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語りの授業

昨日の遠足大学では、語り手のSTさんをお迎えして、お話をたっぷり語っていただいた。ほとんどの学生が語りを聴くのは初めての経験であり、その初めての大切な経験にSTさんの語りを聴いてもらうことができてよかった。通常の受講生に加えて、学生のもぐり2名、卒業生2名、おとなのもぐり2名とうれしい顔ぶれの聴き手たちであった。

☆デ・ラ・メア「深く澄んだ眼が二つ」
★「リンドウォルム王子」:スウェーデンの昔話
☆谷川俊太郎「かっぱ」
★「静かな水」:ラフィク・シャミ作
☆わらべうた「せんぞうやまんぞう」
★「狼のまゆげ」:土地言葉による日本の昔話
☆わしこ「語りびとの詩」

語りの手便宜(水分補給と休憩)と聴き手の切り替えのために「幕間のお遊び」を入れたのだが、おとなの聴き手Aさんには「お話にひたっていたかった」と評判が悪かった。しかし、長いお話を聴くことに慣れていない学生に対しては効果的だったということがリスポンスシートを読んで確認できた。

おとなBさんが「語り」に関する本質的な質問をしてくださったので、「語り」が「覚える」ことではないときちんと理解してもらえて良かった。彼らは質問を心に持っているのに、恥ずかしいからか、なかなか皆の前では出してくれないのが残念だ。

おまけに「せつぶーん」を語っていただいて、満たされた気持ちで授業を終えることができた。STさんありがとうございました。

さぁ、遠足大学もあと1回を残すのみとなった。最終回は「物語体験」についての授業。その後、埼玉の図書館の講座、山形県余目の小学校での講座が控えているので、しばらくは気が抜けない。
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『遠野物語へようこそ』顛末

筑摩書房のHPには、すでに訂正とお詫びが掲載されていました。

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『遠野物語へようこそ』のなかで以下の間違いがありました。

たいへん申し訳ございませんでした。

お詫びして訂正させていただきます

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だそうです。

『遠野物語へようこそ』にミスが…

今年は『遠野物語』の百年紀にあたる。日本民俗学は柳田のこの著作によって始まったとよく言われるが、日本の民俗学研究も百年を迎えるということである。この著作がなかったら、今ほど豊かに日本の昔話が残ってきたのだろうかと考えると、怖ろしい。近代化の波はすぐそこまで押しよせていたからだ。

百年紀ということで、様々な著作が世に問われることであろう。その口火を切る形で、尊敬する三浦佑之先生も著者の一人である『遠野物語へようこそ』(ちくまプリマー新書)が出版された。『遠野物語』の原文を提示し、それについての解題、解説という体裁を取っていて、明らかに初心者に向けられての著作で、中学生にも読むことができるだろう。また、もう一人の著者である赤坂憲雄氏が「おわりに」で『遠野物語』意義について触れ、巻末のブックガイドもありがたい。

なのに、なのに…。単純であるが、決定的なミスを見つけてしまった。『遠野物語』「第二話」は、遠野三山(早池峯山、六角牛山、石神山)に住まう女神たちの話である。以下、次のように語られる。

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(中略)大昔に女神あり、三人の娘を伴いてこの高原に来たり、今の来内村の伊豆権現の社ある処に宿りし夜、今夜よき夢を見たらん娘によき山を与うべしと母の神の語りて寝たりしに、夜深く天より霊華降りて姉の姫の胸の上に止まりしを、末の娘眼覚めて窃かにこれを取り、わが胸の上に載せたりしかば、ついに最も美しき早池峯の山を得、姉たちは六角牛と石神とを得たり。(後略)(『遠野物語』集英社文庫)
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ごく解りやすいお話である。昔話だと、たいてい末っ子の方が気立てがよかったり、すこしゆっくりだったりで、上のきょうだいに騙されたりするパターンに馴染みがあるせいか、私は、「珍しいが、面白いな」をいう感想をもった。

ところが、件の著書のこの部分に付された解説が、「???」なのである。私のような素人っぽい思いこみに影響されたわけではないだろうが、「姉」と「妹」を読み違えているのである。

