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どちらがよかったのか?

十数年来、ある言葉の源を探していた。それは、井上ひさしの著作にあったもので、本格的に子どもの文学を大学で教えはじめたころから、頭の片すみに浮かんでは消え、消えては浮かび、忘れられない言葉であった。その言葉とは、「むずかしいことをやさしく、やさしいことをふかく、ふかいことをおもしろく」というもので、その言葉の中に子どもの文学に共通するものを感じていたのだ。

気になって気になって、家にある井上ひさしの本(エッセイ)を全部読み返して、躍起になって探したこともあったが、いつも見つからず、どうしても紹介したいときには、「うろおぼえ」であること前提に学生に紹介したこともあった。『吉里吉里人』をはじめとする彼の著作には大いに楽しませてもらったが、いつの間にか、離れてしまうことになった。それは、私がほとんど「劇」というものに縁がないからで、もっぱら私の「引きこもり」に責任がある。

井上ひさしさんがあちらに行ってしまい、思いたって件の言葉をネットで探すことを思いついた。すると、テレビの特集でもその言葉は取りあげられたらしく、私の知らない後半や、別のヴァージョンの存在を知った。そして、もう一度彼の言葉として確認するために、改めて本を手に入れることにした。井上さんがいなくなってしまったおかげで、積年のもやもやが解消されたのだが、それはよかったことなのか…。合掌。

PS 私はいまでも赤ワインを飲むときには、『モッキンポット師の後始末』の一節を思いださずにはいられないし、彼の言葉に関するエッセイの何冊かは、孤独なアメリカ生活の支えになったと確信している。
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読んだ本のことなど

ロイス・ローリーの Messenger 読了。本来は、Gethering Blue が先なのだが、こちらの方が先着だったので。メタファーに満ちていておもしろいのだが、Village世界造型に深みを感じないのは、作者の戦略なのか…。

帚木蓬生の『ソルハ』はタリバン制圧時代のカブールにくらす少女を扱った歴史小説である。巻末のアフガニスタンの歴史についての記述に大いに助けられた。飾り気のない直裁的な文体で、物語を読む行為そのものの面白さは希薄であったが、重い1冊。本棚から『フォトジャーナリストの眼』を引っぱり出し、関連部分を再読。『せかいいちうつくしいぼくの村』も大切な情報源となるだろう。

岩村暢子の新刊『家族の勝手でしょ』を読む。おかしい、おかしいと思っていたが、とうとうここまできたかと、暗鬱な気分になる。「読書」のことだけを考えていればよいのではないというのが、強迫観念を持って迫る。

「い、ち、も、く、さ、ん」の2回目もなかなかの出来であった。なぜか、男の子にうける。

授業で読んだ本、話題にした本など
●『となりのイカン』
●『おでこにピツッ』『でんしゃはうたう』
●わらべ唄いくつか
●「ちくりんぼう」「馬方やまんば」

授業の覚え書き

Suddenly
●『3びきのかわいいおおかみ』
●『ハンダのびっくりプレゼント』
●『エルマーのぼうけん』から<持ち物のくだり>
●「ふしぎなオルガン」

「じゃあ、読もう。」

昨日の授業で国民読書年を話題にしたところ、受講生の一人からそのキャッチコピーが「じゃあ、読もう。」であることを教わった。「じゃあ、読もう。」って、あまりの言語感覚の貧しさにびっくりしたのであるが(しかも読書を推進しようとしている団体が!)、出版文化事業財団(JPIC)の肥田美代子理事長が、このキャッチコピーについて次のように述べていることをネット上の情報から知った。

「じゃあ、読もう。」というコピーについては「シンプルで能動的、それにいろんな言葉を組み合わせられる。『早寝早起き、じゃあ、読もう。』や、『失恋した、じゃあ、読もう。』など、それぞれに楽しい使い方をしてください」と呼びかけた。(『日本印刷新聞』2009年11月18日)


しかし、私には「じゃあ、読もう。」の「じゃあ」が気にかかる。「早寝早起き、じゃあ、読もう」や「失恋した、じゃあ、読もう」には、肥田さんがおっしゃるような「能動的」な意味合いは伝わってこない。「何もやることがないから」「仕方がないから」、「じゃあ…」というように、ある種の諦観も感じるし、何かのオルタナティヴでの「読書」行為が強調されているように思うのだが。

