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学校図書館の改造

「学校図書館の改造」に関するDVDを立て続けに2本見た。両方ともごく短いもの(鶴岡のものは20分程度、島根のものは47分で4校収録)であるが、ポイントを突いていて、「子どもたちの来る学校図書館」とはどのようなものなのかがはっきり解るようにつくられている。

レイアウトや本の整理などといったハード面に関するリニューアルは、経験者のアドヴァイスが不可欠であり、DVDなどの視覚情報もたいへん有効であることはいうまでもない。しかし、私の興味をひいたのは、図書館改造に「誰が」関わるのかという点であった。

私が見たDVDではどの図書館も、校長を始め教師が一丸となって、棚を動かしたり、取りつけたり、本を整理していた。中には、子どもたちが本の整理に関わっている姿もあった(鶴岡市の小学校)。自分たちが身体を通して関わった図書館に興味をもつのは当然といえば当然。棚の整理をしながら、教員たちは、今まで目につかなかった本の存在に気づき、「使える本」として認識されたかもしれないし、子どもたちは、自分たちが整理し、配架した本に愛情を感じたに違いない。「本の住所」にも興味をもった事だろう。

何から何まで「おんぶにだっこ」で、だれかさんに「丸投げ」したとしても、結局、相変わらず「使われない図書館」のままではないだろうか。いちばん恩恵を受ける人が関わる事の大切さがいたいほど伝わってくる。

島根県の学校では、どんなに小さな学校(全校生徒37名)でも、専任の学校司書が配置されていて、活き活き活躍していたのも印象的だった。学校図書館は人がいて、開かれているからこそ価値がある。

そういえば、私が小学校のころ、母が「図書の整理と修理」の仕事に意欲を燃やしていた事があった。PTAの活動の一環だったのだろう。しかし、図書館そのものが「開かずの図書館」だったため、彼女の意欲も無駄に終わってしまったと記憶している(整理・修理の作業は、どうやら一時的な「行事」で翌年に持ちこされる事はなく、また、整理されたり修理されたりした本を子どもたちが手にすることなく、図書館は閉じられたままだったからだ)。残念な事であるが、多くの学校図書館に関しては、あれからほとんど進歩していないことこそもっと残念だ。

<私が見たDVDの書誌>

●柳田昭彦制作。五十嵐絹子シナリオ。『学校図書館ビフォー・アフター物語 山形県鶴岡市立藤島小学校:映像と資料、学校図書館リニューアルの実際』、日向工房。
●島根県教育委員会制作。『学校図書館大改造:教職員の協働による学校図書館の整備』。
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コルネーリア・フンケ『魔法の声』を読む。

コルネーリア・フンケ『魔法の声』(WAVE出版)を読んだ。

「物語を声に出して読むとその世界が現実になる」というプロットに惹かれて読みはじめた作品であった。主人公の父モーの声によってこの世界に召還されたカプリコーン一味との闘いの物語である。面白い作品だったが、全体的にモタモタしていて、とくに、終章あたりでは雑な読み方をしてしまった。

日本語訳で600ページを超す大作であるが、読み終わったあとはそれほどの達成感もなく、物語を堪能したというよろこびもあまり感じることができなかった。物語を面白くする要素は、そこここにちりばめられていると思うのに、どうも、モタモタした感じから脱却できなかった。続編『魔法の文字』もユーストで入手済であるが、英語訳を読んでみようかなと思っている。

「おおきなあくび」か? 「おきらくび」か?

最近のJポップの世界は全く知らないので、「aiko」とやらがどんな歌を歌っているのか、どれほど若者に人気があるのか気にしたこともなかった。しかし、NHKの朝のドラマ「ウェルかめ」の主題歌のあまりの聞き取れなさにイライラしていることを授業で話したら、学生から過剰に反応があった(1名)。

曰く、「aikoの歌にも物語がある。理解しようとしない人にとってはわけがわからないだけ」「aikoの曲は、一見つながりのない言葉とメロディが重なり、言葉だけでないそれ以上の世界を作りだしている」というものだ。aikoの曲を知らない私にとっては、残念ながら反論のしようがない意見である。

