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卒業式にON参加

E=ラーニング大学の卒業式に自宅からオンで参加した(40分)。もちろん卒業生を祝福するために参加したのであるが、新学長の「祝辞」(式辞)を聞きたかったのも大きな理由である。何しろ、3月に開催された前回の卒業式(オフ参加)の学長代行の祝辞があまりにもひどく(哲学者であるはずなのに、全く内容のない祝辞であった。多分このブログのどこかで愚痴っていることだろう)、大学としての知性をさえ疑わせるものだったからだ。

新学長の祝辞は、簡潔、明晰でかつ深い意味をわたしたちに差しだしてくれるものであった。学生たちへのはなむけの言葉として選ばれた「教学相長」(学ビテ然ル後ニ足ラザルヲ知リ、教エテ然ル後ニ困(くる)シムヲ知ル 故ニ曰ク、教学相長ズルナリト:『礼記』)は、まさに開学浅いこの大学の歴史であり、学生ばかりでなく、教師たちにも共通した思いであったことであろう。この学長ならば信頼してついゆくぞと、うれしい気持ちになった。といっても、非常勤の身ですけどね。

ところで、さらに学生たちにはサプライズがあって、彼らが在学中に提出したすべてのレポートを、一冊にまとめて、『教学相長の記』として一人一人に手渡されたことである。「学び」の成果がぎっしりつまっている、世界に一冊だけの『教学相長の記』である。この『記』がために、ネット上にしか存在しない(もちろんキャンパスもありますけど)大学がリアルな存在であったことの証明ともなる。

かつて、アメリカの大学が「入るのはやさしいが卒業するのが困難」といわれたことがあるが(いまも? か。宇多田ヒカルのことが思いだされる)、この大学も通信制というシステムからだけではなく、「卒業するのが困難な大学」である。それは、自ら主体的に学ばなければ、科目修得が困難だからである。心から学びたいと思い、学びを必要としている人こそがその困難を克服できるのであると、しみじみ思う。通信制だから「大卒資格」「司書資格」を簡単に取れるだろうと思って入学してくる人は、どこかで意識変革をしなくては卒業は困難だ。でも、がんばる人にはそれだけの報いが必ず手に入る大学だと思っている。

ところで、『教学相長の記』について、ひょんなことから理事長がブログに書きこんでいることを発見した。人にはそれぞれ価値観があるだろうから(これは夫が私をたしなめるときの口癖)、「そうだな」って受けとめておけばいいのだろうが、彼のブログに書かれていることを見ると、『記』を作ることの意味が全然わかっていないように思われ、情けない。

<今回は秋の卒業生なので、人数も少なく、手作業を交えて作成したが、今後、卒業生が増えてくればシステム化を考えないと大変になる。最近はブログを本にして出版するのが流行している、同じような仕組みで本にできないか検討する必要がある。>

思わず脱力してしまったわしこである。確かに、「大変になる」だろうけど、その前に言うべきことはないのかと思ってしまう。おいおい、大丈夫か、この大学。
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「語る」か「読む」か

私は「語り」の専門家ではないので、テクストなしで語る自信が無いお話は、テクストを用意して語る。このやり方を「語り」と呼んでいいのかどうか疑問に感じるところもあるが、この方法でも「お話」は十分伝わるし、お話の「魔法」だって感じる。「語る」ためには、テクスト通り覚えようとしなくても、かなりの負担がかかる。聞くところによると、「最低、数百回は読むこと」と教えられた人もいるそうである。たとえ、何百回読んで練習したところで、自分の不安な気持ちが「語り」に反映されて、「おでこの裏に浮かんだ字句をひたすら読む」語りや「お話への愛情」が伝わることのないお話ならば、その努力はむなしい。

自分のレパートリーが増えれば増えるほど、お話を「覚える」ことはらくになるという話も聞いたこともある。そこには、「語ること」の真実の一端が伝えられているように思うが、残念ながら、私は、「語りの練習」に自分の時間を充分に費やすことができない。というわけで、テキストを手にしての「語り」となる。