読書の本質的なよろこびを伝え、さらに美しい日本語での標語はできなかったのだろうか。たかが国民読書年といったって、億単位の税金が使われるのだろろうし、複雑な気持ちである。さらに、JPICのキャラクターに「ヨミネエ」というものがあるということ知ったが、これもねぇ。最近は、どんなものにもキャッチコピーがつくられ、「キャラクター」が跋扈している。そんなことにまで「右に、倣え」をする必要があるのだろうか。

「失恋した、じゃあ、読もう」ではなくて、せめて、「失恋した、だから読む」であってほしい。

「い、ち、も、く、さ、ん」

『ひらがなだいぼうけん』(宮下すずか/偕成社)に収録されている「い、ち、も、く、さ、ん」をペープサートにして、2年生の子どもたちと楽しんだ。夜中にひらがなたちが起きだしてもめるというプロットを持つ物語は、よくできていておもしろいので(文字を覚えた子どもたちにぴったり!)、ぜひ、子どもたちと楽しみたいと考えたのだが、教室では本をそのまま使うのは難しいだろうと、文字の部分をペープサートにすることを思いついた。

少し大きめの本をつくったり、文字のペープサートを工夫してくれたのは韓国のりこちゃんのお母さんで、私は、段ボールなどのブツを用意しただけ。そして、となりであれこれ口を出したり、彼女の手際の良さにうっとり見とれていただけであった(すまん)。しかし、準備も練習もいつもと違って楽しかった。ナレーション部分を韓国のりこママ、セリフと詩とペープサートは、私が担当した。

さて、お話がはじまり、冒頭の詩を読んだあたりで、男の子二人が、もうどうしようもなく笑いころげているのに気づいた。「何かおかしいことをいったのかな?」と思ったぐらいだったが、どうやら、「本を読んでもらうこと」そのものがうれしくてたまらないというふうであった(そのことに気がついた先生が即座に彼らの後に陣取ったのだが…)。お話が終わったあとの子どもたちのキラキラした満足げな表情がうれしく、思わず「おもしろかった?」と聞いてしまった。すると、笑いころげていた男の子の一人が手を挙げて「最後の所がとてもおもしろかった」と即座に答えてくれたのだった。ありがとう!

ペープサートを落としてしまったり、台本が閉じてしまってあたふたしてしまったり、不手際はあったが、まずまずの出来であった。私は気がつかなかったが、やはり別の男の子が「ヤバイ!」と口にしていたことを、あとから韓国のりこママから聞いた。それは、お話がおもしろくて「ヤバイ」ということだよね。

授業の覚え書き

授業で教材として使った絵本

Rosie's Walk
Hug
Suddenly

Suddenlyは、分担して訳文を作成後、それぞれ発表した。来週は、この訳文を検討しながら「絵本のことば」について考える。

? ? ?

某大学の平成19年度の給与の支払いについて、一科目分未払いではないかと、2年ほど前から問い合わせをしていたが、埒があかず、先日学校に行ったときに、学長が事務局にいたので、もう一度「あの件はまだ解決していません」と、まわりの事務局員にも聞こえるようにお話しさせていただいた(普通に話しただけのことであるが)。学長にはすでに報告済であり状況は把握されていたので、まだ解決していないことに驚きながらも、すぐに「何とかするように」と事務局次長に問題を委ねてくださった。

その返事が昨日届いた。学則では、同一科目を学期中に2回教える時には、2回目は半額になるという計算であるとの規則を提示して、私の場合もその規則を適用し、同一科目も3回目の授業には支払わないと通知してきたのである(3回目ならば4分の1ではないの?)。ということは、3回目(1単位科目なので全7回の講義。同じ科目だが、授業の内容はもちろん同じではない)は「ただ働き」ということになるらしい。学則は、同一科目を3回教えるというきわめてまれな事項を想定していなかったために、このようなことになったと推測できるが、「?」は消えない。

「学則」を錦の御旗に払わないのは結構だ(でも、常識的に考えておかしい)。私も、学則ならば納得するが、前回の問い合わせの時にも、「3回目の給与」であると明言しているにも関わらず、明解な説明と対応がなされなかったことには、事務局の経理だけでなく学校そのものへの不信感がつのる。また、ここまで放置されていた問題であるならば、きちんと書類を添付した上で説明すべきであろう。

本来の「敵」に向けて、「やめてやる!」と啖呵をきりたいところだが、それもできず、代わりに夫に向かって啖呵をきってしまったので、近頃まれに見る大きな夫婦げんかが勃発してしまった。事務の力に劣る○○な大学に関わってしまうと家庭は荒む。金はいらん!! 平和を返せ!!

