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物語づくり

試験の課題の一つに、「物語の創作」を出題した。『ハリス・バーディックの謎』の任意のページを選んで、そこから触発されて物語を書くというものである。かなり多くの学生がこの課題に興味を示し、実際に提出されたものも、他の二つの課題(絵本のわかちあい体験を書く、昔話の分析、解釈)より多かった。

「物語づくりはむずかしいよ」と釘を刺してもいたのだが、恐れていたことが現実となってちょっとがっかりしている。物語づくりは、「楽しそうで」「楽そうな」課題に思えたのかもしれないが、とてもたいへんであるということが彼らにはわかっていなかったようだ。

提出された作品ほとんどがつまらないのである。「読めない」物語や「物語として成立していない」話ばかりであった。中には、きらり光る作品もあったが、それは砂漠でなくした指輪を見つけるのに等しい。

読ませるおもしろい作品はそれぞれが個性的であるのに比して、駄目な作品には、共通する点が多くあったのも興味深いことであった。まず、ほとんどの作品の書き出しが同じであった。つまりこんな具合に始まっているのである。

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あるところに、わしこちゃんという名前の女の子がいました。わしこちゃんは、小学校3年生で、○○が大好きでした。わしこちゃんはおとうさんとふたりで小さな家に暮らしていました。おかあさんは、わしこちゃんが小さいときびょうきでなくなっていたのです。あるとき、わしこちゃんは…
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とにかく、主人公を紹介しなくては物語が始まらないかのような書き方である。「物語的必然」によって語るべき事が取捨選択できていない作品がかなりあった。物語とはおしなべて「昔話的」に始まらなければいけないと思いこんでいるかのように、「むかしむかし、あるところにおじいさんとおばあさんがいました」の現代版で始めている。昔話ならば、主人公の紹介が始まるとすぐに、物語は核心に向かって突き進んでゆくが、創作はそう簡単にはゆかない。何千年にわたって伝えられ洗練されてきた「昔話の形式」を安易に創作に持ちこむことの危険や、昔話の言葉は「象徴言語」であるといわれる所以についても改めて教えられた。

そのほかには、「おうち」「おへや」「おそと」「お絵かき」など名詞に「お」がつけられている例、「かわいい」「やさしい」などありきたりな言葉の多用などなど、学生がいかに「物語を書く」ことについてのコンベンションにとらわれているのかがよく解った。また、そこから彼らが「子どもの文学」について「どう」感じているのかが垣間見えた。また、日頃彼らがいかに本を読んでいないのかもよくわかる経験であった。かつて、ほとんど本を読んだことのない人が書いた作品が何かの文学賞をもらったという出来事があったことを思いだしたが、私は、物語を書くためには、自分のなかに物語を蓄積し、言葉を蓄えなければ書けないと思うのだが。
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朗読教室

朗読教室(第2次)に申し込んでいたのだが、前回と違って今回は授業のためほとんど出席できずに、残すところあと2回となった。今回のメインは「走れメロス」である。同じ棟に住む知人が、学校を休んだ子どもに「宿題」を運んできてくれるがごとく、進捗状況を伝えてくれていたので、教室の一員であるという自覚だけは何とか失わないでいた。

というわけで、件の知人と「走れメロス」の朗読自主トレを行った。先生からはいくつかの「ダメ」が出ているので、まず、全文を2人で交互に読みながら、作品の解釈を確認していった。ひとりで黙々と声を出して練習するより、相手がいるのがいい。それは、相手の解釈に裏打ちされた読みを知ることで、自分の読みを修正したり確認することができるからだ。声を出して読んでいると、知らず知らずのうちに身体に力が入り、大きく足を広げて踏んばっていることに気づいた。

今回はとくに「メロスの独白」部分を丁寧にさらった。密かに故郷に別れを告げて、約束を守るために出発したメロスは、濁流を渡り、山賊を打ち負かしたところでくじけそうになる。そこから、「自己嫌悪」「自己弁護」「自己憐憫」「自己肯定」をたどって再生されてゆく過程は、ついつい熱く感情移入してしまう。足の踏んばりは、これが原因だ。

