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『エルマーのぼうけん』

金曜日に『エルマーのぼうけん』第2回目を子どもたちの前で読んできた。「エルマー川をみつける」と「エルマーとらにあう」の章である。

翻訳権の問題もあるのであまり大きな声では言えないのだが、「子どもたちを前に声に出して読む」ことを前提にして、テキストを検討すると、口に乗りにくいところ、解りにくいところが出てきて、原文を参考に細かいところにまで手を入れることになった。また、「エルマー川をみつける」の章では、2つおこった「こわいこと」のひとつ目(暗闇の中の亀との会話)は、「どうして怖いのか」を読み手がきちんと理解して、読み方に表情をつけなくては、子どもたちには伝わらないことも解った。

暗闇の中の声に問われて、「そうだよ」「しょってるよ」「そうとも」と答える場面は、やはりエルマーになって感情移入をしないと台無しになってしまう。また、トラたちがエルマーを脅す場面でもちゃんと怖い声で読む必要がある。トラになった私は、ひとりひとり子どもの目を見て台詞を言ったが、夜思いだしてトレイにいかれなくなった子どもがいたらどうしようと、ちょっと反省している。大丈夫だと思うけどね。

読み終わったあと、「もちもの」を書いた紙もおいていって欲しいとの要望があったので、それもおいてきた。また、一週間、「今度は何を使うのかなぁ」と思いながら待っていて欲しい。
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絵本から物語へ

小学校の子どもたちと絵本をわかちあうことは、楽しいし、意義のあることだと思う。しかし、「読書」や「自発読書」の称揚という観点から考えると、「絵本の読み聞かせ」から「読書」には簡単には結びつかないことが解る。それは、大学生を見ていても解ることである。授業を受けて絵本の面白さや深さに感銘したといって、「最近は絵本売り場によることが多くなりました」ということを伝えてくる学生は多いが、「昔話を読んでいます」「物語の面白さに圧倒されました」というのはあまり出てこない。

というわけで、「読書」への橋がかりを作るために、ボランティアに出かけている小学校で、ある試みをすることにした。私が関わっている小学校の1年生の「読み聞かせ」は、7月から始まるが、なるべく「自発読書」を促すようなプログラムを考えて、「おいしいおかゆ」などの「語り」(声の物語体験)もプログラムに入れてきた。それをさらに発展させるために、『エルマーのぼうけん』を、リレー形式で(ひとりが同じクラスに入れないため3人で)、週1回読むことにしたのである。全てを読むことができればよいのだが、行事などがあって連続して時間がとれるのは3回だけということもあって、3回にわけて、「エルマーライオンにあう」までを読むことを目標にした。お話に入ってくれれば、子どもたちが自分で読めなくても、先生に残りを読んでもらうということも視野に入れての試みである。

先日、3人が集まって、うち合わせと練習をした。三人三様の「エルマー」であるが、よいこととしよう。また、絵の得意な、KSさんが「みかん島」と「どうぶつ島」の地図を描いてくれ、また「エルマーの持ち物」も大きな紙に書きだした。

物語の枠組みを作る導入の2章は、大人数の子どもたちに、声に出してよむと冗漫になってしまうことを危惧して、5分半ぐらいにまとめた。もちろん、エルマーの持ってゆくものを羅列するところは活かして、何とかテクストを作ったのは私である。「声に出して読む」ことを前提にして、日本語テクストを検討してゆくと、問題も出てくる。例えば、「出帆」という言葉は、一対一で読んでいる場合には問題ないだろうが(聞いている子どもが解らなくても、読んでいるおとなにたずねることだってできるから)、クラス単位での読み聞かせとなると、配慮すべきであろう。気になる表現もあるので、結局、マゾンで原書を手に入れた(ついでに、『アクセント辞典』も買ってしまった。ボランティアって身体だけでなくお金もかかるのね)。

原書を読んでびっくりしたのは、エルマーというのは、語り手である「ぼく」のおとうさんのことで、原書の第一巻目は、「my father云々」というのがしつこいほど出てくる。また、タイトルもMy Father's Dragonなのである。これについては、後日、じっくり考えたいと思う。