だからといって、練習は疎かにしていないつもりだ。「これぞ」というお話は、まず、コピーを作る。場合によったらPCに打ちこんで原稿を作る。そして、細かな書きこみをしながら丁寧に読んでゆく。翻訳の場合は、昔話だけでなく創作についても原文にもあたり、口に乗せやすいようにマイナーチェンジをすることもある(たまに、誤訳を見つけることもある)。そこから読みこむことになる。おそらくやっていることは「現代の語り手、語り部」といわれる方たちと大きな違いはないように思う。この時点から、「テクストなし」へのハードルが存外高いのが、「語り」が敬遠される理由だろうか?

つい最近までいた「伝承の語り部」と呼ばれる人たちの中には、小さい頃聞いたお話を何十年も経って、突然思いだし、語り始めた人もいると聞く。この人たちは、特に記憶力に秀でた特殊な人たちだけではないはずだ。ただ、子どもの頃聞いた「お話」とそれに纏う「幸福感」を語っているのだと思う。おそらく彼らは「活字」に頼って生きてきた人たちではなく、人生のあり方として「声の文化」を大切にしてきた人たちなのだろう。

悲しいかな、私たちがおとなになるということの一つには、「文字の文化」を獲得することがある。「読書教育」だって、「声」から始まって、最終的には「個人的な読書」を目的にしているだろう。だから、と開き直るわけではないが、「文字文化」にどっぷりつかりきっている私たちが、「語り」をする困難さがここにある。それでもなお、「語り」をしたいと思う人はいるのであり、「声」で物語をとどけることの大切さを感じている私のような者もいるのである。

「語り」にまでは昇華できなくても、物語を「読んで」伝えることの重さを確認し、その「技巧(たくみ)」を洗練するにはどうしたらいいのか。一つ課題ができた。

ところで、最近私は『三びきのやぎのがらがらどん』については、それこそテキスト(絵本)なしで語ることもできるようになった(と思う)。しかし、絵本をおくことが怖い。「テキストを見ずに」語れると思うのだが、テキストがあると安心して子どもたちの表情をうかがうことができる。昨日、6年生に語った「魔法のユビワ」(レアンダー)の「ルドーテの薔薇」で表紙を飾った特製テキストは、私の「セイフティ・ブランケット」だ。そういえば、コバケンも曲によっては、スコアを指揮台においてあることがある。ちょっと、聞いてみたい気がする。

学習会で考えた

読み聞かせボランティアのための学習会(全3回予定)の1回目が終了した。今回は、近隣の小学校のボランティアのみなさんにもお声かけをしたので、立ち上げの時に教えを受けた先輩ボランティさんたちにもおいで頂くことができた。もちろん、私は初対面である。にもかかわらず、「ブログ楽しく読ませてもらってます」とご挨拶を頂きびっくりした。ブログの存在は、ボランティア仲間にもあえて宣伝することはしていないし、ニックネームでやっているのに何でばれているんだろう…?

今回の学習会を貫くテーマは「昔話」で、初回は、「昔話とは何か?」「昔話の様式的特徴」「昔話が伝えるメッセージ」の3点を軸にお話しさせていただいた。途中、「馬方山姥」「星の銀貨」『三びきのやぎのがらがらどん』の朗読、読み聞かせも交えながらのお話となった(予定外に「目の養生」「馬の尻に札」も紹介した。練習していないものを聴いていただいたことがちょっぴり残念)。「馬方山姥」と「星の銀貨」は、読み聞かせメンバーのかたにお願いした。ありがたいことに、出席されたみなさんには、まず「お話」を楽しんでいただけたと思う。

しかし、「馬方山姥」も『三びきのやぎのがらがらどん』も「淡々とした語り」とは対極にあったので、「淡々と語らなくていいのか?」「語りとはどのようなものか?」「語りと朗読はどう違うのか?」という疑問が提示され、議論が交換され、意見が述べられた。

「淡々とした語り」とはどのようなものなのか。この言葉は、多くの語り手や読み聞かせボランティアのくびきになっているように思われ、私見を述べれば、この言葉によって多くの「語り」が面白さを失っているような気がするのである。「淡々と」や「抑制して」や「劇的になってはいけない」がまかり通り、多くの人に疑問を抱かせ、その言葉が呪縛となり、お話が萎縮しているような気がしてならない。 すべての語りが「淡々と」語られるべきなのだろうか? 

