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桐野夏生の…

桐野夏生の『グロテスク(上)』を読みはじめたのだが、読んでいるうちに、不快感が増してきて挫折の予感。「ここまで書くか」という気がするが、かすかに既視感を感じる世界だ。フィクションとして感じるのか、実生活での既視感なのだろうか。口直しが欲しい。
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”言語力”があぶない

昨日放送されたNHK「クロ-ズアップ現代:”言語力”があぶない」を見た。30分の番組に多くを期待することは無理だと思うのだが、「読書」についてはほとんど触れられていないことに不満を持った(「全く触れられていなかった」と書きたいところだが聞き逃したかもしれないので)。

ある専門学校での模擬面接で、「盛岡はどんな町ですか」という質問に答えられなかった若者を例にあげて、とくに現在の若者の表現力の貧しさを検証し、その原因を「子どものころの言語体験」(大津慶応大学教授)や、ケータイメール等の影響による「話し言葉の貧しさ」にあるとしていた。この分析に対して異を唱えるつもりはないが、やはり、ここでは読書量の低下について言及して欲しかった。読書の効用を語彙獲得に限定したとしても、「活字」から得られるものの方が、日常的な話し言葉よりも断然多いのは明らかである。

「子ども時代の言語体験の貧しさ」については、日々その実態を目にしている。私が耳にする養育者から幼い子どもへの言葉かけのほとんどは、指示、禁止、命令といったアップトゥダウンの言葉である。でなければ、ベビーカーを押している養育者(ほとんどが母親と見られる)は、ケータイメールに夢中で、言葉かけなどしていない(しかし、ベビーカーは子どもと養育者のコミュニケーションを断絶するようにできている。ベビーカーの屋根のおかげで養育者も子どもも目線すら交わせないのだから)。したがって、そんな子どもたちが大きくなっても「一次的話し言葉」の世界から、次の段階へ進むことや、「言葉」を使って人間関係を構築することが困難なのは目に見えている。子どもたちだけではない、おとなの使う言葉だって貧しく疲弊していると感じることが多い。どこかに、日本語表現のあまりの曖昧さで意味が通じず、神経性の十二指腸潰瘍になった人がいるらしい。

閑話休題。

スタジオゲストの鳥飼久美子の「言葉はツールではなく思想であり、人間そのものである」という最後の発言には大きくうなずいたが、「だからどうすべき」なのかは、これから議論されるべきものとして、結局、この番組は問題提起としてつくられただけであったようだ。価値を認めないわけではないが、期待していただけに、がっかりだった。

しかし、「機械を通した言葉」を四六時中垂れながしているテレビには、言語力の危機への責任はないのだろうか? NHKが、もし、「言語力の危機」に本格的に取り組むのであれば、まず、テレビの幼い子どもに対する影響につて真摯に考えるべきであろうと思う。

「大人のためのお話会:秋語り」

仕事前に、「おはなしのゆりかご」主催による「大人のためのお話会:秋語り」に出かけた。語り手のほとんどが、「わしこ塾」(英語での語りの勉強会)のメンバーなので、私は大いに楽しませていただいたが、中には「わしこさんがいたので緊張した」とおっしゃる方も。全部で6話聞かせていただいた。細かい点で気になる所はあったが、どのお話も楽しく、久しぶりにお話の世界にたっぷり浸ることができた。

お話を聴きながら、「ああ、語りってこれなんだ」としみじみと了解でき、「朗読」との明らかな違いを身体感覚で捉えることができた。とくに、「大ねこばやし」は、おばあさんが日だまりの縁側で語り聞かせているような感覚すら覚え、語り手のHさんがなにやら、主人公のおばあさんにさえ見えてきたのである。

また、関西の言葉で語った「狼の眉毛」もとてもよかった。とくに後半は、聴き手との「かけあい」というか「間」の取り方がすばらしかった。聴き手の思いを十分引きうけて話を続けることは、簡単なようでいてかなり難しく、経験が生みだす技であると思うが、昨日の語りは、とくに後半部分が語り手と聴き手の呼吸がピタリとあっていて、心地よかった。

日本のお話が3つ、外国(グリム、イギリス、アイルランド)のお話が3つ語られたが、昨日のお話会は、私見であるが、日本のお話に軍配が上がった。グリムは「踊ってすり切れた靴」を聞いたのだが、「お姫さま」のセリフ回しが「らしく」なく、少々俗っぽさを感じたのは残念であった。もう少し語りに端正さが出てくればよかったのではないかと感じた。「お姫さま」ものは、聴き手によりそうばかりでは、「俗」が出てしまうのではないだろうか。語り手と聴き手の間に何か境界のようなものが必要ではないかと思ったのであった。

里の女VSやまんば

里の女が「頼み事」をしてきた。あのときあれだけ私を痛めつけたのに、平然と、そんなことなどなかったことのように、責任を感じさせるような、それでいて、慇懃な物言いで。

私は、試されているのだろうか。あるいは、私が断ることを承知の上で、あるいは、それを見越して、こちらの反応を伺っているのか。しばらく忘れることのできていたあの「ざらざら感」が戻ってきた。

個人の問題を組織の問題にすり替えてしまったことすら気づいてない女(たち)には、もはや言うべき言葉がない。もう、これ以上私は「汚されたくない」。

やまんばのくせに里の高校生のようなことを言っているのは十分承知だ。しかし、藤谷治の『舟に乗れ!』(全3巻)を一気読みしたいまは、しばし、この世界に浸っていたい気持ちだ。いやしい卑劣な人間になるのなるくらいならば、ここにいてはいけないのだろう。

