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レオ・レオニ作戦

ボランティア先の小学校から、「2年生の読み聞かせでは、レオ・レオニの作品を読んで欲しい」との要請があった。今年度から、「読み聞かせ」の時間が、授業時間にカウントされることになり、また、読み聞かせの回数も、学校側の事情で大幅に少なくなった。読み聞かせ3回(15分×3)で、授業時数1時間としてカウントし、その時間数は、おそらく国語の時間にカウントされるために、その分だけ、読み聞かせの回数が少なくなったのだと、私は推測している。文科省の授業時数を増やせという通達に対して、この小学校では、従来の時間割を動かして授業時数を増やす代わりに、朝の15分(読み聞かせ、ドリルなど×3回)を1時間として帳尻を合わせているのであろう。

ボランティアによる読み聞かせの時間が授業数にカウントされることには、強い抵抗感を持つが、学校には学校の事情があるから、学校のいいなりに活動するしかないわけである。2年生国語では、近々、「スイミー」を学習するので、「読み聞かせでレオニの作品を」という要請もそのあたりから出てきたものだろう(国語の教科書は光村図書版)。正直、おざなりな要請であると感じていた。

先日、副校長との面談で、「レオニ作品を読むとのことですが、せっかくですから発展的に、ブックトークをさせていただけないか」と打診したところ、快諾をいただいた。今年度から新任の新人副校長は、前任校では、教諭として子どもたちに関わり、沢山絵本や物語を楽しんできたということであり、こちらの話にも打てば響くようなシャープな反応を見せてくださった。心強い。というわけで、ゲリラ的に学習会を開催することになった。先日のエントリに書いたように、今年度は学期中に「会」としては学習会を催さないという、代表の方針だからだ。

まず、「レオ・レオニ著作リスト」を作って、2年生担当にファックスやデータで送付した(コピーして手渡すのは、金と時間がかかるからである)。その後、絵本を読みこみ、学習会のレジュメをつくるなかで、レオニの作品を何冊も子どもたちに読み聞かせをすることに疑問を抱くようになった。実は、私はほとんどレオニを知らなかったのである。『スイミー』、『あおくんときいろちゃん』、『フレデリック』、『アレキサンダとぜんまいねずみ』ぐらいしかちゃんと読んでいなかった。というわけで、○マゾン経由でまたまた絵本が増えてしまったのであるが…。

レオニの作品は、冒険や波瀾万丈のストーリーがあるわけでなく、地味に深い物語が展開される。「スイミー」の冒険は劇的ともいえるだろうが、私には、なぜか静かな冒険に思われる。なぜだろう? 『アレクサンダとぜんまいねずみ』には「奇跡」も起こるが、やはりそれもおだやかに静かに訪れる。そのような作品を、15分という時間だけを考えて、複数読むのは、子どもたちは負担にならないだろうかと考えるようになったのである。さらに、「スイミー」の単元目標は、「本と友だちになろう」というものである。ならば、「ブックトーク」にうってつけではないか!

昨日、第1回目の学習会を催した。まず、私が「ねずみがねずみが…」というタイトルで、ブックトークをし(約15分)、その後、「ブックトーク」につなげることができるような、選書の方法を、実際に絵本を紹介しながら示した。「ブックトーク」用に集めた絵本は、大きな袋に二つになってしまった。まず、作品どうしのつながりを見つけることからはじめるのがやりやすい。作品を読みこんでゆくと、いろいろな「つながり」が見えてきて、ほんとうに楽しく豊かな時間だった。






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島根と鳥取

夫が今度は「島根県応援Tシャツ」をうれしそうに見せてくれた。きちんと確認していないが、こちらは、「島根は鳥取の左側です」というロゴが入っているはず。折も折、「はなまるマーケット」のオープニングで、県名や位置を覚える楽しいグッズの紹介をしていた。司会の岡江久美子さんが、「私、島根と鳥取の位置が解らないのよね」とおっしゃっていた。わかる、わかる。よく見てみると、「島根」と「鳥取」って字もよく似ているのよね。「島」と「鳥」だし、「根」も「取」も同じような形の漢字だし…。