お話によって語り方は異なるというのが、当然前提としてあるべきである。今回の例でいえば、「星の銀貨」は、他の二つに比べたら「淡々と」語られただろうし、それで良かったと思う。だからといって、「星の銀貨」の印象が薄かったとはいえない。少女の神への信頼と無私の心は、語り手の感情が抑制されたからこそ聴き手に伝わったのだと思う。

「淡々」を『広辞苑』でひくと「①あっさりしたさま。執着のないさま。淡白なさま。②水の静かに動くさま。」とある。「語り」に「淡々と」が使われるときには、①の意味で使われるだろう。ついでに、『新明解国語辞典』の定義を見てみよう。「明解さん」では、「①くどい所が無く、あっさりとした様子。②気負いや構えた所が全く見られず、自然で落ちついた態度である様子」とある。お話は、「気負うことなく構えることなく落ちついて」語るべきだろうが、「どう」語るかとなると、話はまた違うのではないか。

「あっさりと淡白に」語られるべきお話はあるが、『三びきのやぎのがらがらどん』は「淡白に語られるべき作品」なのだろうか? 山姥は怖くなくていいのか? いたずらに怖がらせる必要はないが、怖くない山姥なんか面白くない。「食べられた山姥」(「三枚のお札」類話)の山姥は、恐ろしいが故に、最後の結末がほろりと苦い。

こんなふうに考えてくると、もともとは、「語る」姿勢に使われていた言葉が、「語り」の質に言及しているんだとどこかで誤解されて、「淡々と」という言葉が使われているような気もしてきた。「淡々と」も「劇的に」も、語り手がお話を正確に丁寧に解釈したところから生まれるはずであり、解釈やイメージをどう言語化するのかという訓練を伴って初めて可能になることだろう。さらに、「心」がともなわない「語り」などあるはずはないんだが。 

秋学期へのリハビリテーション

秋学期の始まりと前後して、学祭の「ミニレクチャー」やら読み聞かせボランティアの学習会、朝暘一小、朝暘三小での授業が予定されているので、ぼんやりばかりはしていられない。これへの準備が、秋学期に向けてのよいリハビリになっている。

「オズボーンコレクション」について調べてゆくうちに、私も執筆者のひとりとして関わった本の記述にかなり重要な事実誤認を見つけた。それは、トマス・ビュイックの『新年の贈りもの』(1777)に関する記述である。これは、31枚の図版が収められている小さな本で、なにか一貫した物語があるのではない。しかし、「シンデレラ」「長靴をはいた猫」「赤ずきん」から採られたと思われる図版が10数枚収録されている。

『新年の贈りもの』の項目を執筆した人は、「シンデレラ」の図版を読み取れなかったようで、「シンデレラ」に関する記述もなく、シンデレラが靴を試している場面、逃げて行くシンデレラを王子が追いかけている場面をそうとは読んでいない。確かに、本そのものも小さいので(9㎝×9㎝)、絵は読みとりにくい。しかし、この作品についての若干の情報があれば、「シンデレラ」の場面を特定することは困難ではないだろう。残念だ。

もちろん、1777年に出版されたものを手にすることは日本では不可能なので(実物に興味のある方は、トロントにあるオズボーンコレクションを訪問下さい)、私が手にしているものは、ほるぷ出版の「復刻世界の絵本館:オズボーンコレクション」(1979年)である。この復刻版は、内容、色調、判型、装丁などあらゆる面にわたって正確に実物に近づけようと意図されている。そのため、印刷のかすれなどもそのまま復刻されている。そこがあだになったのだろうか? いずれにせよ、研究対象に向かってはあくまでも丁寧に真摯に立ち向かわなくてはいけないということを改めて感じさせられた経験で、気がひきしまる思いである。