金曜日に第1回目をKSさんが担当した。ちょうどその日は授業が休講で、「読み聞かせ」当番はなしにしていたのだが(久しぶりに朝寝を楽しもうと思っていたのである)、子どもたちの様子を見るために、私も教室のうしろで聞かせてもらうことにした。みんなはじめから、熱心に聴きいってくれていたが、冒険に出発するまでは何となく身体がゆらゆらしていた子どもたちが、冒険が始まると、身体のゆらゆらがピタリと止まったのには驚いた。口をあんぐり開けて聴きいっている子どもたち、身を乗りだしてお話に入りこんでいる男の子たちの姿がうれしかった。

来週は、私の番である。地図は子どもたちにじっくり見てもらいたいと考えて、教室に貼ってもらうように先生にお願いした。地図を見ながら、お話を思いだしたり、これからどうなるだろうと、想像力を働かせてもらえたらいいなと思っている。

ボランティアの責任

小学校での「読み聞かせ」ボランティアについてのお話。

ボランティアのメンバーの一人が「ドタキャン」をして、お世話係さんがピンチヒッターを捜していると聞いたので、「お休み」にしてあった16日は返上しなくてはいけないかと、思っていたのだが、そこはどうやらやりくりがついたようだ。

しかし、この人は(例の人です)、前学期にも「娘がお産だから」という理由で、「ドタキャン」があった。今回の理由は、「母親の怪我」らしい。確かに、「怪我」という突発的な出来事では、仕方あるまいと思うのだが、一週間に一回、しかも、朝のほんの短い間の「読み聞かせ」にも時間がとれないのだろうか? と少々、不思議に思った(往復の時間の余裕を見ても45分で終了)。精神的にそれどころではないのかもしれないが、しかし、私は、そこに「無責任さ」を嗅ぎとってしまうのである。

「できるときにやるのがボランティアでしょ」という開き直りである。ボランティアだとしても、いや、だからこそ、心して参加すべきではないかと、正論をぶつけたくなってしまった。

これも仕事…

大学の教師の仕事は、研究と授業だけだと思われている節があるが、それだけではない。常勤の教員は、当然のことながら、学校経営に関わる仕事がある。私学では、そろそろ授業は終了するが、その後、試験、採点とかなり厄介な仕事が続く。そして、一年に一度の「営業」が待っている。最近では、大学側が手を変え品を変え「営業活動」を行うので、この時期、常勤の教員はけっこうきついものがあると思う。

私のような、ドサまわりフリーター教師も、この時期、授業や試験以外で、「営業」の細々した仕事が待ち構えている。そして、これがけっこう時間をくうのである。その仕事とは、来年度扱う商品の選択とその宣伝活動である。つまり、テキストの選択とシラバスの準備をしなくてはならないのである。お客さまが商品を買ってくれないと、フリーター教師などすぐ首になってしまうような状況だから、かなりいろいろ考える。大学によっては、ゼミに集まる学生数で、その教員を評価するらしい。

だから、あるとき、常勤の教師が、「学生数を減らし、やる気のある学生(だけ)を集める」ためにいろいろな方策を考えているとおっしゃった時には、かなり不愉快だった。常勤先がある先生っていいよねぇ。ドサまわりフリーター教師にはそんな贅沢なことはいえない。「やる気のない覇気のない学生のおしりを叩いて、こちらへ興味を向かせる方策」をつねに考えなくてはいけないからだ。で、結局、「先生、最初、こわかった!」と言われてしまう。まぁ、「最初、こわかった!」だからよしとしよう。「最後までこわい」時もあるしさ。

大学で教えているというと、「すごい!」と思われたり(中には、「へえ、英語しゃべれるんですね」などとナイーブな質問をされ、返答に困ることもあるが)、「えらい!」と勝手に誤解して下さる方がいるが、よーく見てくだされ。大学で教えているといっても、非常勤では「ドサまわり」の「フリーター」にしかすぎないのである。

で、ようやく懸案の来年の商品が全て確定した。英文科の1年生には、The Little House in the Big Woodsで勝負しようと思うが、どうだろうか。