ところで、「はなまる」では、「島根県応援Tシャツ」も「鳥取県応援Tシャツ」も紹介していなかった。これは、ちょっと残念。そのうち、「山形県応援Tシャツ」や「秋田県応援Tシャツ」、「栃木県応援Tシャツ」や「茨城県応援Tシャツ」もできるかもね。

やっぱり一年生はカワイイ

今年度から、カリキュラムの変更で、「読み聞かせ」でクラスに入る回数が俄然減ってしまった。大変残念であるが、実は、また別の可能性も見えている(これについては、後述)。昨日は、今年度2回目の「おはなのし×××」の活動があった。私は、前回に引き続き、1年生のクラスに入った。

ご挨拶の後(このクラスの担任が去年度何回かお邪魔したクラスの先生だったので、こちらもリラックスできた)、「どんな本がいい? こわいの聞きたい?」と聞いたら、「聞きたーい」ということだったので、まず、『うえきばちです』(川端誠)を読んだ。意外な展開に、子どもたちは口をあんぐりあげて、笑い声も飛び出した。2冊目は、『かおみえるかな』(UGサトー)。「かおみえるかな」のところで、「見えるー!」、「見えた!」、「見えないー!!」の合唱。「ちょっとうしろに下がると、見えるよ」というと、身体をのけぞらせて、「あー、見えた!」という声が続々。先生も含めてみなでわいわい楽しんだ(この先生は、昨年度は6年生の担任だったが、1年生の子どもたちの中で活き活きしているようだった)。

最後は、『どろうぼうがっこう』(かこさとし)を楽しんだ。なかに、「知ってるよ」とうれしそうに言う男の子がいたので、口に指を当てて「シーだよ」とお願いしておいたのだが、最後に、「くまさかとらえもんせんせい」を始め、「かわいい」泥棒たちがあやしいところに入ってしまったところで、我慢できなくなったらしく、隣の男の子にこっそり「警察なんだよ」と耳打ちしていた。カワイイ。また、「くまさかとらえもんせんせいのかわいいせいとたちが……」という所を読むと、すかさず、「かわいくなーい!」と合いの手が入るのも楽しかった。そういう君たちが「カワイイ」のだよ。

終了後、副校長先生と「読書環境の整備」「読み聞かせと国語の授業の連動」等について、ご意見を伺い、こちらの要望、計画をお話しさせていただいた。新任の副校長は、前任校では、ばりばりと「読書教育」を実践してきたようであり、こちらの話にも、「打てば響くような頼もしい受け答え」をし、ボランティアの活動に関しても、こちらがヴィジョンさえ持っていれば、かなり懐深く、いろいろお骨折りをしていただけるような印象を持った。例えば、「×××」としての「お便りの発行」、図書館の整備、飾りつけなども自由に「やってください」とのことであった(図書館の整備については、学校の責任でやるべきなので、「やってください」というより「お願いします」であるが)。

ボランティの側の意識が高まり、勉強をする意欲が生まれれば、「×××」の活動は、さらなるステージに立てるのではないかと感じている。


どこかで、だれかが

どこかで、だれかが、私のレポートの「お題」について「くせのある出題方法だ」とのたまっていた。これは、褒められたとすべきであろう。今回課したレポートのお題は以下のようなものである。

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第2回目の授業時に提示された、子ども時代の読書に言及している参考文献を最低2冊を[ママ]読み、その上で、あなた自身の子ども時代の読書、子ども時代の大切な1冊について具体的にかつ丁寧に述べてください。

子どもの頃読んだ本は、思いだして書くのではなく、もう一度読見直すこと。また、書誌事項など、なるべく正確に記してください。

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これのどこが「くせがある」のかと、出題した本人は思うのだが、確かに簡単には書けないようにできている。心も、身体も頭も使わないと(3H’s)書けない課題ではある。教科書や参考文献を読んで、ちゃちゃっとまとめるようなレポートなんて書いて欲しくないからだ。いや、それはレポートとはいわない。しかし、多くの学生が、「本を読んでまとめること」がレポートだと思っているらしい。

なかには、この「お題」についてさえ、「教えてください」と訊ねてくる受講生もいる。何を教えればいいのか私には解せない。授業の内容を反芻し、「お題」の意義を考えることから出発すべきであるとは一顧だにしないようである。どうやら、「学ぶ」ことより、「資格の取得」に興味があるようだ。しかも、「楽に」取得することに目がいっている。したがって、彼らのなかで行き交う情報は、課題解決やレポートをクリアするための「ノウハウ」だけである。どうやら、課題のためにもレポートのためにも、「一つの解答」があると考えているらしい。

