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卒業式

E-ラーニング大学の卒業式に出席した。非常勤先の「式」などまず出席することはないのであるが(出席するとかえって奇妙)、「テキスト履修」と「メディアスクーリング」という通信教育においても独特なシステムを持つE-ラーニング大学は、なぜか学生と教員の距離が近い。

「テキスト」を読んでレポートを提出するシステムの<テキスト履修>では、ネット上でレポートの添削ができるので、場合によっては何回でも書き直してももらうことができる。受講生にガッツとやる気があれば、とことんつきあって場合によっては、卒論に匹敵するぐらいの量と質のレポートが出てくることだって希ではない。

そんなおつき合いをするものだから、受講生も教師もそれぞれいろいろな思いを持つことがある。「あのきびしい先生の顔を見てみたい」「あのレポートの書き手と話をしてみたい」などというものもあろうし、「チクショー! 苦しめられたお礼に一言文句を言いたいぞ」(これは私の想像)などと思う学生や教師が集まり「オフ会」でようやく顔を合わせて「納得」の出会いをすることもある。

というわけで、昨日の卒業式は学校主催の「大オフ会」のようになった(式、懇親会ともオンラインで配信し、チャットなどで交流した)。すべての卒業生が会場にそろったわけではないが、それでも30人をこす卒業生と後輩やまだ学び続ける同輩たちも遠くは仙台や山形などから駆けつけ、式のあとは、華やかで和気藹々の懇親会となったのである。

開学から4年、非常勤講師の私でさえ感慨深いものがある。このブログでも愚痴ったり、悩みを書いたりしてきたが(もちろん書けないことの方が多かったが)、熱意をもって自分の生き方と学びを結びつけてゆこうとする学生に私は育ててもらった思う。心からありがとうを伝えたい。卒業生だけでなく在校生にも感謝している。社会人が多い大学なので(というかほとんど社会人)、「教える」ことに関しては私が主導するが、それ以外の面では学ぶことが多い。私の知っている学生は、皆、人間的魅力に満ち、いきいきと自分の学びを追求している素敵な人たちだ。

大学が冬の時代を迎えて、といわれはじめて久しいが、この大学に学ぶ学生を見ていると、なんだか力がみなぎり、可能性がみえてくる。

ところで、卒業式の学長代行の「式辞」がとんでもなく薄っぺらでつまらなかった。彼は、大学の教師らしい(ということは研究者としての)見識をまったく感じさせることのない空虚な言葉の羅列に終始したのみだった。学校スタッフではないけれど、非常勤講師として教員席に座らされた私は、あの式辞ではとても恥ずかしかった。
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朗読教室

朗読教室の第1回発表があった。受講生がそれぞれ用意してきたものを朗読し、先生からコメントを頂いて終了した。新聞に掲載されたエッセイや一般読者向けの医学についての書物の一部を読んだ方もいたが、ほとんどの人は、文学の素材をえらんだ。素材の選び方によっても、その人と「朗読」とのスタンスがうかがえ興味深いものがあった。また、なぜその作品を選んだのかについての作文も宿題にでていたのである。今日のエントリは私の宿題を紹介することにしよう。私が選んだ作品は、「ぜつぼうの濁点」(原田宗典著『ゆめうつつ草紙』幻冬舎文庫所収)。

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       「ぜつぼうの濁点」について:「きぼう」の濁点になるために

この作品に最初に触れたのは絵本だった。一読して、まず、お話の面白さにひかれた。子どもの文学を仕事にしている私は、いつもいつも何かを読んでいるし、読まずにはいられない。そして、おもしろい何かを探して暮らしている。物語世界への探検は、私の仕事であり、趣味であり、生活なのである。

この絵本と出会ったときもすぐに学生に紹介した。「英米児童文学」というマイナーな科目を受講している文学部の学生たちには、授業のはじまりに「最近読んだ私のお薦め」として紹介した。教師をめざす学生には、子どもの読書資料をどう選択し、評価するかという講義の時に紹介した。学生たちの反応はかなりよかった。

しかし、何回か「読み聞かせ」をしたり、作品について考えているうちに、実は、この「ぜつぼうの濁点」には「あやうさ」ともよぶべきものもあるのだということに気づいた。絵本のもとになった『ゆめうつつ草紙』(幻冬舎文庫)に収録されているほかの作品に触れたり、作者の「あとがき」を読んだりしたことでさらにその「気づき」は確信に変わっていった。