カニグズバーグの『The Mysterious Edge of the Heroic World』を読む

翻訳が出ないうちに読みたいと思っていたのだが、ようやく、カニグズバーグのThe Mysterious Edge of the Heroic Worldを読了した。読みはじめたら、面白くて、やめられなくなってしまった。カニグズバーグらしさが随所にあらわれている秀作である。

作品は、すでに『ムーンレディの記憶』というタイトルで、日本語訳が昨年11月に出版されたことをネットで知ったが、このタイトルはどうだろうか? 自分が人間としての尊厳を守れるかどうか、その「境界」に踏みとどまることができるかどうかが、タイトルにあらわされた"the mysterious edge"なのだと読めたのであるが…。

一枚の絵をめぐる謎を解きほぐすという推理小説的な趣も面白いが、その謎を解きほぐすことによって、ナチの時代が浮かびあがり、その時代に生きた人が強いられた人生やその悲劇が、声高ではなく淡々と語られる。もちろん主人公は二人の少年であるが、主人公にも劣らない存在感を持った二人の老婆はすごい。



サトクリフ 『Song for a Dark Queen』を読む

サトクリフのSong for a Dark Queenを読みおえた。サトクリフにしてはめずらしく、女性が、それも実在の女性を主人公にしている。馬族の女王、Boudicca(ブーディカ)の生涯を、彼女の竪琴師(竪琴を奏で、女王のために詩をうたう語り部)の視点から語ったものである。

紀元前55年に、ローマ軍は初めてブリテンに足を踏みいれる、その後、紀元前45年に本格的な侵攻が始まり、この作品の背景となるブーディカの「叛乱」(ブーディカたち氏族にとっては、自由を守るための戦いである)は、紀元60年である。

ローマによって辺境に追いやられる前の馬族の女王や馬族をとりまく氏族たちと彼らの集結、戦い、離散が容赦ない筆で書きすすめられる。「平和」の名目のもとに、収奪や占領が行われているのは、今もそこに起きているではないかと思わざるを得ない。人間はそれほどまでに愚かなのか、民族や宗教はそれほどまでに人間を頑なにしてしまうのか。

先日、Mark of the Horse Lordを読みおえたばかりだが、こちらも馬族を扱っており、Song for a Dark Queenの「あと話」のような位置を占めている。この作品では、すでにブリテン島の辺境に追いやられて、分断された氏族たちの生き残りの戦いが描かれている。

ベトベンで明けた2009年

上野の東京文化会館で行われた「ベートーベンは凄い:全交響曲連続演奏会2008」に出かけてきた。体力的に持つかどうか、眠くなったりしないだろうか心配だったが、演奏会中は「禁酒」を誓ったせいか(ランチに「鰻」とビールを頂いた)、疲れて、少しぼーっとしたものの、全曲聞ききった! 全曲演奏した楽団員は凄かった! 全曲振りきったコバケンはさらに凄かった。まさに「ベートーベンは凄い!」と感じた。

私見では、「のだめ」でかなり有名になった「7番」がいけなかった(観客の反応はとてもよかったけれど)。その時ばかりは少し眠気がきたものだ。コバケンの7番はシャープで激しすぎる。もう少し、やさしさというか、甘さが必要だったように思う。8番のような叙情的な曲もステキに振るのに、典雅で華麗な7番は、コバケンは苦手なのかもしれないと思った。彼の佇まいや生き方を見ていると、そうかもしれないという気もするのだが。

帰宅は午前3時過ぎ。「大晦日の電車は終夜運転している」という言葉を信じていたら、横浜からこっちは、「運転なし」であった。ゆっくり眠るつもりでいたが、結局、いつもと同じ時刻に目を覚まし(遅いバージョン)、朝の9時には、ピンクのシャンパン(ピンドンではないが)で、新年を言祝ぎ、お酒とお雑煮でいい気分になりながら、くり返し「9番」を聞いて、「やっぱ、近くで聞くとオケは合唱の伴奏ではないなぁ」とベトベンの余韻に浸っていた、元日であった。

コバケンのこれが一番!

①9番 ②5番 ③8番 ④6番 ⑤⑥1、2番 ⑦3番 ⑧4番 ⑨7番

今年も元気で本を読みたいと思います。よろしくお願いします。

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