』(白水社/2003年)を読んだ。

作品の舞台はブリテッィシュコロンビア州にある小さな町であるが、いかにも、アメリカ合衆国的な物語だ。また、日本ではYAにくくられ、落ち着きのある装丁で活字も小さいが、ネット上でみる原書影や「中身!検索」で原文を判断する限りでは、YAに括るのはどうかなと思う。一つの判断基準でしかないが、主人公は11歳の少女だし…。

アメリカ(合衆国)のリアリズム作品は、いい意味で「リアリズム」を突き抜け、「ほら話」や荒唐無稽な作品に仕上がる面白みがあるが、この作品もそんな雰囲気を持っている。しかし、どうも、しっくりこないのは、なぜなんだろう。

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