火曜日にある久しぶりの朗読教室が楽しみである。私たちの先生は、「役者系」の先生なので、イントネーションにはあまりうるさくない(らしい)。「アナウンサー系」の先生の発音矯正はハンパじゃないらしいということを経験者からきいた。

ところで、先生の朗読をもし先日の図書館員が聞いたらなんと言うだろう。「劇的」すぎてひっくり返ってしまうんではないか。ときどき私は、メディア・スクーリングで行った自分の授業を聞くことがあるが、自分で感情をこめているつもりでも、意外に平板に聞こえるものだ。つまり、「読みが伝わっていない」、「羞恥心で感情が抑制されている」と感じることがある。語りでも朗読でも「感情をこめる」ことは、じつは自分で意識しているよりもずっと難しいように思うのだが…。

学ぶべき責任を感じること

小学校の先生や学校司書の方たちと学習会をしていると書いたことがあるが、彼女たちのもつ「学ぶことの責任」とでもいうような意識や熱意に改めて敬意を感じさせられるようなことがあった。「学ぶ」とは、まず自分自身の「いま」に謙虚にならなければ困難であることなのだと感じるようなブログ記事を読んだのだ。

「学ぶことの責任」といったって、日々やるべき仕事を持ち、家に帰ってもやるべき事はたくさん待ち構えている身となれば、休日に自分のために時間を作ることは、ほんとうにたいへんだろうし、お金だってかかる。しかし、現場で子どもの読書と深く関わっているからといって、自ら主体的に学ばなければ、自己を高めることなどできないのも事実だ。ところが、仕事として「子どもと本に関わっている」ことが、傲慢さを生みだしてしまうこともあるようだ。そのメンタリティが知らず知らずのうちに、他人に見えることがある。

じつは、子どもと本に関わる仕事を長年続けて来たと思われる人のブログで、「神話もアンデルセンも昔から脈々と伝わってきたものだから、やはり大切にしたい」というようなエントリを読んだ。

私はびっくりした。まず、「えーっ! プロがこんな問題意識でいいの? 学生と同じレベルじゃん」 という感想をもち、その後、なんだかがっかりした気持ちが、怒りに変わった。そこで、自らの責任を深く意識して学習会で学んでいるあの彼女たちのことを思ったのである。

問題なのは、「なぜ」という考察が抜けているからである。なぜ神話? なぜアンデルセン? 「なぜ」の後には、さまざまなものが来る。なぜ、昔話? なぜ、わらべ唄? その「なぜ」は大きなかたまりとなって、今度は「なぜ、読書?」と根源的な問いを発してくるだろう。そのとき、どう答えるのか。

考察が足りない学生のレポートは、ほとんどの場合、内容に関係なく「子どもにとっては読書は大切である」というようなお題目がつけ加えられていたのを思いだす。私はそのたびごとに、「なぜ大切なのか、あなたがいま議論している作品(問題)を具体的に分析する中で考えて下さい」と書いて、書き直しを要請したものである。

「お題目」は、お題目であるがために、安易に使うことを許される。しかし、お題目を使ってしまった時点で、本人は思考停止をしているのである。じつに楽ちんである。お題目は、ほとんどの場合、説得力があり、わかりやすい。たとえそれを他所からひっぱってきたとしても、自分自身も共感できるものだから、深い思考を促されることなく、自分のものの気にさせる。

例えば、「子どもにとって読書は大事」というものは、ほとんどの人が共感しているものだろうし、この問題に対して、全うに反論することは難しいだろう。だから、清水眞砂子さんの「本を読むことで排除されるものがある」などという趣旨の発言によって私たちは覚醒し、思考を促されるのである。