物語づくりが「うますぎる」のである。作品は、それぞれ細部にまで計算がゆきとどき、きれいに収まっている。内容や構造にも破綻はなく、言葉の選択やリズムも完璧で隙がない。いわば、物語として純度100%なのである。

例えば、「真実」を口にするとたちまち命をなくしてしまう「嘘の国」の女王が真実の国の王子に恋をしてしまったお話。お互いがお互いを愛するあまり、嘘の国の女王は「真実」を口にし、真実の国の王子は「嘘」を口にして、二人とも命を失ってしまう。そして、作者は最後をこう締めくくる。

嘘と真実(まこと)、真実(まこと)と嘘。/きらきら、きらきら。/星があんなに輝いて見えるのは、その中で/違う二つのものがおなじひとつのものに/なろうとしているからなのでしょう。

不条理な運命のもとでの激しい二人の恋が、さしたる葛藤も修羅場もなく、最後には、空の上できれいに昇華してしまうのである。「違う二つのものがおなじひとつのものになろうとしている」という作者のメッセージがこめられた物語的結末も、おとなの姑息な知恵にみえる。それこそがこの寓話的物語のおもしろさではないか、という反論も承知しているが、おしゃれで気の利いたライトな物語は心に深く届くことはない。「ぜつぼうの濁点」にしても同様である。

「ぜつぼう」に長く仕えた濁点が、大きな「おせわ」の押しつけがましいお節介のおかげで自分の生きる道を見いだすだけでなく、多くの人に希望をもたらすという、一歩間違えば、それこそ押しつけがましい大きな「おせわ」な物語は、読みようによっては欺瞞的な印象を残しかねない。しかし、このままうち捨てておくのは、物語がおもしろいだけにもったいないし、忍びない。また、この物語にはその欺瞞性を超える力も持っているのではないかと直感したのも事実である。「欺瞞」を感じさせない「ぜつぼうの濁点」を伝えたいと心から思った。

言葉の技巧やお話のおもしろさに振りまわされることなく、自分自身の「思い」をこの不器用な「濁点」に重ね、愚直なまでの「濁点」の生き方を自分に引きよせることから出発することにしよう。子どもと本を結びつけるという途方もない課題に取り組んでゆくなかで、「きぼう」の濁点のためにささやかに生きたい、その思いをともにわかちあいたいと考えた。
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舌足らずで解りにくいところもある。例えば、なぜ「物語純度100%」ではいけないのか? とか「物語作りに計算はつきものだろう」という反論もあるだろう。それぞれに丁寧に考えて言語化したいと考えている。

<追伸>昨日、10日以上もブログにエントリがないと夫からつっこみがはいりました。いや、なんだか忙しかったんですよ。まだ、仕事も残っているし…。読書記録すらつけていないのです。トホホ。

『子どもへのまなざし』評

先日話題にした、『子どもへのまなざし』について、HNぱたぽんさんから以下のようなコメントを頂きました。大切なエッセンスをおっしゃっているので、ここでご紹介したいと思います。

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『子どもへのまなざし』も『続子どもへのまなざし』も子育て中の親の必読書です。子どもとよい関係が築きにくい親には絵本が一番だと思います。膝の上に座らせてただ心をこめて読んであげるだけでよいのですから。質の高い絵本は美しい日本語をきちんと子どもにつたえてくれますし、子どもは親の愛情を自ずと感じ取ることができるのですから。そして幼い子に大切な「安心する」ことも。この時期に「心の安定」が形成されることはとても重要なことだと思います。一緒に絵本を楽しんでいるうちに子どもの感情の動きも少しずつ感じ取ることができるようになります。ほんとに絵本は大きな力を持っています。
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このご意見を読んでいると、先日のエントリに『子どもへのまなざし』を引きあいに出したのは、ちょっとまずかったなという気がしています。佐々木正美氏は、「子どもを忌避する」時代的な心性について述べているのではなく、子どもについて書いているわけですから。

佐々木氏の主張や「思い」は本質的でとても共感できるとはいうものも、「子どもを忌避する時代」には、彼の言葉は残念ながら伝わりにくいのではないかとも一方では思われるのです。彼の言葉を伝えて、実現してゆくためには何をすべきなのでしょう。やはり、地道に、子どもと本(絵本)に関わることのすばらしさを伝えてゆくことなのだろうと改めて思っています。

