スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

レポートを評価すること

あるきっけがあって、「レポートを評価すること」について考えている。人間が人間の何かを評価することは、たとえそれが、試験のレポートというものであっても、大変困難なことであり、細心の注意を払わなくてはいけない。また、その評価が、「優」や「A」というよい評価であれば、こちらも気分がよい。「よくがんばったね」「おもしろかったよ」「あなたの考察は論理的で独創的だ」などと独りごちながら、「ありがとう!」の思いで評価をする。

しかし、「不合格」をつけるときには、いろいろ悩んで、どこかで救済ができないのかと悪戦苦闘するのであるが、「不合格」には「不合格」のれっきとした理由がある。まず、明らかにおざなりで「高をくくっている」レポートだ。読んでいて不愉快になってくるレポートもこの手のものが多い。また、「自分の問題意識を言語化して、それに対して、さまざまな観点から考察し意味づけをする」というのが一般的なレポート作成のプロセスであろうが、最初の出発点が曖昧だと、それは最後まで曖昧なレポートになってしまう。テーマを広く設定しすぎると、大海で溺れることにもなりかねない。

ひどいレポートの第1番目は、他人の文献をまとめただけのものを「レポートでござい」と平然と提出されるものである。今でこそ「調べる学習」という探究型学習が定着しつつあり、「レポートを書くこと」イコール「文献をまとめること」という図式は否定されてきているように思うのだが、現在の大学生レベルでもまだまだの感がある。すると、私などは、出題方法を工夫して、なんとか「プロセスを大事にできるような」レポートを考えるのであるが、それにしても、限界がある。

もっとひどいのは、「パクリ」である。今回、99%「パクリ」のレポートを見つけてしまった。レポートを読んでいるとき、私は「このレポートはパクリだろう」だなんてレポートに向きあっているわけではない。しかし、読み進めていると、何かにスイッチが入るのである。「これどこかで読んだことがある」「なぜこのような専門的で高度な解釈を参考文献なしで議論できるのだろうか?」「研究者としての私のキャリアを持ってしてもここまでは言えないが、なぜここでは断言できるのか」「ここまで議論するためには、文末の文献だけでは無理がある」などのセンサーが働くのである。

だからといって、「パクリ」とは当然断定できない。「パクリ」と断定するには、○○の文献の○ページの○行目からの文章が、引用記号もなく自分の文章として使われていることを実証しなくてはならないからだ。疑わしくても特定できなければ、「盗用・剽窃」として告発はできないし、「不合格」にすらできないことがある。めったにないことであるが、このようなレポートに遭遇すると、怒りを通りこして悲しくなってくる。「天網恢々疎にして漏らさず」。昔の人はよくいった!

無知や不注意が原因で結果的に「盗用・剽窃」が疑われることがある。「レポート指導」が至らなかったせいだと反省しなくてはいけないのであるが、当のご本人は残念ながら、全く無自覚で、たいてい「文献を読んで一生懸命書いた」との言い訳をもらう。「一生懸命取り組んだもの」が、それだけでよい評価を受けるとも思われないのだが、どうやらそのような誤解や思い込みがあるということを、嫌というほど知らされた。

このような心性を持っている人は、自分のレポートを客観的に見ることができず、「不合格」をもらうと、まるで自分の人格を否定された思うらしい。その気持ちも理解できるか、少し冷静になって、自分の中に他者を作って、もう一度レポートを読み直してもらいたいものだと心から願う。

私自身も過去に、学会において論文をリジェクトされたり、「こんな内容では受理できないから、書き直せ」との指示を受けた経験がある。確かに、愉快でないし、落ちこむし、辛い出来事である。情けなくもなる。しかし、そこから出発しなければ、成長はないのだ。辛くても立ちあがらなくてはいけないのである。言い訳もしたいが、それは、自分の傷をなめているだけである。自己愛で自分自身をかわいそうがっているだけでは立ちあがれない。「たかがレポート」。「不合格」ならば、つぎにチャンスがあるではないか! 自分の努力如何によっては、「A」だって「優」だって手に入るチャンスはあるのだ。

私の友人は、「可」や「C」(最低ランク)をつけることは、その学生の「学びの姿勢」に対する異議申し立てであって、「二度とあなたにはお目にかかりたくない。さようなら」の意味を持たせているといったことがあるが、それならそれで「可」や「C」と判定することは、また別の意味が付加され、さらに注意が必要になってくる。