著作では、「夜中に目覚めた姉娘が、いちばん下の娘の胸に置かれた「霊華」をひそかに取り、自分の胸の上に載せたので、もっともすばらしい早池峰[ママ]の山を手に入れた、というふうに鎮座の由来を語ります」(同書31ページ)とある。びっくりした。私は自分の「重大な読み違い」ではないかとで考えてしまった。誇張ではない。「ええっ」と思い、読み返したのは事実である。ことほどさように、活字になり、本になるというのは、それだけで権威の衣をかぶることがある。まさか、三浦先生に限って、などと思うのである。

おそらく、著者の目をくぐり抜け、編集者の目をかわし、何回かの校正の時にもノーチェックだったのだろう。怖いことである。2刷りからは訂正されるだろうが、この場合は、軽率にも「間違ってしまった」からといって、回収措置はないだろうな、と考えたわしこである。

ところで、ゼウスの「女好き」に関して、誰も彼を罰することはしなかった(できなかった)のと同様に、ここでも、神の「悪事」は「不問に付される」のである。なぜなのかは、たいへん興味深いところであるが、神の常識と民の常識とは違うのであろうか。三浦先生は「神話の「盗み」は、悪事とされる人の世の行為とはちがって、神のものを人の世に移すための知恵という役割をはたすことが多い、という説明は可能です」(同書32ページ)とおっしゃっている。

しかし、気になる妹の行為。


語りの授業

今週の遠足大学は語り手のSTさんをゲストに迎えて、お話をたっぷり語ってもらう計画をしている。何回かのうち合わせを経て、おはなしの内容が決まった。今回は、比較的長いおはなしをいくつか語っていただくので、語り手の便宜や聴き手の気分転換を兼ねて、「詩の朗読」「わらべ唄」などを組みこもうと考えている。

そのために詩のアンソロジーなどを引っぱりだして、あれやこれやと選んでいるのであるが、これが思っていたよりもずいぶん難しい作業であることがわかった。語りにひたる気持ちにピリオドを打ち、といっても、お話へのあこがれを残しつつ、次の語りへ心の準備をさせるような「詩」などそう簡単には見つからない。

イメージは、「展覧会の絵」のプロムナードであるが、かといって、ムゾルグスキーと同じようにまったく同じものを持ってくわけにはいかない。おはなしを飾る額縁のような効果があらわれるものを模索中である。

この授業は「もぐり」OKです。興味のある方は直接私に連絡を下さい。

誕生日

昨日は誕生日であった。何回目かはとくに秘すが、聞かれると39歳と答えることにしている。夫からは「図々しい」と言われるが、微妙なリアリティがあるのではないかと勝手に思っている。

というわけで、午前中は免許証の更新へ、午後は歯医者さんに出かけた。昨年末から調子が悪かったのである。

「おめでとう」メール2件。夫からはE=カードと「ベアトリーチェ」が彫られているペンダン・ヘッドをありがたく頂戴した。

夕方そうそうにシャンパンとごく普通の家庭料理(野菜のマリネ、ホタテのワイン蒸し、レンコンのきんぴら、鶏もも肉のチーズ焼き)で食事をし、たんたんと一日が過ぎていった。

子ども時代の読書

昨日は遠足大学の第2回目の課題「子ども時代の読書」のレポートをずっと添削していた。2回目の課題に関しては「添削」などするつもりはなかったのだが、学生からの要望が強いので、添削して返却することにした。約80人分のレポートを2日がかりで終わらせた。(彼らに言わせると、レポートは返却されるどころか、添削などする教師は皆無に近いそうだ。常勤の教員はそれなりの給料をもらっているわけだから、学生のレポート力向上のために何とかして欲しいものだと痛切に感じる。遠足大学はほんと大赤字!)

彼らのレポートを読んでいると、読書好きになるため、あるいは抵抗なく「読書」をする事ができるようになるための共通点が2つ見えてくる。まず、幼いころに(無文字の時代に)物語や絵本を近しい人から読んでもらった経験を持っていること、そして、「自立読書」に進むために、絵本から物語の移行、つまり文字の時代への移行がスムースに行われる事である。また、その子にとってのふさわしい本との出会いの時期もひじょうに大切である。身近に本があること、定期的に公共図書館や学校図書館に通えるというのは、言うまでもない。

