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読み聞かせ学習会

水曜日に読み聞かせ学習会の第1回目を終えた。読書の意義、言語習得の過程、物語体験、選書について、「読み聞かせボランティア」としてどう関わるべきかを軸に据えてお話しさせていただき、20名近くのボランティアが出席した。まったくの講義ではなく、ときどきはみなさんの体験や意見をうかがったので、退屈するということもなく最後まで集中が途切れず熱心に聴いていただけたようだ。

概論を終えたところで、『かいじゅうたちのいるところ』を分析して、絵本の「読み」の一例を紹介すると、「深い!」「そこまで気づかなかった!」という感想が「思わず」という感じで発せられ、私の方は、複雑な思いを抱いたが、最終的には「そこまで」の深みに到達したいものだと改めて感じた。参加してくださったみなさんは、それぞれに絵本に対する愛着はあるものの、実は、子どもの本についてはまだまだ学ぶべきところはたくさんあると、謙虚なまでに意識されており、それがときどき、選書や読み方に対する「不安感」を誘い出すことにもなるようだ。

例えば、「感情をこめて読むな」とか「××という絵本はよくない」などと学習会などで聞いてきたりすると、立ち止まってしまうのである。絵本を読むときに「感情をこめて読むな」なんてことはあり得ないはずなのに、「感情をこめるな」と指導されることもあるようだ。おそらく、そのように指導する講師は、自分が聞いてきたことを検証もせずに、「伝言ゲーム」のように伝えているのではないかと思われる。

感情やニュアンスや読み手の「解釈」がこめられていない「絵本読み」や「語り」では、聞いている人を物語の世界に誘うことなど不可能に近いだろう。感情表現が大げさになったり、聴衆に媚びるという意味で、「感情をこめるな」という言葉を使っているのだとしたら、これもまた正確さを欠いた不見識な表現であるといわざるを得ない。また、「××はダメ」と批判された絵本には、『はじめてのおつかい』などが入るそうである。先日は、『ぐりとぐら』もありという話も伺ったところである。

多くの小学校に「読み聞かせボランティア」が出没(!)し、それに伴って「読み聞かせ講師」なるものが雨後の竹の子のように存在しているらしい。どうやら、なかには「眉唾」ものの講師もいるらしく、「××は子どもに受ける」「困ったときは昔話」レベルのお話ししかしない(できない?)人も大手を振ってまかり通っているらしい。困ったもんだ。

無知なうえに学習意欲のないボランティアも困るが、自分に力があるためか自信満々でボランティアの領域を逸脱しているボランティアもいるらしい。例えば、学校司書のいない小学校で「利用指導」の授業に関わってしまう例などは、明らかにボランティアの範囲を超えていると思う。たとえ、ボランティアが資格を持って、経験豊富で、どんなに優秀であったとしても、学校司書や司書教諭がすべき仕事にまで手を出すべきではない。「学校教育」の核となるべき仕事は、きちんと税金で賄い、職員として責任ある立場で携わるべきであるとことを、学校だけでなく、ボランティア自身も肝に銘じておくべきだと思う。

ところで、9時30分に始まった学習会は、途中、休憩を挟んで、12時45分に終了した。最後の40分は、朝暘第一小学校のビデオを視聴した。同小の「生きている図書館」の姿には、みなさんから一様に感嘆のため息が漏れた。6月11日に予定されている2回目の学習会では、ワークショップを含めた実践的な内容で、スキルアップをめざしたい。
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薔薇屋敷訪問

3年来の双方の思いが叶って、舞浜にある知人のお宅を訪問した。都心に入ることもないだろうからと、首都高湾岸道路を一直線に「葛西」まで。葛西出口を出たところの「舞浜大橋」で若干混んだが、後はスムースに道に迷うこともなく到着。

早速、ご自慢の薔薇を見せていただく。家の壁をさまざまな種類の薔薇がいまを盛りと咲き誇っている。壁に這わせてあるものだけでなく、たくさんの鉢植えの薔薇が美しくゴージャスな花や可憐な花がその姿を誇っていた。私は、「ピエールド・ロンサール」の蕾が大きくなった姿に一目惚れをしてしまった! クリーム色の花弁とその縁のピンクが何とも美しく、「バラです」と主張している姿が美しい。お土産に、「ピエールド・ロンサール」のほか、赤いかわいらしいつるバラをいただいた。