しかし、まともなレポートを一本も書くことなく卒業できることもある日本の大学って、一体、なんなんだと思わざるを得ない。
スポンサーサイト

続きが気になる

続きが気になって「自ら本を読む」、つまり、自発読書を促すために、何をしたらいいのかいろいろ考えています。小学校での<エルマープロジェクト>も、ゴールはそこにあります。

「絵本の読み聞かせ」(わかちあい)は必ずしも、「自発読書」に結びつきません。絵本のわかちあいは、子どもたちを「本の入り口」まで連れてゆくことはできるとは思いますが、さらに、その深い世界へ誘うためには、いろいろな工夫が必要だとずっと考えて来ました。

続きが気になって、『ホッツエンプロッツ二たびあらわる』を読みはじめたおにいちゃんを見て、内心「しめしめ」と思いましたが、読み手主導での「耳からの物語体験」にも実は捨てがたいものがあります。1人で読むとなると、筋が気になって読み飛ばしたり、読みが疎かになったりすることもありそうです。

子どもの文学を勉強しはじめた頃、著名な児童書編集者やアメリカで児童図書館学を学んできた優秀な指導者が、「自分で読めるようになっても、3年生ぐらいまでは読んできかせてください」とおっしゃっていた事をよく覚えています。当時、「なぜだろう?」と思いながらも、当の発言者も「なぜ」とは深く追究せず、経験則でおっしゃっていたような印象を持っていましたが、いまここにきてそれがようやく納得できました。

『おおどろぼうホッツェンプロッツ』を読む

韓国のりこちゃん(小1)に、暇を見つけて『おおどろぼうホッツェンプロッツ』を読んでいたのがとうとう先日読了した。途中、2週間ぐらいぽっかり空いた時もあったのだが、きっと彼女には「物語のひきだし」があったのだろう。読みはじめるとすーっとお話の世界に入っていったのが印象的だった。私自身も、声に出して読むことをかなり楽しませてもらった。

というわけで、昨日は『おおどろぼうホッツェンプロッツふたたびあらわる』にはいった。おにいちゃんも一緒に「もっともっと」とせがまれて、途中「おやすみ」を入れながら、70ページぐらい進んでしまった。さすがに、限界か。私が読み終わると、続きが気になるおにいちゃんは、早速自分で読みはじめていた。

「おばけ」と「かいじゅう」

E=ラーニング大学で久しぶりのオフ会があった。「資料組織法演習」と「児童サービス論」の合同で半期に一度開いている。強烈な雨女か雨男(誰だ!)がいるらしく、またもや雨の中の開催となった。

ふだんは全国各地に散らばっている学生が集合するのだから、自己紹介をして近況報告や雑談をするだけでも楽しいのだが、さらに何かお楽しみをということで、今回は1冊の絵本をトピックにあげた。というのも、ある学生(公共図書館の司書)が3年がかりで、『いるいるおばけがすんでいる』(以下『おばけ』と表記)を手に入れたという情報を仕入れたからだ。

『おばけ』は、子どもの本に関わっている人で、この本の存在を知らない人は「もぐりである」と断定してもよいほどの絵本とされる『かいじゅうたちのいるところ』(以下、『かいじゅうたち』と表記)の別バージョンである。私自身もその存在は知っていたのであるが、実際に実物を目にしたことがなかった本である。というわけで、『おばけ』と『かいじゅうたち』の読み比べをしてみようということになった(した?)のである。ついでといってはなんだが、それならば、英語の原文も読んで、絵本を解釈してみようと、言い出しっぺの私がしゃしゃり出ていったのだった。

事前に『かいじゅうたち』を読んでくること、可能ならば持参することとの告知をしてあったので、会場に来たそれぞれが、手元に絵本を置きながら、じっくりと観察、鑑賞することができた。また、なかなか手に入らない『おばけ』の方も図書館から借りてきてくれた参加者もいた。さすが図書館学の学徒である。

さて、66年出版(原書は63年)の『おばけ』は、当時の子どもの本の出版事情、受容状況、日本の経済状態などを反映したものであることが、訳文からも、絵本に付録として添えられていた冊子(マザーズブック)からも把握できた。『マザーズブック』には、原文と原文の忠実な訳、日本語訳を作るにあたっての編集委員会の見解、丁寧な解説があって、じっくり読むと興味は尽きないのであるが、やはり気になるところは、「wild things」が「おばけ」と訳されている点と、「おとな目線」の訳文であろう。