さらに困ることは、こういった大学内における「公情報」が、大学内掲示板(SNS)に簡単にコピペされてしまうことである。レポートの「お題」に著作権があるかどうかは解らないが、時には、「お題」ばかりでなく、受講生に向けられたメッセージさえも、「コピペ」されている。こちらはそんなつもりじゃなかったのに、私のことばが切り貼りされて、ひとり歩きをしているのを見るのは不快だ。

インターネットに蓄積されている膨大な情報とPCの「コピペ」機能のおかげで、個人が手にすることができる情報量は莫大にになり、かつて「通人」や「オタク族」が持っていた「蘊蓄」は、もはや「蘊蓄」ではなくなり、いくつかのキーワードを組み合わせれば、かなりマニアックな情報すらも簡単に手に入るようになった。1冊も本を読むことなく。これはこれでありがたいが、そのような時代における「レポート」とか「調べる学習」のあり方をきちんと考えておかなければ、「クリックさえすれば、答えはある」と思いこんでしまう考えない人間が粗製濫造されてしまわないだろうか。危機感に襲われている今日この頃である。

免疫力の低下か

免疫力の低下なのか、虫歯でもないのに歯が痛くて、ご飯が食べられない。歯茎に炎症ができたのである。昨日の夕ご飯は、カカオ72%、オレンジ味のチョコレートで凌いだ。抗生物質と痛み止めも飲んでいるが、薬が切れると痛くて、寝ていても起きてしまう。

ちょっとややこしい英語などは読む気にもなれない。今週は、久しぶりにサトクリフの読書会があるというのに…、集中力が持たないのだ。悲しい。というわけで、明け方、痛みで目覚めたので、薬を飲んで、石田衣良の『5年3組リョウタ組』を読みはじめた。この本も夫からまわってきたものである。先日、仕事で出かけた東村山の「ブック・オフ」で見つけてきたものの1冊らしい。

ここ2年ほど石田衣良氏をTVで見かけるようになってから、敬遠していたのであるが、小学校を舞台にしたこの作品は読みごたえがありそうだ。2008年版『坊ちゃん』ということで、注目を集めたらしい。帯には、「教師だって、男子なのだ」とあるが、わかる。

新訳で『そばかすの少年』(光文社文庫、これも夫から)をひさびさに再読。かなり読みやすい訳になっているが、村岡花子さんの古風な訳文も捨てがたいなとしみじみ思う。鳥のおばさん(新訳では「バードレディ」)は、エンジェルにもそばかすにも「きみ」と呼びかけて、非常に活動的な女性で、それはそれで多分正しいとは思うのであるが、現代的にすぎて、昔からの読者には違和感を持たせるかも知れない。

戸塚滝登の『子どもの脳と仮想世界』を読む

夫からまわってきた、戸塚滝登著『子どもの脳と仮想世界』(岩波書店)を読んだ。このところ「読書」関連で、脳科学や認知心理学の本を読むことが多かったが、この著作も刺激的でさまざまな点で啓発された。

著者である戸塚氏は、富山県の元小学校の教師で、70年代からコンピュータ教育を推進してきた、その分野ではパイオニア的存在の方である。しかし、いまは小学校教師をやめ、教育ソフトウエアの開発、研究、著作に従事しているそうだ(著者紹介より)。

彼は、コンピュータ教育は、子どもたちに「仮想世界」を提供するものであるという立場に立ち、それが子どもたちの「脳」や「心」にどのような影響を及ぼすかという点について、さまざまな事例を引用して、警告を発している。実際にコンピュータ教育に当たってきた経験者の「警告」であるため、非常に説得力を持って、現在の子どもたちの危機が語られている。読みながら、「うんうん」と納得し、「やっぱり」と共感し、私自身が、子どもの成長にあたって大切であると感じていたことが、この著作で、理論的に裏づけられたように思われた。