お宅でお茶をいただいた後、「舞浜」初めての私のために、イクスピアリを少し歩き、ディズニーランド、ディズニーシーのまわりを走るモノレールに乗ってプチ観光。東京ディズニーランドには入園したことがないけれど(本場アナハイムのディズニーランドには訪問歴あり)、多分これからも中に入ることはないだろうなと思いながら、モノレールの観光を楽しんだ。

7月にオープンする、ディズニーランドの公式ホテル「東京ディズニーランドホテル」が物々しくその威容を誇っていたが、青と茶と金をメインにした何とも趣味の悪い建物でがっかりだった。一部、どう見ても「書き割り」にしか見えない部分があって、目を疑ってしまうわしこであった。

帰りは、渋滞に巻きこまれないようにと早めに出たせいか、ドアトゥドアできっちり一時間の快適ドライビングであった。

久しぶりに「アウトドア」な休日であった。

声に出して絵本を読むとき

E=ラーニング大学での授業(メディアスクーリングと呼ばれるpcを使って配信する授業。もちろんリアル学生も受講できる)後の反省会(軽く飲みながらの食事+おしゃべり)の時、私が何回か『うえきばちです』を子どもたちに読んでいる事を知っている受講生のひとりから、「どうよんだらいいのか」という質問が出た。

もちろん、どんなものでもテクスト通り読まなくてはいけないのは原則である。しかし、場合によっては、若干修正を加えたほうが、とくに多人数での「読み聞かせ」の場合には、さらに効果をあげることもある。おそらく多くの方は、ご自身のお子さん(とくに小さいお子さん)に絵本を読んいる時、「テクストにない語りかけ」を無意識でやっているころだろうと思われる。言葉の獲得期の初期段階にある子どもたちには、テクスト通りに語るだけでは、わからない事もある。そのため、場合によっては「同じ言葉のくりかえし」が必要なこともあるだろう。一対一で読みあっているときは、読み手は直感的に子どもの様子を理解できるし、すぐ対応できる。また、著作権的にも著者に敬意を払うという意味においても、個人の場合は問題にされることはないだろう。

しかし、「公の場」で読む場合には、やはり考慮が必要であろう。したがって、画一化して、「テキスト通り読まなくても良い」とはいえないところが難しい。一作、一作検討すべきである。とはいえ、私のいままでの経験から、比較的幼い子ども向けの絵本(とくに画家がことばをつけている場合)では、テクストを修正したり読み方を工夫したほうが、よりその絵本の「よろこび」の度合いが増加し、絵本の世界が深く共有できるという印象を持っている。

例えば、『うえきばちです』では、「め」「は」「はな」などの同音異義語の面白さが中心になるので、とくにテキスト通り読むより、「くり返し」を使って「読み方」を工夫したほうが楽しめるだろう。私は、たいてい次のように読む。

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まいにちみずをやっていたら、「芽?」がでました。(ポーズ) 「目」が出ました。(納得) 「葉?」が出ました。(ポーズ) 「歯」がでました。(納得)

そして「みみ、みみ、みみーっと」「け、け、け、けけけけけ/けけけけけけけけけ、けっ、けっ」の部分を二回読む。

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この読み方は、子どもたちと絵本をわかちあっているときに、直観して、反射的に出てきたものである。このような「場」こそ、絵本をわかちあうときの醍醐味ともいえるものであって、「け、け、け」とくり返しながら、ゆっくり子どもたちの表情をうかがうと、彼らはほんとうにいい顔をして絵本の世界に入りこんでいることがわかる。

ここに紹介したのは私の読み方であって、みなさんがそれぞれのときに、「場」を作りだせばよいのだと思う。著者に敬意を払いつつ、このレベルでの「読み」は許容範囲ではないかと思うが、何よりも大事にしなくてはいけないのは、子どもたちに「絵本のよろこび」を伝えることであるという意識であろう。

いま、私が、それぞれに論理的に説明できる理由をもって意識的にテクスト通りに読まない作品は、『てじな』、『しりとりのだいすきなおうさま』、『ありがたいこってす』(常体から敬体に)、『バスラの図書館員』(明らかな誤訳を直して)などである。「感覚的に受けつけない」だけでは、読み方を変えるべきではないと思うし、もし、「迷い」「不安」があるならばテクスト通り読むべきであると思う。「公の場」では細心の注意を払った上での読み手の深い学びの結果としての「読み聞かせ」であってほしい。