『マザーズブック』の「親のための原文研究」の章には、「おばけ」と訳した根拠として、以下のような記述がある。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
Wild には、野生の、野育ちの、乱暴な、手におえないなどの意味がふくまれています。本文では、それらの意味から、さらに、幼い方々にもなじめることばとして「おばけ」と訳しました。ただし、日本的な「おばけ」よりずっと野性味のあるものとして受け取らせてください。したがって、本書のタイトルも本文の一節をとり、「いるいるおばけがすんでいる」と、原文からはなれて訳しています。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

翻訳者(『おばけ』版は翻訳者として個人の名前が挙がっておらず、翻訳編集委員会が翻訳の責にあたったと推測される)の意図は理解できるものの、あの絵を「おばけ」とされると違和感を禁じ得ない。また、訳文全体からも、この編集委員会が、作品の核となっている「子どもの心の世界」をきちんと理解していたのだろうかと疑問を持ったが、「孤独な子どもの脳裏に浮かびあがる幻想を重要なテーマにしている」との見解も示されている。解釈が日本語訳に反映できなかった不幸な例だったのだろうか。66年にいったん翻訳されたものが、75年に別の出版社から訳し直されるというのはどのような事情があったのだろうか。考えれば考えるほど気になるところが出てくる。

75年版で「wild things」を「かいじゅう」とした経緯については、訳者の神宮輝夫先生にお伺いしたいところであるが、これも時代背景が大きく影響していることを発表者から示唆された。男の子にとっては、「かいじゅう」といえば、「ウルトラマン」と分かちがたく結びついているらしい。「ウルトラマン」の放映が始まったのが1966年、その後「ウルトラマン」は幾度となく再放送されていたそうだ。そのウルトラマンが戦う相手は、「怪獣」であったいう。古くからあった「怪獣」という言葉を、「凶暴なものと不可解なものと畏怖すべきものを併せもった存在に定義しなおした」(碧岡烏兎)時代と文化が浮かびあがってくる。

子育て中の親にとって、時に子どもは「かいじゅう」として立ちはだかる存在であるが、ことによったら絵本『かいじゅうたち』が、その名づけに一役買ったのかもしれない。『かいじゅうたちのいるところ』によって、私たちが子どもの「かいじゅう性」に気づき、その意味を与えられたことは大きい。

ところで、66年版の監修委員には、三島由紀夫やハル・ライシャワーの名前が挙がっているのも興味深い。

配架?排架?

図書館の図書や資料を書棚や特別な場所に並べることを「ハイカ」というが、私はずっと「配架」と表記すると思っていた。しかし、「排架」と表記することもあり、こちらの方がより人口に膾炙していることをきいた。いや、「排架」のほうが正しいとされているらしい。特殊な専門用語であるという理由からか、この意味での「ハイカ」という語は、『日本国語大辞典』には採用されていない。

手元にある図書館関係の書籍を確認してみたところ、「排架」が一件、1998年に出版されたときには「排架」を採用し、2009年の新シリーズへの移行に当たって改訂された版では「配架」を使っている例を一件見つけた。

「排架」ではなく「配架」という言葉を使うことを意識的に提唱しているグループの存在もあるらしいことも解った。英語では shelving という語が使われている。shelfというごく普通の名詞を動名詞化して使っているわけで、特殊性を感じさせることはないが、『リーダース英和辞典』には、shelfの動詞として「(書物などを)棚に入れる」という語義は与えられていない。しかし、shelving という言葉から、本を棚に入れる行為をイメジすることは難しくない。

白川静先生の『常用字解』では、「排」という字は「二つ並んでいるものが、他の一方を儕(お)すの意味」、「おす、おしのける、はらう、のぞく」のほか「ならぶ」という意味に使うとあり、「排列」という言葉もあるわけで、間違いとはいえないだろう。けれども、「排架」といわれると、私は、「排」という字から「排除」「排撃」を連想してしまい、図書館員が、ぎっちりと詰まった書棚の本を押しのけて、別の本をぎゅうぎゅうと押し込んでいる姿すらイメジしてしまうのである。