結論を一言でいってしまえば、子どもの育ちにとって一番大切なのは、心(脳のネットワークを完成させる)を作るために、五感を十分使っての豊かな直接体験が重要であるというものである。至極当然で、単純にも思われる結論であるが、この「わかりやすい教育」が、インターネット、ゲーム、携帯電話、テレビなどのメディアが送りだす「仮想世界」によって脅かされているのだ。

そして、私は、「そこに読書の果たす役割はあるのか?」という命題に取り組むのである。その答えは、「イエス」。物語体験は、それだけを見ると確かに「仮想体験」であるが、読書という行為をすることによって、私たちは、想像力や記憶力や推理力を使うことで脳を活性化させ、豊かな情動体験をすることができるからである。

「ゲーム感覚」の本質的な部分をさぐった、ある種のヴァーチャル拷問実験ともいえる「ミルグラムのアイヒマン実験」報告では、モラル判断を無効にするというメカニズムが非常にわかりやすい形で解明され、衝撃的な怖ろしさを感じた。

あー。ボランティア先の先生方に是非読んでもらいたい著作である。

フィリップ・リーヴの『アーサー王ここに眠る』を読む

フィリップ・リーヴによる「サーサー王物語」の再話、『アーサー王ここに眠る』(東京創元社)を読んだ。ゼミ(3年生)で、サトクリフが再話したアーサー王伝説 The King Arthur Trilogy を読んでいるので関連書籍が出版されたとなるとほっておけないのである。

物語は大変面白く読んだ。いろいろ語りたいこともあるが、井辻朱美さんのあとがきがこの作品の特質をとてもよく紹介していると思うので、ここに紹介したい。

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物語を本来の騎士道ロマンスに寄りそって語るか、その裏の歴史的実像をえぐりだすか。これまでのアーサー王関連は大別すれば、そのどちらかのスタンスであったように思われます。ところが今回ご紹介するフィリップ・リーヴの作品はそのどちらでもなく、その上をゆく作品といえるような気がします。(訳者あとがき)

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吟遊詩人のミルディン(マーリン)が、歴史的存在としての「暴君時代に生きた小物の暴君(本文p359)」アーサーを、いかにして伝説的人物に仕立てあげるのかという過程が、ミルディンの弟子グウィナの視点で語られているのである。私はとくにこの作品の「メタ・ナラティヴ」的な要素に深く興味をそそられた。

人間くさいアーサー王の姿を語りつつ(アーサーの苦悩などの内面については推し量ることしかできないのであるが)、それを「物語」にしてゆく意志と過程に惹かれた。

しかし、井辻朱美さんの「訳者あとがき」があまりにも的確、明晰であるので、こんなふうにブログを書くことが無意味であるような気もしている。

地理が苦手

地理が苦手である。東京に出て来るまでは、埼玉以北にある県の位置もあやしかった。「山形県」にしたって、鶴岡に出かけるようになってから、納得したものだ。夫から「庄内に行ってくる」と最初に言われたときには、「???」だった。

中国地方もあやしいものだった。岡山、広島はどっちがどうなのか、とりたてて意識したことはなかったのだが、一度、車で山口県の「りえりん」に会いに行った事で飲みこめたものだ。「萩・津和野」と並べて表記されることがあるが、「萩」は山口県、「津和野」は、と書いてどっちなのか心もとなくなった(島根県かな?)。そういう私を日常的に熟知しているからだろうか、夫から「鳥取は島根の右側です」というロゴと「キタロー」のイラストと「鳥取県のシルエット」が入ったTシャツをもらった。

最近彼は、島根県(のはず)の学校図書館活動に関わり、よく出かけているから、こういう情報も入るのだろう。いや、鳥取にも行ったような気もするが…。大●市が島根だったのか鳥取だったのか、こちらもあやしくなってきた(多分、右側にある方?)。

このTシャツは、今年発売された「鳥取応援Tシャツ」で、昨年は、「島根は鳥取の左側です」という「島根応援Tシャツ」があったらしい。地図は基本的には北が上で頭に入っているから、「右」とか「左」といわれるよりも、「西」と「東」に表記して欲しかったと思うのは、地理音痴のひがみか。それにしても、「鳥取は島根の右側です」と認識できても、米子や安来や出雲(島根?)がごちゃごちゃになっている私の役には立つのだろうか?