しかし、「ウェルかめ」の主題歌「あの子の夢」に関していえば、メロディラインがあまりにも不自然なためか、「大きな欠伸」と聞くべきところが、何回聞いても「お気楽日」と聞こえてしまうのであった。しかも、「今朝は何を食べましたか?」に答えてのフレーズだから、フラストレーションがたまることこの上なかった。というわけで、ようやくネットで検索して、「大きな欠伸」であることが判明した。それにしても、「大きな欠伸」か。食べたものは「大きな欠伸」ですか。全然、詩的じゃないじゃん。

もちろん、「あの子の夢」の歌詞を読むことで、ここに描かれた心情を読みとることや、この言葉の中に自分の心情を重ねあわせることもできる。けれども、「季節の変わり目に立ったまま/うまく馴染めないでいるけれど/時が過ぎて変わったとしても/あたしの事/見つけてね」といわれた私は、この子の元彼であったとしても「あー、そーかい」と返したくなる。この子、半径5メートルの事しか目に入ってないじゃん。確かに「物語」はあるが、この程度の物語ですか? こんなに痩せて貧しい物語に「最近の若者」は共感するのか? こんな風にいうのは、若者の感性を理解できないおとなの僻みか?しかも私は、メロディラインや歌い方にもすえた退廃を感じるのである。

むかし、「戦争を知らない子どもたち」を退廃的だの甘いだのと断じた教師たちに反発を覚えたものだが、悪びれるところのない曇りのなさや、ちょっとくさいメッセージ性は認めつつも、今でもいい歌だと思っている。しかし、aikoの歌が長く残るほどの力を持っているとは、申し訳ないが私には思えない。

そういえば、前回の「つばさ」の主題歌の日本語も英語も聞きとれなかったっけ。ますますJポップから遠ざかるわしこである。

授業は…

先週末から今週にかけてほとんどの授業が終了した。12月に入ってからは、咳が止まらず、苦しい授業が続いた。アメリカの語り手たちが愛用しているという”Fisherman's Friend”という喉飴を手にがんばっていたのだが、「しゃべくりでなんぼ」の教員の身には、これも焼け石に水状態だった。毎週毎週「新型インフルでした」と診断書を持参する学生に囲まれて、インフルエンザにかからなかった事はめでたい。

残りは、25日に遠い大学へ今年最後の授業に出かける。はーあ。誰か、馬に人参を!

サトクリフ読書会

ほぼ一年がかりで読んできたThe Sheild Ringを読了した。昨日は、恒例の「終了時うちあげ」であった。普通だったら、まずおしゃべりが始まるところだが、昨日は、おしゃべりもなく、ランチもとばして粛々と読みすすめていった。拍手で読了を祝福し、午後2時頃からワインと持ち寄りの料理をいただきながら、えんえんと盛りあがった読書会であった。

Yさん持参の、<鴨のオレンジソース煮><トリッパ>、Oさん得意の<野菜と鶏肉の煮染め>、そして、私は<イカトロ沢庵><サーモンとホタテのサラダ>を作った。さて、ワインは何本あいたでしょう?

2010年は、心も新たにThe Lantern Bearersに取り組む。

Oさんより、布団の中でも暖かく本が読めるという「袖だけジャケット」をいただいた(手作り)。これは、優れもの。ありがとうございました。

Sun Horse, Moon Horseの日本語訳と<もしも映画になったら>のキャスティングでも大いにおしゃべりを楽しんだ。OさんもYさんも小栗旬ラブのようだ。

図書館の本

ほぼ2週間に一回、わが陸の孤島にも自動車図書館が巡回してくるようになった。ありがたいことである。今週の水曜日に届いた4冊を読了。

荻原規子『RDGレッドデータガール:はじめてのお使い』、斉藤洋『ギリシア神話』2冊、井上ユリ他編『米原万里を語る』である。自動車図書館に常備されている本ではないので、すべてリクエストで取り寄せてもらったものである。PCからリクエストができるのでかなり便利である。しかし、先日は、『水神』上・下巻を同時にリクエストしたにもかかわらず、「下」が先にまわってきたため(電話で申し込まないとこういうことになるらしい。ほとんどの人が順序よく読みたいのだと思うのだが)、上巻は○マソンで購入することになってしまった。この顛末については、ここでも書いた気がする。システム的な問題なのだろうか、いずれにせよ、実際的ではない。