本田和子『子どもが忌避される時代』を読む

しばらく前に購入済だった『子どもが忌避される時代』(新曜社)を読んだ。帯には次のように書かれている。

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日本人は「子ども嫌い」になったのか?!
かつて来日外国人を驚かせた日本人の「子どもに対する優しさ」。それがいまは?/子育てがリスクと考えられるようになった原因を「子ども感」「子ども-大人関係」の変容として歴史的に跡づけ、対策を提言する。
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本田は「子どもが忌避される」心性の源流は、明治以降の「家制度」にたどることができるとして、「子ども」と「子ども観」を近代化の流れの中で捉えなおしている。「子ども」は国民国家のために存在するという大義名分はくずれ、「結婚」のロマンティック革命がおこれば、そのつぎには、「生み育てる権利」が個人のものとして了解されることは当然の流れであるという認識のもとに議論が展開される。しかし、「生み育てる権利」が個人の物として認識されるようになったからといって、「子ども」に関わるすべてのことが個人に帰属するわけではないところが問題の根源にあるのだ。

本田は、「少子化」の原因を「女性が子どもを忌避するからだ」と一面的に批判してはいけないと、注意を促すが、しかし、「生み育てる」ことにまつわるもろもろが、母親(女性)に大きくのしかかってきている実情を考えれば、批判の矛先は母親(女性)に向けられるのは避けられないことだと思う。

「自分らしさ」「個性」「個としての生き方」があらゆる場面で称揚され、そのことを当然のこととして受けとめてきた世代が「子ども」を目の前にしたとき、そこに大きな価値の転換や発想の転換を求められるのは必至だ。そうなったとき、さてどうすればいいのか。本田はこの点については明確な答えを出していないし、少子化に対する提言も、原理的ではあるけれどあまりにも非現実的だと思う。究極的に「そういう方向」に進むのだろうとは思うのだが。

かといって、佐々木正美氏のように「あなたの子どもを愛しなさい」「よろこびをみつけなさい」(『子どもへのまなざし』)とおっしゃるだけではあまりにもナイーブだ。どこをどうしたら「愛」が生まれてくるのか、「よろこび」を見つけることができるのか、そこを議論しなくては、子どもを忌避するほどまでに心を漂流させている人には伝わらないだろう。

私たちはだれしも「子ども」時代を経て、「おとな」になる。しかし、終着点は「おとな」になることではなく、「成熟」することであると思う。「成熟」というものさしを持つことは、いまさまざまなことに求められている一つであると心から思う。

注:佐々木正美氏の著作は基本的にはすぐれて、重要な著作である。

芋づる式読書

ビナードさんの『空からきた魚』(集英社文庫)を、名古屋往復時に読了。この本は、本文だけでなく斎藤美奈子氏の解説も面白かったのだが、とくに彼女とビナードさんについての接点が興味深く、早速、『物は言いよう』(平凡社)をユーストで購入。この本のもとになっている「性差万別」は、雑誌『噂の真相』連載時に愛読していたものだ。でも、一冊になっていたとは知らなかった。さらに『文学的商品学』が文庫になっていたので書店で購入し早速読みはじめたが、これも面白くて、斎藤美奈子熱に火がついた。とりあえず、書棚の美奈子本をひっぱりだし「いざや」とばかりに積んである。

『文学的商品学』では、扱われた作品の「再読熱」を掻きたてられることはほとんどなかった。これは、彼女の批評「そのもの」がユニークでオリジナリティがあり、批評として自立しているからだろう。作品の引用も的確だ。むしろ、渡辺淳一の『失楽園』への書きっぷりなどを読んでいると、「ふーん、やっぱそうだよね。読まなくて正解」などと納得させられる。

現在は、斎藤美奈子『たまには時事ネタ』(これがすこぶる付きに面白いのである)、金井美恵子『恋愛太平記』(敵は、一文が長すぎると言って、そうそうにリタイヤの気配。だが、そこがよいのであるが、時間がかかるのが玉に瑕)を「楽しみのため」に読んでいる。「楽しみのため」であれ「仕事のため」であれ、私の読書は「芋づる式」に進んでゆく。ある一冊の本に導かれて、芋を掘りずるずるとひっぱって収穫するがごとく、本を探し、読み、本を探し読んでゆくのである。

気になる読了本
●佐々木正美『子どものまなざし』(福音館書店)
●本田和子『子どもが忌避される時代』(新曜社)

かつら文庫のおひな様




3月3日に訪問したかつら文庫のおひな様です。撮影はK子さんです。

類は友をよぶ?