地図を見るのは決して嫌いではないが、その土地が自分のなかでいきいきと立ちあがってくるのは、そこを訪れたり、そこに暮らす人との出会いがあればこそである。

読書記録

テレビなどでは連休後半が始まったと報道しているが、私の気分では、「ようやく連休が始まった!」という感じだ。というわけで、積ん読状態であった語り関係の本をまとめて読んだ。

●松谷みよ子。『現代の民話』、中公新書。
●兵藤裕巳。『平家物語:<語り>のテクスト』、ちくま新書。
●兵藤裕巳。『琵琶法師:<異界>を語る人びと』、岩波新書。
●武田正。『雪国の語部:置賜地方の民俗誌』、法政大学出版会。

兵藤氏の『琵琶法師:<異界>を語る人びと』は、『平家物語』を語った琵琶法師の誕生、意義などを一般読者にもわかりやすいことばで伝えてあって、示唆されることが多いものであった。『平家物語』は盲僧によって語られたのであるが、「なぜ盲僧なのか」「盲僧というある意味異形の人間(身体的に刻印を受けた人間)が『平曲』を語る意味」「琵琶法師の宗教的、呪術的な役割が、時代が下がるにつれて、芸能に携わる職能集団に変わってゆく歴史」などが説得力を持って説明される。さらに、『平家物語:<語り>のテクスト』は、前作を補いつつ(とはいえ、出版はこちらが先)、「歴史」が「歴史物語」に変容してゆく有様がつぶさに検証され、知的好奇心が刺激され、蒙が拓けるよろこびを感じさせる。

「語り」関係の書籍では、『昔話の語り手』(野村純一編)をはじめとして、洋書(英語)が数冊待っているが、連休中の読了をめざしてがんば。

「横並び」の組織経営とは

人が集まって組織ができると、それがどんなものであれ、一つの社会ができる。そこでは、リーダーシップを採る人が生まれ、その組織の目的に従ってリーダーのもとに大道集結して行動することが求められる。

集まる人は、それぞれ生き方も考え方も違う人間であるし、組織に費やす熱意や時間や力もそれぞれ違う。そのような組織を「横並び」に運営してゆくことはできるのだろうか? 精神のあり方は別としても、少なくともいま書いた理由で物理的には不可能に違いない。

「出席できない人に、出席できないことで罪悪感をもたせ、組織活動に支障があるのではと感じさせる」から、組織主催の新たな学習会の開催は見合わせたいとのリーダーの意向が伝えられた(2月のこと)。また、「すべての人が新しいプロジェクトに賛成ではないから」と、プロジェクトの推進も危うい状態にある。これらは、「横並びの組織だから」という理由で伝えられたある組織の現状である。

スタートや機会が「横並び」だとしても、結果的にゴールをめざす前に差が出てくるのは当然のことであると思うのだが、「横並び」でないと組織の空気がぎくしゃくすることを危惧し、それを良しとしないリーダーにとっては、私はどうやら目の上のたんこぶのような存在になっているかもしれない。

力がある人やそれを発揮したいと思っている人がつぶされないようにと願うばかりである。



新じゃが

じゃがいももタマネギも新しいものが並び、うれしい季節である。新じゃがは、早速煮物にしてその味わいを楽しんだが、いつも煮物ばかりでは脳がない。というわけで、新しい料理を考えた。きっと、どこかでだれかがやっているのかも知れないが、いちおう、わしこオリジナルである。名づけて、「新じゃがのミルフィーユ仕立て」。ワインにも合う、がっつりした前菜である。

じゃがいもは皮をこそげ取って(新じゃがは皮をむかなくてよいし、すこし残った皮も味わいがある)、そのままうすーくスライスする。それを、オリーブオイルをひいたフライパンに、時々塩を振りながらならべて(この層をミルフィーユと見立てるのである)、弱火でじっくり表面がさくさくになるまで焼く。途中、蓋をして蒸し焼きにすれば、きちんと火が通り、失敗がない。さくさくになったじゃがいもの表面にこしょうとチーズをかけていただく。

じゃがいもの並べ方がうまくいかず、一緒になってくれなければ、溶き卵でまとめてあげるのも一興。これはこれで、しっとりした味わいになる。さぁ、どうぞ。召しあがれ!

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