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ああ勘違い!

先日急逝した、ニュース・キャスターのC紫T也氏が日曜日の某番組(エンターテイメント系)に出ていたのに、「あり得ない!」とびっくりしていたら、案の定、間違って記憶していたようだ。真相は、T越S太郎氏だった。

では、Aフラック(それともAリコ?)のガン保険のCMに出ていたのはどちら? 康夫ちゃんの影響で、C氏に限らずTVでコメントを垂れながす知識人と目されている輩は信用できないとばかりに、顔すら覚えていなかったためにおきた「びっくり」である。

ところで、件の厚労省元幹部殺人事件に関して、新聞・TVでも「テロだ!」となんの検証もなく視聴者をあおり立てていて、私はさらにマスコミ不信に陥っていたが、どうやら「テロ」ではないことが明らかになってきた。「○○殺傷事件」と報道していたのは、NHKだけなのか。

まだ、C氏とT氏の顔の区別がつかないわしこである。
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<さねとうあきら 民話の世界>

武蔵野芸能劇場で催された<さねとうあきら 民話の世界>に出かけた。お話に関して「耳年増」になってしまったことを案じている私に、STさんが誘ってくださったのである。ありがたいことに、金曜日にあたっていたため、仕事帰りによることができた。

朗読、琵琶語り、語りとそれぞのスタイルで、さねとうあきら氏の昔話的創作の世界を「声の言葉の芸術」できかせるものであった。「うまい」とは思うものの深く心にしみいることはなかった。とくに、琵琶語りの音が濁っているのにはがっかりした。琵琶を聞くのはほとんど初めての経験だったが、音を聞きながら「もっと澄みきった音が出るはずだ」と確信した。多分、バチさばきにも問題があったのだろうか、いわゆる「ミスタッチ」が目立っていたようだ。

朗読者も語り手も声が高く、好みもあるのだろうが、私には聞きづらい高音であった。また、「おこんじょうるり」には、「浄瑠璃」が出てくるわけだから、「声の言葉」で語るべき作品であるのかもしれないが、むしろ、「声」に出して表現すべきなのかという、根源的な疑問を感じてしまった。

朝から、「読み聞かせ」、授業とこなしてきたので、途中、何回か意識不明になってしまった(恥)。そういうやつには、批評する資格はないのだろうが、2500円支払ったということで…。

宿題の成果

某大学の「昔話の残酷性」についての講義をさらに深めるために、学生に宿題を出した。「あなたが残酷であると思う昔話を探してくること」というものだ。授業はテキストを読んでいる事が前提となっているし、テキストには参考文献も提示してある。また、ここ2回の授業では、いくつかの昔話を紹介していた上での「宿題」であった。

学生様は宿題を忘れていたのだろうか? ひょっとして、どうでもよいと考えていたのだろうか? 出てきた昔話には、「アンデルセンのお話」(創作だって!)、「因幡の白ウサギ」(日本の神話ですっ。)、「土地の伝説」(伝説と昔話は違うって前回講義したばかりじゃん!)と並んだ。強者は、かつてテレビアニメ「日本昔ばなし」(あの市川さんと常田さんの声が人びとの郷愁を誘った)で見たという作品をあげてきた。「舌切り雀」「かちかち山」をあげてきた学生ですら、もう一度当該の話を読み直したという形跡はみえなかった。

宿題が出たら、まず、自分のノートを読み直し、テキストを探し、自分の書棚を探し、足りなければ図書館に行くのではないのだろうか? あまりのいい加減さに、わたしは怒ってるぞ。

中学生の英語の教科書を読む

10年ぶりぐらいに中学生の英語の教科書を見て、びっくりした。1年生の後期の段階で、Yeah, Gee などといった口語表現が出てきているのである。最近の英語が「コミュニカティヴ」志向であることは承知していたのだが、このような表現を使うこと(文字にして読ませること)がコミュニカティヴであるとの意識には驚きを禁じ得ない。