それは、私とて同様である。「古典だから」と「大切にしたい」との間にある溝をじっくりつなげるべく、さぁ、勉強するぞ。

『王のしるし』原書読書会

5月から月2回で始めたThe Mark of the Horse Lord 読書会は、昨日6回目を終了し、ようやく3分の1のところまで辿り着いた。1回1章(10ページちょっとか)を目標にしているので、時間はかかるが達成感は大きい。ランチをはさんで5時間ぐらいの学習会だ。

サトクリフの英語は描写が緻密で、情景描写などを読み解くには、読み手の想像力を丁寧に働かさなくてはならないので、いい加減に読み飛ばすことはできないが、その作業が楽しいのである。また、この作品は、サトクリフの傑作であるとの評判が高いが、残念ながら私は未読であり、日本語訳を読もうにも、品切れ絶版状態である(○マゾンのユーストでは、5000円からの値段がつけられている。もちろん、図書館では所蔵しているのだろうが)。というわけで始めた読書会である。

英語を読むこととそれを翻訳して商品にすることとは違うのだなぁ、と感じさせられることもある。例えば、馬族の王、マイダーになりすました元剣奴フィードラスが、マイダーの従兄、コノールと「再会」する緊張感にあふれる場面では、コノールのペットらしきヤマネコが効果的に使われている。

The young man made a sound to it, and the thing rippled and arched itself into swift, sinuous life, became a wild cat, poised and swaying for an instant on his shoulder, and leaped lightly to the floor, advancing beside him with proudly upreared tail, as he came forward to take his place among the rest.

コノールの首に巻かれていた「襟巻き状のもの」がヤマネコであり、それが、彼の合図で、たちまち命を帯び、「モノ」から「ネコ」になる様が丁寧に描写されている。

<若者が合図すると、それは、波打つように動き、あっという間にヤマネコにもどった。ネコは、若者の肩の上でのびをすると、軽々と床に飛び降りて、誇らしげにしっぽをたてて若者とともに進んだ。若者は自分の仲間に加わった>とでも訳せばよいのだろうか、いずれにせよ、これでは翻訳にはならないだろう。おそらく、もっとすっきりと描写されるに違いない。しかし、これほどまで緻密に書かれている原文を丁寧に読みほぐしてみると、「ネコ」があるためにこの場面がいきいきと顕現して、コノールの存在が緊張感をもって大きく語られていることがわかる。

当分、サトクリフからは離れられないだろうという気がしている。とにかく、じっくり丁寧に読む読書会はワクワクする。



商標法違反 みーつけた!

少し前の事になるが、中国の某遊園地には「なんちゃってミッキーマウス」「なんちゃってドラえもん」がいて話題になったことがあった。あの情けないコピーには苦笑させられたのであるが、なんと、今日我が家の郵便ポストに入れられていた、お隣のY市に本拠を構える幼稚園の募集案内を見てびっくりした。

チラシにはミッキーとミニーが大きくカラーコピーで使われているし、園の一年を紹介しているカラー写真のなかに、なんちゃってミッキーとなんちゃってミニーが運動会に参加している写真が「バチッリ」写っていたのである。よくもぬけぬけとこんな事ができたもんだとびっくりした。教育に関わっているものがこんなに意識が低くていいのだろうかとがっかりもした。

ディズニープロダクションの自社のキャラクターや製品を守る事におけるその情熱は異常とも思えるが(合衆国では、第三者が「デイズニー」という言葉を書名に使うことすら許されないのだそうだ)、今回のチラシに関しては、特定の商品やキャラクターで子どもひきつけようという幼稚園の精神や姿勢を疑ってしまう。ミッキーやミニーを宣伝に使って子どもを引っ張り込もうだなんて浅ましいではないか。ことによったら、ディズニー大好きな親世代にもアピールしようとの戦略なのかしら…。

嘘や偽装や賄賂が堂々とまかり通っている事件ばかりが報道され(しかも他人事のようにそれを伝えるメディアの欺瞞!)、最近ではニュースはもう勘弁という心境であるが、この腐りきった日本の状況は、いまや上から下まで、西から東まであまねくゆきわたっている。

日々のことなど(2)