『レッドデータガール』はおそらく何巻にもわたる大河ファンタジーとなるであろうその1巻目のため、物語としては大きな動きはなく、物語の枠組みと登場人物の紹介に終わってしまった。2巻目は今のところY市立図書館では68人待ちなので予約はしていない。斉藤洋の再話による「ギリシア神話」も面白かった。アテナを語り手にして、神々や英雄の勇勲を語り、時々ほの見えるアテナ本音がなかなかに面白い。

ドナ・ジョー・ナポリ

ドナ・ジョー・ナポリのBoundをようやく読了した。これは、シンデレラが元話になっている。しかもシンデレラ物語のルーツと言われる「葉限」(『酉陽雑俎』)を使っていて、中国(明)を舞台にしている。

著者の「あとがき」によると、「時代設定」「舞台設定」「民族設定」の三つの点で、オリジナルとは違っているということだが、とくに「纏足」を巧みに使っているのが効いている。主人公が最後に自立してゆくのがさわやかだ。継姉が、徹底した悪役でなく比較的曖昧な存在なだけに、むしろ継母との葛藤に目がいってしまうので、結末は、この継姉の行く末が気にかかってしまう。

岩波書店子どもの本情報

岩波書店発行の『図書』と小冊子『やかましネットワーク』が送られてきて、新しいラインアップにほくほくしている。

まず、サトクリフの『王のしるし』が少年文庫で新たに登場する(10年1月刊)。ずいぶん長いこと絶版になっていたのだが、最近、サトクリフの作品がつぎつぎ少年文庫で刊行されていたので、「ひょっとして」と思っていたのが、現実になってうれしい。サトクリフ読書会の1冊目の作品であったから、個人的にも喜ばしいし、感慨がある。

また、レアンダーの『ふしぎなオルガン』が来春新版として刊行されるという。これも絶版になって久しいが、うれしい復刊である。私はこの童話集に収められている「魔法のユビワ」を語りにまで昇華させたくて、古い古い英語版を苦労して手に入れたことがある。

「アーサー・ランサム全集」が少年文庫に入るのだそう。これも、めでたい! 『やかましネットワーク』編集後記によると、神宮先生がこの仕事を始められたのは、なんと30代半ばのことだそうだ。

日本語は難しい!

私のまわりにいる人は、日本語であれ外国語であれ、毎日本を読み、思索し、また、それを言語化しようとしている人がほとんどだ。その人たちとのやりとりでにおいては、今までとくに不満を感じたり、問題が生じることがなかった。疑問や問題があれば、こちらの意図をできるだけ簡潔に伝え、相手も的確に論理的に説明する努力を怠らない(不幸なコミュニケーションになったことももちろんある)。また、場合によってはそこから議論が発展する事もしばしばで、それがすこぶる楽しく、知的好奇心をくすぐり、刺激的でさらなる思索を促されることもあった。

このような事は自分にとっては日常的で自然なことだったので、ことさらその意味について考えたこともなければ、その幸福性についてふり返ることすらなかった。ところが、最近、ある日本語コミュニティとそのコミュニケーションのなかで、イライラしたり(一体どういう意味?)、誤解が生じたり(だから何?)、不快になったり(表現が不適切!)、挙げ句の果ては胃のあたりがしくしく痛んだりするということが続いたために、今までの、というか私がベースとしている日本語世界がいかに、論理的で(夫からは、私の言説が非論理的だという指摘を受けることは当然あるが)、明晰で簡潔でしかも内容豊かな世界であることを思い知らされた。

同じ日本語を話したり、書いたりしているのに「話が通じない」「意味不明」な状況が起きるのである。時間をかけて議論した内容が、私にとっては「やおい」で「いみふ」なのだが、どうも、それでOKとする人種もいるらしいことに今さらながら気づいた。こんな世界があったのかというのは、新鮮な驚きであるが、ストレスフルである。絵本だけ読んでいても、日本語表現力や理解力は深まらないのだということをますます実感している。

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