『日本国語大辞典』によると、「排列」も「配列」も両方使えるとされているが、歴史的には「排列」という語の方が早い段階で使われていて(初出は『正法眼蔵』)、「配列」が使われ始めるのは、20世紀にはいってからだということが解る。

今年度最後の「読み聞かせ」

先週、今年度最後の「読み聞かせ」を終えた。最後の2回は、6年生に入った。ちょうど、『エルマーのぼうけん』の最後の練習が自宅であったので、練習終了後、「明日、これを読もうと思うんだけど」といって、『えぞまつ』(神沢利子ぶん/吉田勝彦え/有澤浩監修/福音館書店)をみなさんに聞いてもらった。みなさん初めての絵本だったらしく、とても新鮮に聞いていただけた。「6年生でも大丈夫! 是非読んでみたら」というあと押しももらえたので、『えぞまつ』を読むことにした。しかし、この絵本は、ページによっては、字がバックの色に消されていて読みにくいのである。そのため、読みにくい部分を中心に、暗記できるようになるまで練習を繰り返した。「泥縄」のそしりは免れないけれど。

地味な本であるが、それを「そのままたんたん」と読んでしまったら、この物語の核にあるメッセージは伝わるだろうか。一つ一つの言葉を大切に、丁寧に心をこめて伝えようと心がけた。短い絵本だが、抱き合わせにする絵本や物語にこれといったものが見つからず、絵本を読む前に、詩を二つ紹介した。

最終週は、前回の教訓を踏まえて、『鹿よ おれの兄弟よ』(神沢利子作/G.D.パヴリーシン絵/福音館書店)を選んだ。この絵本も「命」という大きなテーマで、『えぞまつ』と通底し、低い和音を響かせている。しかし、この大判な『鹿よ おれの兄弟よ』を片手で持って、ほぼ10分というのはきつかった。筋トレもしなくちゃいけない「読み聞かせ」であることを悟った次第。

ところで、朝の「読み聞かせ」とはいえ、高学年にはこのような深いテーマを持つ絵本や物語を紹介することもあるだろう。そのようなときには、どうしたらよいのだろうか? 『えぞまつ』のように5、6分で終わってしまう絵本には、ほかにどのようなものを組み合わせたらいいんだろうか? 導入の「つかみ」に、幼い子どもたちを対象にした絵本を選ぶこともあるが、それを子どもたちはどう感じるだろうか? 悩みながら、考えながら、来年度もがんばろう。 

祝『The Mark of Horse Lord』読了

昨年の5月から読みはじめたローズマリ・サトクリフのThe Mark of Horse Lord をとうとう読了した。毎月2回、ランチをはさんで、ほとんど1日がかりの精読タイムであった。1回に1章ずつ、音読し、日本語に訳してゆくというごく平凡な「輪読会」である。

児童文学だからとサトクリフの英語を甘く見ていると、しっぺ返しを食らう。彼女の英語は、土台をきちんとくんで丁寧に時間をかけて建てた家のような文章にも思われる。緻密な構成とその表現に苦しめられたこともしばしばだった。なんといっても、地勢や風景描写、古代の風俗・習慣など、私たちの限られた想像力ではイメージしにくい場面が数多くあった。

本国イギリスでは「読める」子どもが少なくなってきたと聞いたことがあるが、日本では、数年前にちょっとしたブームが起きた。しかし、このブームも子どもたちにむけられたものというより、往年のサトクリフファンに差しだされたもののようだ。

『第九軍団のワシ』をはじめとする<ローマン・ブリテンもの>が新しく岩波少年文庫版で出されたが、子どもに手渡す前に、まずは、教師や図書館員にじっくり読んで欲しいものだ。

というわけで、先日は読書会終了後、「読了飲み会」とあいなった。「途中で挫折するかもしれないと思った」ほどだったから、読みきったあとのワインは格別の味がした。

次回からは、The Sheild Ring である。こちらは、「ノルマン人の征服」を時代背景にした、湖水地方に侵攻していたヴァイキングの話(らしい)。

芋づるをたどって

読書の芋づるをたどってゆくと、ときに、同じ芋づるを持っている人に出会うことがある。このたびは、『とんぼの目玉』(未来社)の長谷川摂子さんであった。長谷川摂子さんのことは、私はつねづね尊敬申し上げ、密かに淑している。彼女は創作も評論もこなすすごい人だ。アカデミズムとは無関係なところで生きていて、だからこそなのだろうが、彼女の評論の言葉は「子どもの現在」に根ざしていて、深く哲学の域にまで達することがある。