ところで、やはりこのコレクションの中にあるジョージ・クルックシャンクの『親指太郎と七リーグぐつ』(1853)をみると、当時の「昔話の再話」に対する姿勢が垣間見られておもしろい。これがなんと、「とんでも再話」とでも呼べるようなもので、本文中に堂々と自社の宣伝までしているのだ。

そういえば、『あらいぐまとねずみたち』(福音館書店)でも、画家の遊びとして、よく知られている絵本や絵本の登場人物がさりげなく描きこまれていたことがあったことを思いだした。しかし、クルックシャンクのものは、またそれとは趣が違う。チャンスがあれば、一見されたし。

※画家の遊びで、絵本や絵本の登場人物が描きこまれている例は『あらいぐまとねずみたち』だけではないけどね。面白い発見があたら、教えて下さい。

抑制された語りとは

読み聞かせボランティアのための学習会準備のために、ボランティア仲間で元アナウンサーの方と、「ワークショップ」をどう展開するのかについての打ち合わせをした。その後、私の「読み」も聴いていただいて、助詞の発声の方法(の、と)、語尾が消えないように読むための腹筋の使い方など具体的でかつ貴重なコメントをいただいた。指摘していただいたところは、自分自身でも読みながら気になっていたところでもあったので、解決の糸口をいただいて、とてもうれしい。

とくに力を入れて練習したのは『三びきのやぎのがらがらどん』である。3びきのやぎの声の出し方(声の高低、テンポ、気持ち)やトロルの造型など、表現力が高まったように思う。日本のライブラリー・ストーリーテリングをやっている人たち(語り手は絵の額縁でなくてはいけないと考えている方々)からすると、「演劇的」だと批判をされるかもしれないが、私は「トロルとおおきいやぎのがらがらどんの対決」の場面では、子どもたちが「ドキドキ」するような語りでなくてはいけないと思う。そのために、どう読む(語る)かという「マクシマム」を学んだのである。

よく、語りは「抑制された語り」でなければいけないと、アドヴァイスをもらうことがあるが、「抑制する」ためには、表現のマクシマムを理解していなければ不可能であろう。「抑制」という言葉には、「勢いを抑えること」という意味がある。つまり「抑制する」ためには、「勢いのある状態」がどのようなものであるかを知らなければならない。自分自身の表現の限界、あるいはマクシマムをきちんと知り、達成した上で、コントロールすべきであるとおもう。いや、マクシマムを知っているからこそ、コントロールできるのではないかと納得した。

というわけで、当分の間、私の『三びきのやぎのがらがらどん』は「全開状態」で語られることだろう。多分、100人ぐらいの聴衆でもへっちゃらさ。お話を聞いて批評してくれる人募集中。

感想を聞くこと

子どもに強制的に感想文を書かせることの愚については、さまざまなところで認知されてきていると思うが、「本」の感想を聞くのも、感想文を書かせるのと同じような愚行である。昨日のエントリで、読み聞かせに入ったクラスの先生が子どもに感想を言わせたことについて触れた。その件で、やはり私と同じようにお考えになっている方からコメントを頂いた。本来ならば、コメント欄に書きこむのが筋だろうが、少し長くなりそうなので、新しくエントリを作ることにした。ろくべえさん、ぐりぐらさん、コメントありがとうございました。

感想を述べるという行為にしても、感想を書くという行為にしても、「思い」という曖昧なものを「言語化」することが必要である。自分の思いを言語化するためには、①問題(この場合は物語に対する自分の思い)を認識し、②具体的に把握し、③分析し、④整理しなくてはいけないだろう。この過程を経て、ようやく私たちは、自分の思いを言葉にすることができる。また、書くとなると、この上にさらにいくつかの段階が必要になるだろう。

物語体験は、それが深ければ深いほど、自分自身の現実に還ることがむずかしい。物語体験の直後というのは、物語の世界、それに対する自分という存在、そして、「いまここ」のリアルな世界が三つ巴になってぐるぐる渦巻いているような状況ではないだろうか。そのような時に、「感想を言ってごらん」といわれても、まとまらないのは当然だ。でも、そのときに「自分の思い」を無理矢理言語化させようとすれば、クリシェに頼らざる得ないだろう。「おもしろかった」「感動した」「○○がよかった」「考えさせられた」など、その表現は、まだまだ未分化で稚拙である。