こうしてみると、何も目新しい事はなく、昔から多くの人に提唱されてきた事ばかりである。また、親による「読み聞かせ」は、その時間が丸ごとあたたかで愛情に満ちているものとして、彼らの心の底や記憶に残っていることが解った。なかには、自分の核をつくっている具体的な作品を意識している学生も多くいた。これは、美智子皇后、猪熊葉子さん、清水眞砂子さんの著作を参考文献にあげた事が大きいだろうが。しかし、教師の文献の提示方法で、学生のレポートがある程度方向づけられるのは、いいんだか悪いんだか…。

NHK「とめはね!」の再放送を見た。あまり期待していなかったが、上手にまとめてあってなかなかの出来である。主人公の「大江縁」「望月結希」もイメージにあっているし、脇を固める景山先生や柔道部の顧問もよい。そんなわけで、また漫画を読み返してしまった。

瓢箪から駒

イタリア料理のデザートでよくでてくる「アフォガード」という、アイスクリームとエスプレッソコーヒーのデザートが気に入っている。自分の家ではなかなか食べられないと半ばあきらめていたのであるが、先日、生協のカタログに「アフォガード」が出ていたので、さっそく購入した。あとはアイスクリームをと思いつつ、そのままになっていた。

ところが、お正月モードの我が家では、なぜか常備の「ヨーグルト」が消費されずに冷蔵庫に鎮座したままであった。何とかしなくてはと、思いたってヨーグルトの水分を切って、それに、件の「アフォガード・シロップ」をかけて食したところ、アイスクリームよりさっぱりしていて思いがけないおいしさであった。いわれなければ、水切りしたヨーグルトだなんてわからない、と思う。と願う。

瓢箪から駒のおいしさであった。

議論をする事

『おじいちゃんのカラクリ江戸ものがたり』回収措置への「議論をすべきだった」という私見について、言葉が足りなかったような気がしはじめている。書店が議論をすべきなのは、もちろん「喫煙に反対する団体」に対してであるが、結果的には、その「議論する姿勢」が「世間」というか、我々一般人に対してアピールする事になるのである。

福音館書店が「喫煙に反対する団体」と丁寧に誠実に対応するからこそ、一般の耳目を集め、興味をほりおこしながら、問題の本質を広く深くアピールする事になるからである。そういう意味で、「議論をすべきだった」のである。今回の「回収措置」およびホームページでの公告は、よくある「ごめんなさい会見」の一種でしかない。

実は、私は昨年「議論を拒否」した経験がある。それは、私がその議論すべきだった相手を「無知で頑固で狭量」と最終的に判断したためだ。善意に見せかけた欺瞞があまりにも不愉快で自分の身体が彼女を拒否したからである。しかし、相手に理解してもらえなくても、自分の意見を丁寧に「やさしい日本語」で伝えておくべきだったと今は反省している。

次に同じような事が起こったとき(もう二度とごめんだが)、今回の教訓を踏まえて対応できるかどうか、それは解らないが、心しておこうと思う。

物語納めと物語初め

新しい年の訪れを言祝ぎ、みな様のご健康といっそうのご活躍をお祈り申し上げます。

2009年の「物語納め」は、富安陽子の『クヌギ林のザワザワ荘』(あかね書房/1990年)であった。まさに読み納めにふさわしい、しみじみとよろこびを感じる事ができた作品だった。一つ残念なのは、主人公の科学者であり豆腐職人の矢鳴先生の挿絵が、私のイメジと違うのである(挿絵は安永真紀)。表紙にはザワザワ荘の前で、矢鳴先生とアズキトギ、水の精がワインを飲んでいる場面が描かれているが、その先生の姿はとても豪放磊落な感じを受ける。しかし、私の中での矢鳴先生は、もう少し線が細くて、浮世離れしている感じなのだ。

そして、「物語初め」は、コルネーリア・フンケの『どろぼうの神様』(WAVE出版/2002年)であった。ネタ晴らしになってしまうので詳しくは触れられないが、後半部分の魔法的な「不思議」を発端にして始まる結末に若干不満が残ったが、楽しい物語である。描写過多によるもたつき感は相変わらずだったが、これは彼女の特徴的なスタイルであろう。運河が張りめぐらされたヴェネツィアの町や「有翼のライオン像」に烈しくあこがれをかきたてられた。矢島翠の『ヴェネツィア暮らし』(平凡社)を読んでいると、バルバロッサや彼の持つ骨董店などが実際にあるのではないかという気すら起る。この作品は、リアリズムの要素とファンタジーの要素を合わせもつドイツのメルヒェンの現代版である。

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