少し古いが『子どもたちと絵本』(福音館書店)は、私の大切な1冊である。この絵本論の続編を是非にと思っているのは、私だけではあるまい。名高い『めっきらもっきらどおんどん』や『おっきょちゃんとかっぱ』では「子どもと異界」をテーマに、授業で幾度となく使わせていただいた。また、連作集である『人形の旅立ち』とは、いつか必ず作品論で格闘させていただきたいと思っている。

その長谷川摂子さんが『とんぼの目玉』で私と同じ『遠い朝の本たち』を抱えて立っていたのである。なんだかうれしかった。そして、そこで私が長谷川さんからもらった芋づるは、ゴンブリッチの『美術の物語』である。

この『美術の物語』(ファイドン・プレス社)は、長谷川さんや長谷川さんのご主人のお仲間が、じつに30年もかけて、最初は翻訳のことなど眼中になく、とにかく「読み解く」ことを目標にした書物なのだそうだ。このあたりのことについては、『とんぼの目玉』に詳しい。言葉にまつわるこのエッセイ集は、その名に違わず、言葉のこと、翻訳のこと、彼女が敬愛する柳田国男翁のことなど、簡単に読みきってしまうのにはあまりにも惜しい知慮の数々がある。柳田翁への苦言など、敬愛しているからこそのものだとも思われる。

ところで、『美術の物語』には、「訳者あとがき」もなければ、麗々しく「訳者」の経歴が書かれているページもない。訳者の名前は、見開きページ裏に、ひっそりと、ほんとうに慎ましく書かれているだけだ。私は、このことも訳者からの一つのメッセージとして受けとめたい。

私の読書

私の読書は「芋づる式」読書である。何かにひっかかり(ほとんどの場合、本などの活字)、そこからづるづると芋をたぐるように読んでゆく。最近は(1月のことだから、よく考えるとずいぶん昔の話だ)、『ユリイカ<特集米原万里>』のなかの佐藤優の文章を読んだことから、『国家の罠』『国家の自壊』『獄中記』と一気に読んだ。ベストセラーになっていた時には、「うさんくさいな」と敬遠していたのだが、「米原万里さん」が中に入ってくれたおかげで、読んだ本だ。うさんくささが全て払拭されたわけではないけれど、かなり面白かった。

現在の日本の外交政策が、とくに小泉政権時代に「ブッシュのポチ」の色合いを強めたことの一つの要因に、「宗男と優問題」や「真紀子と外務省のけんか」のことがあることが解ったのも収穫だった。だから、先日、小泉が訪ロしたことについても、なにやら「裏」を感じてしまったが、まぁ、このへんは、素人の勘ぐりなのかもしれないけれど。

その芋づるの始まりの本に、猪熊葉子先生の『児童文学最終講義』(すえもりブックス)があり、最近、再読した。そして、再び芋づるをたぐろうと、須賀敦子の『遠い朝の本たち』を書棚でずっと探していた。それ以外の須賀本(猪熊先生は、ガスちゃんとおっしゃっていた)は見つかったのに、この『遠い朝の本たち』だけが見つからず、無駄を承知で、再度購入し、先ほどから読みはじめた。「はじめて読む本」だった。そして、すばらしい内容だった。

私は、かつて『児童文学最終講義』を読んだときに(本のもととなった最終講義にも参加してるし、内容も深く心に響いたことも記憶しているのだが)、芋づる式に『遠い朝の本たち』は読んでいなかったのだろうか? いや、それならば許せる。しかし、こんなすばらしい内容の本を、もし、私が読んで、そのことを忘れていたとしたら、自分を許すわけにはいかないではないか! いくら最近、「物忘れ」がひどくなり、金曜日の「読み聞かせ」のあとの予定をすべてすっかり忘れてしまうような「ぼけ」だとしても、須賀さんの『遠い朝の本たち』を読んだことを忘れるなんて、情けない。でも、表紙にも記憶がないので、読んでいなかったことにしよう。

ブログ内検索

RSSフィード

リンク

月別アーカイブ

最近のコメント

プロフィール

わしこ

  • Author:わしこ
  • 無断転載ご遠慮ください。
FC2カウンター
最近の記事
カテゴリー
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。