『Number the Stars』を読む

ロイス・ローリーのブログで、トルコの学校(Tarsus American College) で、Number the Stars を授業で使ってはいけないという視察官からの指示があったことを知った。理由は、作品のテーマや政治的意義が小学生にふさわしくないというものらしい(詳細はロイス・ローリーのブログエントリー Troubling letter just received と Turkey leftovers を参照のこと)。

作品は、アンマリー(10歳の少女)の視点から、1943年のナチのコペンハーゲン侵攻とユダヤ人排斥を語ったものである。歴史小説ではあるが、作者によるあとがきによると、作品に語られた出来事はすべて史実に基づいているという。人間の尊厳はどこから生まれるのか、そしてそれをどう持ち続けるのかということを考えることのきっかけになるすぐれた作品である。

先日、石原慎太郎が新党立ちあげに際して、「若い奴ら(50代も含めて)は、日本に対する危機感がない。日本のことを憂えているのは我々だけだ」というような傲慢な発言をしていたが、私は、慎太郎なんかに任せたらとんでもない方向に進んでゆくだろうと怖れている。「九条」の歴史についてきちんと認識しているわけでもない輩が、「九条改正」と考える人もいるのだから「九条堅持」を表明すべきではないなどと発言し、他の人の発言を排斥しているような時代なのだ。しかし、あくまで本人は「善意」のつもりであるから質が悪い。善意の欺瞞の嘘くささを感じるのは私だけか。

歴史的事実が隠されてゆくとどうなってしまうのか、それもやはりロイス・ローリーの The Giver によって語られていた。The Giver Number the Starsも子どもたちには是非手渡したい作品であると私は強く思う。このような作品が読まれないことこそ重要な問題として考えるべきだろう。しかし、「子どもたちにうけるために赤く髪を染め、図書館には子どもが読みたい本をまず入れるべきだと考えているあの人」は、ロイス・ローリーの作品なんかは「文化プレート」が違ってしまった過去の作品だから、もう、読まれないし、読まなくていいなどと考えているのだろうか?

『The Giver』を読む

ロイス・ローリーの The Giver を読んだ。極度に画一化された近未来の「コミュニティ」にくらす人びとは生活のすべてを管理されているのだが、自分たちは「守られて」平穏にくらしていると思いこんでいる。「コミュニティ」はあらゆる面で均一化されていて、太陽の陽ざしも、季節も、色も何もない世界である。家族ですら「ユニット」としてつくられたもので、個を尊重して生きることが許されない社会での物語が展開される。

独り立ちの時をむかえたジョナスが「受けつぐ人(the Receiver)」として任命され、人類の記憶を「受けつぐ人」として訓練が始まったときから、次第に真実が明らかなる。しかし、その真実を知るのは、ジョナスとthe Giverとよばれる記憶を伝える老賢者だけである。記憶を受けつぐことによって、ジョナスが感情を深化させ現在の状況に疑問を感じても、理解できる人は老賢者をのぞいてはいない。

記憶を持たず、感覚や情動の深化がない人間には想像力を持つことができないという恐ろしさに震撼した。しかも、想像力を持たなければ、いまある「生」すら批評することのできないのだ。

授業で読んだ本覚え書き

「英米児童文学」の授業は、「児童」って、何歳の人をさす? 「子ども」と「児童」はどう違うの? 「児童文学」の「児童」、「子どもの文学」の「子ども」はどういう意味を持っているの? という問いかけから授業をはじめた。そして、『だくちるだくちる』を紹介して、「子どもの文学」の始まりついて少し語った。

3ゼミでは、『北の魔女ロウヒ』を読んで、伝承文学(とくに神話)の誕生や特徴についてごく一般的な話をした。『北の魔女ロウヒ』は、厳密には神話とはいえないだろうが、「神」についての「話」であることは確かである。