このブログを<プライヴェットモードにします>という告知をして、10日ほどたちました。リアルに私を知っている人からも、ネット上でしか知らない人からも「パスワードを」という言葉を頂き、思いがけない読者の多さに驚き、感謝しています。ところが、ほとんどの方が連絡先を書いてないので、パスワードが送れないのです。「連絡先を書いてください」と書かなかった私が「おおぼけ」なのですが、「パスワード下さい」としかおっしゃっていない多くの方も「かわいいぼけ」をかましていますね。「類は友をよぶ」なのでしょうか? 

というわけで、当分このまま運営します。コメントをつけたいときには、<拍手マーク>をクリックしてからコメントしてください。よろしくお願いします。

かつら文庫訪問記

E-ラーニング大学の学生さんと連れだって、荻窪のかつら文庫を訪問した。文庫開館50周年を記念して(そして、おそらく石井桃子さんの101歳をお祝いして)、3月2日、3日の2日間だけ特別に一般公開されたものである。

奥の部屋には、作品「3月ひなのつき」のモデルにもなった、犬養道子さんのお母上から文庫の開館記念に贈られた、一刀彫りのおひな様が桃の花を従えて飾られていた。二部屋の文庫の幅20㎝の本棚の所々には、手作りの品(おいもなど)や小さなネコたちが置かれていて、楽しいくつろぎの空間が演出され、オルセンやカリジェのリトグラフや原画がさりげなく飾られているのも素敵だった。「こんな文庫で子ども時代を過ごしたかった」というのは参加者全員の共通の思いであった。訪問者は私たちを含めて女ばかり(若い女性もちらほらいたが、ほとんどはおばさま、おばあさま世代であった)。

「丸福」で荻窪ラーメンを食べたあと、吉祥寺に出て、二軒の絵本の店「トムズボックス」、「おばあちゃんの玉手箱」で絵本をさがし、井の頭公園入り口にある「ドナテロウズ」で休憩のあと、「井の頭公園駅」まで公園を散歩し、「東急東横線」で横浜まで帰ってきた(途中下車二人)。

<本日の収穫>
●「こどものとも」「かがくのとも」のバックナンバー
●K子さんおすすめの『あっちゃんあがつく:たべものあいうえお』(リーブル)
●子どもにうけるとK子さん太鼓判の『ずら~りカエル:ならべてみると…』(アリス館)など

朗読講座

全7回の朗読講座も、先週をもって半分を消化した。「清兵衛と瓢箪」(志賀直哉)は次回で終了だ。それほど心ひかれる話ではなかったが、作品についていろいろ考えたり、友人と話したりしたことで解釈が深まったのか、先生からは「努力の成果がうかがえる」という思いがけない評価をいただいた。

最終的には自分の好きな作品を選び、朗読を披露して講座が終了する。何を選ぼうか、いまからワクワクしている。賢治の「鹿踊りのはじまり」ができたらいいなぁ。

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はんの木の みどりみじんの葉の向こさ じゃらんじゃらんの お日さん懸かる

すすぎ ぎんがぎが まぶしまんぶし
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賢治の言葉たちを自分の身体で表現してみたいという強い欲望に駆りたてられるが、畏ろしくもある。でなければ、最近のお気に入りの『ぜつぼうの濁点』はどうだろうか? 先生は「詩」は、朗読の中では一番難しいとおっしゃっていたが、私が心ひかれるものは、詩や詩に近いものである。

家ではときどき発声練習のあと、「外郎売り」の練習もしている。これも、早口言葉をマスターして語ってみたいものの一つである。「男言葉」だから、何とか女口調にしたいとじたばたしたのであるが、残念ながらちょと難しそうだ。「拙者親方と申すは」と女性の声でいうのが気になるのだ。

自分の声を注意して聞いてみると、母音の不明瞭さや語尾の発音が弱いところがわかる。

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