これは、子どもだけのことではなく、おとなだって同様だろう。一人ずつ感想を言わなくてはいけない状況になったときに、ドキドキし、何を言おうか考えているうちに、自分の番がきてしまって支離滅裂だったという体験はたいていの人がしていると思う。もちろん、世間にはそういう避けられない状況もあるわけだが、「絵本のわかちあい」の場で、子どもたちに強要すべきではない。

感想の言語化は、別の場所でやってほしい。というか、やはり、国語の授業などできちんと取り組むべきだし、「読み聞かせ」の場を「よい機会である」と誤解して便乗すべきではないだろう。また、「ひと言でもよいから」とエクスキューズを与えることが、先に述べたように、結局クリシェに頼ってしまうのであれば、利するものはないと思う。クリシェの段階で完結して、さらに深めるという行為ができなくなるからだ。それは、せっかく心の中に植えられた「物語のよろこびの種」をほじくり出してしまうことである。

子どもたちが物語を楽しんだのかどうかというのは、読み手にはその空気感で解るし、感想を言わせるよりも、「ありがとう」のひと言で思いは伝わる。物語を体験することと感想を述べる、書くということは、まったく違ったものであることを、教師は理解するべきである。また、私たち読み手は、「感想を言わなくちゃいけない」と思わせながら、お話を聞いてほしくはないと、心底思っている。

「読み聞かせ」再開!

先月末に小学校が始まり、昨日は、久しぶりに「読み聞かせ」に出かけた。今回は、最後の最後まで選書で悩んだ。導入に『これがほんとの大きさ!』(スティーブ・ジェンキンズ/評論社)を使いたいと思っていたのであるが、これはとてもインパクトがある絵本だし、盛りあがって、時間がかかりそうなので、後回しにすることにして、『どうぶつさいばんライオンのしごと』(竹田津 実・あべ 弘士/偕成社)を読んだ。

じつは、この『どうぶつさいばん…』は、『これがほんとの大きさ!』と抱き合わせで読んだらいいなと考えていたのである。芸がないけれど、「動物つながり」で。しかし、ページによって、字が白抜きで、読みにくいのである。一度、授業で紹介したときに、とても読みにくくて困ったことがあった。ならば練習すればいいだろうに、うまくいかなかった絵本に再挑戦するのは、かなり決意がいる。というわけで、直前まで、ぐずぐず悩んでいたのであった。

あれこれ思いうかべるのだが、どうしても決定打に欠け、やはり、『どうぶつさいばんライオンのしごと』でゆくことにし、出かける直前に、数回、声に出して読み、読みにくいところは、「テキストを頭に入れた」。

教室(6年生)にゆくと、子どもたちも先生も床に座って、すでに体制が整っていてので、そのまま、あいさつをして、まず、『どうぶつさいばん…』を読みはじめた。教室はしんとして、子どもたちがじっと物語を受けとめているのが感じられた。いろいろな思いが心に渦巻いているような表情だった。とくに、男の子たちの真剣な目つきが印象的であった。

草原の動物たちの暮らしやヌーの主張、ライオンへの弁護など、あまりにも自分たちの日常的な発想から違っているので、物語を受けとめることで精一杯だったような感じも受けた。こんな時は、感想を聞いてほしくないなぁと、読み終わったが、案の定、先生は「日直さん、ひと言感想をいってください」とおっしゃった。

『どうぶつさいばんライオンのしごと』のような作品に対しては、自分の思いを言語化することは難しいだろうに。思わず、「言葉ではうまく表現できません」という感想でもいいよと、口を出してしまった。

時間もいっぱいいっぱいだったので、『これがほんとの大きさ!』は、「イカの目」「クマ」「トラ」を見せて、おしまいにした。ところで、『どうぶつさいばんライオンのしごと』は、対象年齢が「5,6歳より」となっていたが、これってどうなんだろう? 私には、高学年向きの作品に思えるのだが。