先週の木曜日から順次最終授業に入り、気分は××である。リアル大学の授業は、火曜日に終了する(成績評価が残っているので、まだ終了とはいえないが)。その××気分の中で、N市へ学習会の講師として出かけた。メンバーは、小学校教師、学校図書館員などである。今回のテーマは「昔話」である。

「昔話の語法」については実際に「お話」を聞いてもらった上で、分析するところからスタートした。「馬方山姥」「猿婿」「蛇婿(苧環型)」「蛇婿(里帰り型)」「菊の嫁様」などを紹介しながら、「語り口、文法、構造」や「異類婚」のお話をした。

この学習会の準備にあたっては、マックス・リュティの著作や小澤先生の『昔話の語法』を参考にさせていただいた。小澤先生の昔話理論はリュティの理論に大きく影響を受けていて、おふたりとも文芸学的なアプローチからの分析である。しかし、「お話がどう口承されるか」(口伝えの段階では何が変化するのか)という側面からも考えてみると、様式論の厳格さが見え隠れしてくるのも非常に興味深い。というわけで、私の最近の興味は「昔話は時代の感覚にどう生きのびてゆくのか」「再話はどこまで許されるか」という点にある。つまり、グリムが言う「卵の黄身」を壊さないとはどのような「再話」かということである。

例えば、「猿婿」(関敬吾編、『こぶとり爺さん・かちかち山:日本の昔ばなし1』。岩波文庫ほか)の結末は、桜(藤)の枝を取ろうとして、臼をしょったまま木に登った猿が、重さに耐えかねて川に落ち流されてしまい、そして、嫁は「やれ嬉しや」と意気揚々と帰って行く。この話を聞いたほとんどの人は、なんだか切ない気持ちになり、「猿がかわいそう」と感じる。しかし、なぜこの話が伝えられてきただろうと考えるとき、その語りの真髄について考えないわけにはいかない。「語り手」の「伝えたい気持ち」を知ると、なるほどと納得はするのであるが、しかし、その納得というのは、知性や精神で了解するのである。語り手の心情には共感できるが、その感情の襞のすみずみまで共有することはできない。そのようなときに、「昔話」に変化が起きるのではないかと思う。

あるいは、グリムのKHM1番「カエルの王さま」の姫が怒りにまかせてカエルを壁に投げつける場面に対する違和感はどうであろうか? ベッテルハイムの詳細な分析によってこのお話が読み解かれ、解説されたのものは知的好奇心を満足させるが、でも「カエルをぶつけた姫が、変身した王子とぬけぬけと結婚するのは解せない」という思いは、心の中にくすぶっている。このような思いをもつ「語り手」は、はたしてこのお話を伝えていこうとするであろうか? そんなとき「お話」が崩されてしまう事も起きたし、起きるのではないかと感じている。

松岡享子さんがある昔話を語ったとき、聴き手からの強い「不承認」アウラを感じたことがあると、どこかにお書きになっていたが、これについては、ぜひお話しを伺って、さらに深く考えたいと感じている。「昔話」の世界は深い。

ところで、学習会は、「オイディプスの悲劇」に始まって、『毛皮ひめ』で終了した。ここにも一つテーマが隠れている。なーんだ。

日々のことなど(1)

夏休み前の「読み聞かせ」が先週の金曜日をもって終了した。最後の2回は、慣例を破って同じクラスに入らせていただいた(1年生)。学校の方針であろうが、1年生の読み聞かせが、7月開始というのは少々さびしい(学校生活になれるまではということであろうか)。子どもたちは幼稚園や保育園でたくさん絵本を読んでもらっているはずなのだから、そのまま「絵本を読む」体験を続けさせてあげたいと思うのである。しかし、「幼稚園や保育園では絵本が重要な保育素材」と思っていたのはどうやら私の間違いらしい。もちろんこれがすべてではないことは承知しているが、敷地内にあるK保育園では、絵本をほとんど読まないと、面接に来た「保育士希望者」から聞いたことがある。