雨なのに…

9月に訪問した鶴岡市立朝暘第一小学校ほかの図書館訪問記を地域の小学校の校長先生にお届けしてきた。保護者の一人であるKさんもご一緒したので、全体的な報告書は彼女が一手に引きうけてくださり、私は、朝暘一小の図書館活用教育と研究授業の内容をまとめた。もちろんメインは、Kさんの報告書である。なんといっても、保護者がお書きになったものの方がインパクトが強いと思ったからだ(Kさんの報告書はここぞという所では写真もついていて、解りやすくしかも的確なものである)。

実は、校長先生には、この見学会をダメ元でお誘いしていたのだった。その後、先生より「行かれない」という丁寧なお返事があり、それではと、二人で始めた作業であった。時間はかかったが、なんとかお渡しできて良かった。校長先生は、インフル問題でそれどころではないというご様子であったが、直接お渡しできたのは良かった。その後、学級閉鎖で職員室にいらした一年生の先生と「読み聞かせ」についてご意見を伺う事ができたのも収穫であった。

かなり強い雨の中を歩いて出かけたが、帰りはすっきりと充実した気持ちで帰ってきた。緊張していたせいか、朝ご飯が食べられなかったのだが(生姜ドリンクを飲んだ)、帰ってきたらほっとしたのか俄然食欲が出てきて、がっつり食した。

午後からは、バレエの自主練習、歯医者(そうじ)など忙しく動いた一日であった。その後、Kさんちのお嬢さんに「コアリフレクション」の基礎を伝授した。少し練習しただけで、立位体前屈の数値がグンとアップした。

ドナ・ジョー・ナポリ『わたしの美しい娘:ラプンツェル』

「ラプンツェル、ラプンツェル、おまえの髪をたらしておくれ」と魔女がいうと、塔の上から長い髪がおりてくるという昔話の一場面は、お話の細部は曖昧にしか覚えていなくても、とても印象深いものだと思う。凡庸な想像力しか持たない我々は、お話を楽しむだけで十分満足してしまうのだが、それに飽き足らない少数の才能ある人が、昔話をベースにして新しい物語を創造する。子どもの本の世界では、少し古いが、エリナー・ファージョンの『銀のシギ』や『ガラスの靴』(未訳)がある。最近では、アンジェラ・カーターもおもしろいものを書いている。

この『わたしの美しい娘:ラプンツェル』は、ドナ・ジョー・ナポリが「ラプンツェル」を下敷きに再創造した物語である。かつて、The Magic Circle(『逃れの森の魔女』として出版)が読めなかった私は、以来、ナポリを敬遠していたのであるが、久しぶりに手にしたこの作品には圧倒されてしまった。「ラプンツェル」をあますことなく使い、そして、彼女自身の新たな物語を作りだしたのだから。

訳者の金原瑞人は、あとがきで、石堂藍の『逃れの森の魔女』評をひいて、この作品ともつながりがあるとしているが、まさにこれほど的確な作品紹介はないかもしれない。

人が誰でも持つ虚栄心や子どもへの執着が、悪魔に直結しかねないという恐ろしさ。そしてそこからいかに救済されるかを、巧みな筋運びによって描き出した異色作である。(石堂藍。『ファンタジー・ブックガイド』、国書刊行会。)

YA作品とあるが、YAだけにしておくのはもったいない。最後は痛烈であるが、ほっとする結末。

いもとようこの『おおきなかぶ』のこと

E=ラーニング大学の授業で、受講生の一人が、いもとようこの『おおきなかぶ』(金の星社/2007年)の最後は、「カブで味噌汁を作る」とチャットを入れてきた。びっくりした私は、早速、件の絵本を注文して確かめた。「味噌汁」は間違い。「かぶのスープ」であった。

これについて発言した受講生は、絵本を一度でも読んでいなかったのか? 確かめずして、人から聞いたまま「味噌汁」とおっしゃったのであろうか。それとも、「スープ」が頭の中で「味噌汁」に変換されてしまったのだろうか。いずれにしても、情報を伝える事の怖さをを感じた。

転んでもただでは起き(たく)ない私は、いもと版の『おおきなかぶ』を実際に手にすることで、いくつかの発見をした。まず、カブを抜く方向が佐藤忠良の福音館版、田島征三のミキハウス版とは逆であること。この、カブを抜く方向はとても重要であると思われるのだが、いもとさんはそこまで考えたのだろうかという疑問をもった。

また、佐藤忠良描くロシアのお百姓さんの手は、いかにも働き者のお百姓さんらしく、がっしりと無骨な手をして、力いっぱいカブの葉っぱの茎を持ってひっぱっている。しかし、いもと版のおじいさんの手は、彼女独特のやさしい色合いで描かれており、茎をしっかり握ってひっぱっているというよりも、ふんわりと添えているようにしか見えない。田島征三のおじいさんも茎をしっかり握っている。

色感といい、表現といいいもと版の『おおきなかぶ』は、昔話絵本として問題があるのではないだろうか。しかし、この絵本がお母さんたちに人気があるのだそうだ。これも件の学生情報であるから、うのみにして良いのやら悪いのやら…。

ぬかよろこび!

リアル大学では、この時期に学園祭を催す所が多く、先週末から学園祭のために授業がない。明日も「休講だ!」と喜んでいたら、明日はなんと国民の休日で全国的にお休みとわかって(ねぼけていてすまん)、とても悔しい。

したがって、本日出講予定のリアル大学は休講なのだが、なんと、6限にE=ラーニング大学の授業がある。うれしさも半減である。

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