また、"look at ~"のあとに、"looks like ~"の表現が出てきて、混乱するのではないかと思われる。しかも、"looks like"は、会話の中で使われるので(教材テクストは全て会話が使われている)、ここには主語が使われていない。しかもこの時点で、初学者に2つの用法を説明することはたいへん難しい。となると、子どもたちには、テクストは全て暗記させるということになるだろう。また、試験では教科書テクストの「読み、書き」が問われるだろうから、「えーっ!」とか「うん、そうだよ」という単語も覚えることになる。覚えるのであれば、もっと別の単語を覚えた方が実際的だと思うのだが。

また、動詞"like"が出てきたばかりで、前置詞の"like"をもってくるのも、初学者にはいかがなものかと思う。中学からの英語は、まず、文字から入るのだから、コミュニカティヴをめざすならば、どうでもいいような口語表現など使わずに、「フォニックス」などを使って、ある程度読めるようにさせ、正書法で準備されたテクストを使うべきであると思う。「会話」だけが「コミュニカティヴ」だと考えている教科書作りの発想の貧しさが露呈されたテクストである。こんな教科書で英語を勉強させられる子どもたちがかわいそうだ。大学生の英語のレベルがびっくりするほど低くなっているのもうなずける。

脇明子さん講演会

川崎市で開かれた脇明子さんの講演会に出かけた(生きた学校図書館をめざす会主催)。講演の内容のほぼ4分の3は、著書『読む力は生きる力』『物語が生きる力を育てる』(ともに岩波書店)に書かれている事をお話しされたので(とくに後者)、私にとっては「復習」であった。とはいえ、友人と二人でロイヤルボックスに陣取り、ノートをとりまくりの2時間であった。

気になったのは、脇さんは、聴衆と全く目を合わすことなく、かといって、原稿を読みあげるというわけでもなく、伏し目がちにお話をすすめてゆくスタイルに終始一貫していたことである。聴衆の反応を見ることもなく(見なくてもある程度はわかるだろうが)、レジュメ(多分)に目をやりながら、とうとうと語る姿には、「ブレ」も「揺れ」も「ためらい」も「記憶の遡及」もなく、さらに、当然の事ながら聴衆への問いかけもなく、昨日お話しされた立川の聴衆と同じ話を聞いたんだなという、ヘンな感慨を持ってしまった。講演者にはいろいろなスタイルがあるだろうが、「質の高い本を子どもたちにじかに読んであげてほしい」と訴えるお話と聴衆と目を合わさないで話すスタイルには違和感を覚えた。

帰りも急いでいるし、サイン会もないという話を聞いていたので、以前から気になっていたことを意を決して質問した。「(著書<『物語が生きる力を育てる』>のある部分があのような書き方であると)誤解を招くのではないか」と伺ったのであるが、「間違いない」とのことだった。このような質問は微妙なので、礼を逸しないように伺ったつもりであるが、ご不快だったかもしれないと反省したが、仕方がない。また、私の方もあがってしまったのか声も震えていたし、きちんと説明できたかという事についても心もとないのだ。しかし、どこかで、ふり返って頂くことを期待しよう。

宮西達也の『おまえうまそうだな』批判は、明晰で説得力があった。なぜこの絵本を子どもたちに読む気になれないのかを説明してもらってすっきりした(自分の感覚を他人に説明してもらうなんて恥ずかしいが…)。その他にも、よく売れていて子どもたちに読まれていてよい本とされているが、脇さん的には疑問を感じる絵本がリスト・アップされていた。これについては、「ものさし」も頂いた事でもあるし、これからいろいろ検討してみようと思う。

「?」と思われる本がここぞとばかりに出版されている状況など、「質の高い本」を子どもたちに手渡したいという熱い思いには大いに同感だ。いや熱い思いを抱いていらっしゃるのだろうが、その「熱さ」はいまいち伝わってこなかった。

しかし、以前よくお話を聞く機会があった清水眞砂子さんの講演は、頭と心と身体で聴いた講演会だったが、本日の講演会は「頭」だけで聞いたお話であったなぁ。これも、実際に体験しないとわからない事であった。