アドバイザーとして久々登場の韓国のりこちゃんにも『北の魔女ロウヒ』と『ありがたいこってす』を聞いてもらった。『ありがたいこってす』はちょっと「?」だったような。「おち」を理解するのはまだ難しいのだろうか。

ところで、渡辺茂男さんの日本語は声に出しにくいと思っていたら(『エルマー』とか『せかい1おいしいスープ』)、『せかい1おいしいスープ』が訳者を変えて、岩波書店から出版されたことを知る。『エルマー』も何とかした方がいいのではないかと思う。私が渡辺茂男訳を使うときは、必ず原文にあたって、読みにくいところ、流れが悪いところは直している。

合宿勉強会

一泊二日で絵本の勉強会をした。勉強の合間のおしゃべりにも満開の桜に負けないほどに花が咲いたが、内容的にはまずまず充実した勉強会であったと思う。主宰者の思いこみかしら?

お題は2つ。ブルーナの『うさこちゃんときゃらめる』について、「絵本の様式とテーマ」「4歳児と小学校低学年が分かち合えるもの」「子どもの<よろこび>と絵本」「絵本と読み聞かせ」という点をめぐって議論が展開された。話し合いの中で話題に出た絵本は、『かようびのよる』、『セクター7』、『ラストリゾート』、『ちびくろさんぼ』(ドビアス作)、『おおきなかぶ』(佐藤忠良作)、『だるまさんの』、『よしおくんがぎゅうにゅうをこぼしてしまったおはなし』、『まよなかのだいどころ』などなど(順不同)。

もう一つは、赤木かん子(さん)の講演録につっこみを入れつつ、児童図書館員の役割を考えようというもの。2007年に板橋区の図書館で開催された「調べ学習の子どもたちに答える図書館スタッフのための研修」で行われた講演をおこした冊子を使った。しかし、これがとてもひどいもので、編集のイロハを知らない素人でさえやらないだろうというミスがとても多く露出している冊子であった。誤字、脱字、誤った句読法の初歩的ミスの多さだけでも商品価値などないに等しいが(なんと600円!!)、内容も、書式同様つっこみどころ満載で、なぜ、このようなものが販売されるのか、いや、なぜ、かん子ばかりがもてはやされるのかがますます不思議に思えるものであった。

考え方の違い(子どもには、(おとながすすめる)よい本ではなく好きな本を読ませればよい)や日本語表現力の不適切さ、未熟さは、とりあえず不問に付すとして、原稿そのものを講演を聴いていない人にも解るように手を入れる必要もあったろうし、データや裏づけをする必要のある記述もあった。また、これは彼女の特徴であるとも思うのだが、裏づけもなく一方的に断定するという姿勢に関しては、疑問を感じざるを得ない。

例えば、小学生に「最終的に、これはもう絶対、無理。小学生で数字を使わせるのは絶対無理」(p8)といって、小学校低学年でNDCを導入することを否定しているが、そんなことはない。私がはじめて朝暘第一小学校の図書館活用教育を見学したとき、小学校2年生の授業で子どもたちが先生の質問に、「その本は4の「生きもの」にある(4類の自然科学に分類されている)」と自然に答えていたのである。NDCを小学校でいったん身につけてしまえば、どの図書館に行っても使える。これは、情報収集のはじめの一歩。

いっぽうで、子どもは「写真的記憶力の持ち主」(p15)であるから、文字は読めないが「アートは分かるんです」(p15)といい、したがってアディダスとナイキの区別がつくと書いている(おっしゃっている)。ならば数字だって記憶できるはずなのだが…。数字だって「アート」的要素はあるのにと思うのだが。なぜ、NDCを目の敵にするのだろう。かん子シールの宣伝? わからん。

「調べ学習」についても、「ノーハウ」は語っているが(というより事典の使い方とテーマのたてかたのごく初歩的な方法)、「調べ学習」の意義、学校図書館の役割についてきちんと理解しているとは思われない記述がそこここにある。「学び」の本質や学校教育についての本質的な部分が理解できていないのではないかと疑問を持つ。

現在、公共図書館は、管理委託、指定管理者制度等で困難な状況をむかえているが、それについても、「民営化」(p23)という言葉を使っている。しかし、これは大きな誤りである。公共図書館の抱えている問題を「民営化」といわれて、何も反論しない図書館関係者が聞いている講演って一体どんなものだったのか? 想像するだにこわい。

次回は6月末頃を予定している。



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