ところで、反省会では当然のことながら、「あれ」は一滴も口にしてませんので。

合唱曲「カルミナ・ブラーナ」

久しぶりの日フィル定期演奏会に出かけた。メインプログラムは、オルフの「カルミナ・ブラーナ」である。合唱曲の定番らしいが、私には初めての曲であった。迫力のある合唱、語りや祈りを連想させるソロパート、民族音楽などさまざまな要素が混在しており、何とも一言では形容しがたい曲であったが、たいへん聴き応えのあるおもしろい曲だった。

後になって歌詞には「酒や男女の睦み合い」も表現されていることを知ったが、理解できない外国語で歌われるとなんだか高尚にも聞こえてしまう。たしかに、音やリズムには猥雑なものというか俗的な雰囲気が感じられたが。

プログラムには○○少年合唱団とあったのに、合唱隊は、お○さん、お○○さんの団体で(圧倒的に女性の数が多い)、口の悪い私は、「もと少年少女たちばっかりじゃん!」といって、夫の顰蹙を買ったのであるが、途中、パイプオルガン通路に正真正銘の少年少女が登場した。オケも大編成で、パーカッションの出番も多く、例のシンバルの動きも大いに堪能させていただいた。

演奏会の前は、N市の小学校の先生や学校司書の方たちとの勉強会に講師として参加した。「講師」ではおこがましい感じがするが、私も精一杯学ばせていただくつもりで参加している。今回は、物語体験における「一体感」「感情移入」について、とくに昔話などの伝承文学とからめて、「声の文芸」の特質について、いま考えていることをお話しさせていただいた。これは、脇さんの著作『物語は生きる力を育てる』に触発されたものだ。

彼女の前作については、「本を読まないとテロリストになると主張している」という批判があると、ここでも紹介したことがあるが(これは、私には「風が吹けば桶屋が儲かる」式の意識的な誤読にも思えるのだが)、こちらの著作では、「優等生には裏があり、外面はいい子ちゃんでも、実はネットなどで陰険な書きこみなどをしている」と読める部分があり、ちょっと困っている。このような一面的な書き方をされてしまうと、物事の本質に迫らないで、「それみたことか」という批判がおこり、その部分だけとりざたされてしまうことがあるからだ。そして、残念ながらそのような批判はひとり歩きしやすい。

子どもの文学や読書に詳しい人が、評価すべき点はきちんと評価したうえで、「だがしかし」という客観的な視点で正鵠を得た批評をすべきであろう。

金曜日の「読み聞かせ」には、6年生のクラスに入った。このクラスのでは、担任の先生も子どもたちといっしょになって聴いてくれて、子どもたちに感想もとくに求めなかったことに好感が持てた。

●「アナンシと5」
●『ありがたいこってす』

「アナンシと5」の後では、ざわめきというか「ほー」という声があがった。「ごめんなさい」の「ご」で、何かおこるのではないかと期待したと、思わず口に出した男の子がいた。うってかわって、『ありがたいこってす』では、読み終わった後の「沈黙」が印象的だった。

発声が…

とくに授業で絵本を読んだり、語り(まがい)をするときには、たいてい滑舌のために簡単な発声練習をすることにしている。最近では、朗読教室で教わった「外郎売り」や「50音乱れ打ち」(わしこ語)もその発声練習に加わった。このように、授業前(とくに講義授業)少しでも声を出して練習しておくと、本番での授業がなかなかスムースに声が出ることがわかってから、それは大切な習慣になっている。

しかし、さすがに「喉」に不安があった昨日は、発声練習なしで出かけて、ぶっつけ本番で授業に臨んだ。そうしたら案の定、滑舌は悪いし(「とーんとんとんでもない、ぼくのあごひげにかけてもいれてやらないよ」でつまってしまったのである)、「イグサの娘」では、普通以上に噛んでしまった。おまけに、最後の「米福粟福」「猿婿」ではマイクを使うしまつ。反省。

きょうもこれから小学校の「絵本読みボランティア」に出かける。声にも不安があり、練習不足でもあるが、「お茶」でうがいをして、何とがつとめてきたいと思う。

私の連休

私の連休は、「風邪の克服」に費やされてしまいました。ようやく復活の兆しが見えてまいりましたが、「喉」の風邪ため、今日の講義は「マイク」を使わなくてはいけないだろうと覚悟しています。

口がまずくて、食べる量も減り「あれ」も口にしていないので、なんと下腹部が少し減ってきたようで、体重にも反映され、思わぬ効果がでました。このまま増やさないように気をつけることにします。

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