2回目…

金曜日の仕事帰りのこと、国分寺駅で突然声をかけられた。びっくりして相手の顔を見つめるも記憶にない。すると、相手は「運勢が変わると顔にでています」とのたまった。びっくりした。突然見知らぬ人に話かけられたことも驚きなのだが、実は、今年の4月にも、品川駅高輪口で同じことがあったのだ。すれ違いざまに「あっ!」と言われて、数メートル先で立ち止まった私に、やはり同じこと(運勢が大きく変わる)と声をかけてきた人がいた。そのときは、びっくりもしたが、気持ちが悪く(見知らぬ人に自分の運勢のことをいわれるなんて、いい気分ではない)、無視して立ち去ったのである。

今回は、怪訝そうな顔をする私に、「開花相が出ています」という。「はぁ?」というと、さらに、「人生に大きな変化が起こるといわれたことはありませんか?」と彼女(前回も彼女だった!)は重ねて聞いてくる。確かに、品川駅で同じようなことがあったなぁと思い出しながら、「いわれたこともありますが、興味もありませんし、見知らぬ人にそのようなことをいわれるのは気持ちがよいものではない」とその場を離れようとしたら、「紫がよくお似合いですね」とさらに一声発し、一件は落着した。いったい何なんだ?

私は、かなりのスピードで歩くから、人の流れのある駅近辺といってもあまりスピードは緩めない。たぶん、下を向いて怖い顔をして歩いていると思う。「寄ってこないでオーラ」も出していると思う。なのに、1年のうちに2回も同じようなことがあるのは、なんだか気持ちがわるい。厄払いの意味をこめて記録しておく。


タンシチュー

ちょっと寒くなってきたし、学祭で授業もないので、「タン」を煮ることにした。タンを煮るなんて久しぶり。まず、かたまりをいったんゆでておく(圧力鍋で20分ほど)、その間に香味野菜(タマネギ、人参、セロリ、パセリ、ニンニクなど)をきざみ、じっくり炒めて(塩、こしょう、ワイン)、フープロでペースト状に。

我が家には手動の「ミンサー」と称するフープロしかないので、これが登場するたびに夫の援助をたのむ(先日もレバーペーストで登場)。というわけで、先日も彼は、「フードプロセッサー買おうよ」とのたまった。いやいや、スペースもないし、「レバーペースト」は手動でちまちま作ったものの方が食感がよいらしい。

さて、タンが少しさめたところでスライスし、鍋に赤ワインをドサリと火にかけアルコール分をとばして、野菜のペースト、トマト缶、タンを投入する。味を調整してから、やはり20分程度圧力鍋で煮こんだ。もうこれでほとんどできあがりだ。圧力が落ちてから少し味を馴染ませるために煮こみながら、最後にまた味を調整。タンももちろんおいしかったが、香味野菜とトマトのソースが絶妙! 

残ったタンシチューは、サトクリフ読書会のランチの一品となり、きれいになくなった。ごちそうさま。

筋肉痛が…

久しぶりにハードなバレエのレッスンに参加した。もとお稽古仲間のAちゃんを先生に不定期に開かれているレッスンに出かけた休日の午前中であった。

先生からは内ももからのアンデオールの甘さを指摘された。普段のレッスンでは、自分を甘やかしているのだということなのだ。というわけで、昨日夜より筋肉痛! 遅発性でないことをよろこぶべきなのであろう。

久しぶりにポワントも履いたのであるが、親指の爪が伸びすぎていて、パドブレの途中で、痛くて断念。次は是非。

「お話」か「語り手」か

語り(ストーリーテリング)において、「お話」か「語り手」かというのは、かなり解決がむずかしい命題であるように思う。ずっと昔、「○○ストーリーテリング研究会」に属していた頃、「面白いお話だった」という感想はいいけれど、「お話が上手だった」というのではいけないと教えられたことがある。つまり、語り手は「お話という絵を縁取る額縁でなくてはいけない」ということだ。お話のなんたるかも、語りについての知識もほとんどなかった頃に言われたこの言葉が、ずっと心の底に巣くって離れなかった。

最近また、この言葉を思いだしているが、それは、子どもの文学の「核」には「声の文芸」があると意識するようになったからだと思う。また、とくにここ数年、内外を問わずたくさんの語りに触れる機会があった事も大きいだろう。問題は、「語り手」か「お話」かではない。

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Storytelling has three essential elements: the story. the storyteller. the audience. Storytelling cannnot be a success unless there is harmony between the three.