昔話絵本を展示する

E=ラーニング大学の学園祭の一環で、私物の昔話絵本の一部を公開、展示することになった。いろいろな授業で見せたり読んだりしているもののうち、「赤ずきん」「白雪姫」「シンデレラ」絵本を選んだ(選書は我が家で行い、そのあとは当然のように宴会、花火見学となった)。和書、洋書ほぼ半分ずつで、全部で29冊の絵本を大学図書館の一コーナーで公開する。展示としては少ないし、好きで集めたり、必要に迫られて購入したものなので、これといったポリシーはないが、一つにまとめてみると、なかなか見応えがある(かな)?

昨日は、展示する絵本の書誌をつくるために、ノートpcを持って学校に出かけ、一日作業をしてきた。絵本の展示ということで、目録をつくることになったのだ。目録は、論文などの書誌事項の記述と似ているところもあるが、それより厳格で、かなり緻密さが要求される作業だった。最近では、図書館でも目録を採らなくなっているので、学生さんにはよい勉強だったことだろう。

目録には、文の作者を筆頭に持ってくるのが普通なのだが、今回は絵本であるということを考慮し、画家の名前を筆頭に持ってきた。そして、短いけれど、それぞれの書誌事項のあとに、絵本について短い「売り言葉」を加えた。

今年の学園祭は盛りだくさんで、オフ会と合同の企画では、私は、「オズボーンコレクション」に関するミニレクチャーを担当し、朝暘第一小学校の見学の前日には、鶴岡から、山形大学の校舎を借りて、ネットで配信する座談会を行う。ゲストは、元朝暘一小の学校司書の五十嵐絹子さんである。

学園祭は一般にも開放されている企画もあるので、是非参加して、図書館では、絵本の展示を見ていただきたい。

振り込め詐欺

一時下火になっていた、振り込め詐欺がさらに進化し、復活しているという話を聞いた。親の気持ちにつけ込んでくるやり方はほんとにきたないと思うが、なぜ、簡単に「コロリ」とひっかかってしまうんだろうと、それも疑問だった。要求される金額だって半端じゃないらしいし…。

うちにも来ないかな、来たら、いろいろ聞き出して犯人逮捕に協力するぞと心密かに闘志を燃やしているのだが、やっぱ、そのへんの情報収集力は優れていると見えて、子どものいない我が家には、残念ながら、振り込め「鷺」さんはやってこない。

昔、詐欺まがいの「商法」に引っかかりそうになったが、残念ね、電話を取ったのが私で。私は、きちんと話を聞いた上で、「うちの夫はそのようなことはしない」「証拠のテープが残っているなら聞かせててほしい」と追求したら、捨ゼリフをはいて電話は切られた。さすがに気になったので、すぐに消費者センターのようなところへ電話で相談した。センターでは、「まず、大丈夫だろう」といわれたが(よくあるらしい)、万全を記すために、「配達証明つきの手紙」を出すことを教えてもらった。すぐ手紙を出したが、その後、重ねて脅されることはなかった。しかし、あの気分の悪さは長いこと続いた。電話嫌いをさらに促進した出来事だった。

閑話休題

これって、やはり親子関係が希薄になっているところにつけ込まれているんだろうな。「まさか、うちの子がそんなことはしない」「何かの間違い」と咄嗟に出てこないことが悲しい。また、何とかして子ども(て言ったって、けっこうおとなだったりする)の力になりたい、子どもの力にならなくてはと親の世代の方が思いこんでいる。子どものためになら借金をしてまで「お金」を用意する親の心性がつけ込まれている。そういう親の存在は、ありがたいが、そこだけで親子関係が結ばれているのも悲しい。わが子の名前を名乗られたら、信じてしまうものだろうか?

きちんとした信頼関係ができている親子ならば、いくら自分の子であると名乗っても、「しっかりしろ!」と活を入れて、冷静な対応を考えることができるのではないかと考える私は、甘いのか。

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