1年生のクラスでは、導入に「へんなひとかぞえうた」を使った。「しってるー。」なんて声もあがったが、数え歌のようなリズムのあるものを調子よく口に出すことはまだまだ難しい1年生である。というわけで、この数え歌は、2回目にもつかった。わかちあった絵本は、1回目は、『わゴムはどのくらいのびるかしら』、『くまくん』、『だいくとおにろく』、2回目は、『しりとりのだいすきなおうさま』、『天の火をぬすんだうさぎ』である。『わゴムは・・・』では、子どもたちからでてくる「えーっ!」という声がだんだん大きくなっていったのが印象的であった。読み終わると、「ほんとのことなの?」と不思議そうに訊いてくる子どもがいてかわいらしかった。

『くまくん』の最後のおち(「ぐま」になる)は懸念したとおり、すべての子どもに了解されたわけではないのが残念であった。二宮さんのナンセンスは、1年生には少々難しいのだろうか。また、2回目では、男の子と女の子の好みが別れたのも興味深かった。『天の火・・・』は男の子に人気があった。この絵本を1年生に読もうと決めたのは、脇明子さんの著作『物語は生きる力を育てる』からヒントをいただいたからだ。

その後、地元の図書館員2人に来ていただいての学習会が催された。そのうちのひとりは、夫の教え子でもあり、私もよく知っているSKさんであった。SKさんは、地域の読み聞かせボランティアには信頼が厚く、私もちょっと誇らしい気持ち(姉のような気持ち)でお話しを伺ったが、彼女自身は、私がいるおかげで緊張したようだった。すまん。

もう1人によるストーリーテリングの実演があったが、申し訳ないがこれはいただけなかった。おとなを前に緊張していたというような話ではなく、お話(「ついでにぺろり」)そのものの解釈が足りず、日本のライブラリー・ストーリーテリングの悪い点の典型を見せてしまったようだ。「ストーリーテリング」に馴染みのない人が、あれが「ストーリーテリング」だと思ってしまうのではとても困る。

実演の前に、「ストーリーテリングは演劇とは違うので、劇的に演じてはいけない」というようなことをおっしゃっていたのであるが、どうやら、「演劇的にならないこと」イコール「淡々と感情をこめずに読む」というふうにお考えになっていたようだが、「ことば」をイメージ化して「声」に出す訓練が十分でないと感じた。また、発声も練習して、次はさらに良いものを見せてほしい。語り手の「このお話が好き」「語りたい」という気持ちがまったく伝わってこなかったのである。

怖くない「フォックス氏」、優等生的でおもしろくない「3びきのコブタ」を何回も図書館で聞かせられた私は、聴き手としては、「スレ」ているのである。

「韓国のり」vsわしこ

夫の留守に、読み聞かせでお世話になっていて同じ棟に住む方と軽く「泡」を呑もうということで、KSさんが小学校1年生のお嬢さん連れで来宅した。「料理」メインではなく、「おしゃべり」「葡萄系の泡」を楽しみたいので、「食べ物」は冷蔵庫のなかにあるものを使って「煮豚/野菜」「揚げなすのオニオンソース」「セロリ佃煮風」などを用意した。

私たちがおしゃべりをしている間、1年生のお嬢さんは、おとなしく本棚から絵本を出しては、黙々と読み、そして本棚に戻し、また絵本を選び、ということを繰り返していた。ときどき、私か彼女が絵本を声に出して読んだりしたが、それ以外はほんとうに「もくもく」と絵本を楽しんでいたようだ。とても恥ずかしがり屋で、私の質問にもほとんど声を出してこたえることをしないのである。ちょっと、燃えるわしこである。

というわけで、あとでお母さんから聞いた彼女の語録。

○○が本をどうやって選ぶかっていうとね、本の方から、「おもしろいよ」って頭に言ってくるの。脳味噌にだね。頭骸骨っていうか。『(3びきのやぎの)がらがらどん』の読み聞かせが怖かった。いっちばんおいしかったのは、韓国のりだね。

「韓国のり」に負けたわしこである。

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