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これは、アイリーン・コルウェルさんのStorytellingからの引用であるが、語り手が「額縁」だなんてことはひと言もいっていないのである。日本の多くの図書館の語りは、アメリカ合衆国やイギリスをお手本としており、コルウェルさんも日本に大きな影響を与えた語り手であるが、彼女の著作をよく読むと、図書館の語り講座などでは禁忌とされる、演劇的なスキルの必要性についてもきちんと述べている。

たくさんの語りをきく中で、コルウェルさんのおっしゃる「ハーモニー」が感じられない語りやバランスを欠いた語りを聞かせられたのも事実である。聞き手をよろこばせたいという一心であろうか、サービス精神に歯止めがきかなくなって、聞き手に「媚びて」しまった語り手。聞き手に媚びてしまった語り手の語るお話は、やはり媚びた語りになってしまう。それとは反対に、面白いお話なのに、「どうしたらあんなにつまらなく語れるのか。語り手としての資質に欠けるのだろうかと」と、こちらが真剣に悩んでしまうほど「語りは坦々と抑制すべき」という呪縛にとらわれている語り手。

お話の初心者の語る(べき)お話、選ぶ(べき)お話は、ほとんどの場合、昔話などのように長く語りつがれお話として確立されたものだろう。ならば、まず、語り方に対する、「抑制して」とか「坦々と」とかいう枠を外してしまって、語り手がお話の中にどっぷりつかることが必要ではないだろうか。ある特定のお話の「語りのマクシマム」を経験することこそが大切ではないだろうか。たとえ、枠を外してしまったとしても、もし、その人がお話を心から愛し、理解し、子どもたちに伝えたいと思っているのであれば、グリムの昔話の残酷な場面を「劇的に語る」ことなどできないはずだ。

先日、遠野で開かれた語りの祭りに出かけてきた。遠野の語り部にじかに触れ得たことは得がたい経験だったけれど、彼女らは(残念ながら、語り爺さには会えなかった)、やはり、炉端の語り手たちだ。大人数になるとマイクで「声」を増幅させないと聞こえないのだ。かえすがえすも残念だ。期待しすぎたのだろうか、「文学の語り」では、失望感が大きかった。あの名高いSRさんの語りはとくに期待はずれでがっかりした。なんとせっかちで落ち着かない語りなんだろう。じっくりと作品世界を構築する語りでないとあのお話は生きてこないのに。

「耳年増」ならぬ「お話年増」になってしまったのか、どうしてもクリティカルになってしまうが、みなが横並びで批判することのない「ゆるい」語りや読み聞かせの場には成長はないぞ。

ところで、「おまえもついでに食ってやる!」と、1年生の子どもを怖がらせた私の「お話」は、子どもに媚びていたのだろうか? 「指さし」は1年生だからできたのであって、聴衆が変われば、私の「ついでにペロリ」も変わるだろうと思うが。

1年生と絵本を楽しむ

先週より1年生に「読み聞かせ」に入っている。やはり、1年生の反応は素直で楽しく、こちらもうれしくなる。春には「どうかな」と躊躇していた『うえきばちです』を、朝暘一小、三小での反応を見て、こちらでも解禁した。

子どもたちの盛りあがりが読み手にも心地よい。『うえきばちです』、「ついでにペロリ」(お話)と楽しんだあと、男の子から「もっとこわいの!」とリクエストされてしまった。「ついでにペロリ」で「ついでにおまえも食ってやる!」と、子どもを一人ずつ指さしたのがきいたらしい。

「もっとこわいの」は、『三びきのやぎのがらがらどん』かなとも思ったけれど、あまり興奮させてしまって収拾がつかなくなっても困るしと考えて、最後の締めには『しりとりのだいすきな王さま』で終わった。

クラス担任は、小柄な年配の先生で、子どもたちの中に入って一緒に楽しんで下さった。男の子がひとり、うしろによせた机の影に引っこんでいたが、お話が進むにつれて、少しずつにじり寄ってきたことがうれしかった。

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