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我が家の複本

家庭で同じ本を複数所有するのはできれば避けたいところだ。しかし、我が家でも、二人で何回か同じ本を購入してしまったことがあり(なぜかとても悔しい)、意図しない「複本」状況が勃発する。何回かの学習の結果、棲み分けするようになり、「あやしいな」と思うものは、購入を考える時点で、相手に確認することで、「複本」状況を避けてきた。

本棚を覗いてみると、「一人複本」というものもある。探して探して、ぜったいどこかにあるはずなのに見つからなかった本は、仕方がないから(仕事で使うから)、お金ばかりかスペースの無駄を承知で買う。最近では、『農場にくらして』やエステスの作品、タウンゼントの『子どもの本の歴史』などがそうだった。修論で使った『指輪物語』の原書は版違いを数種類持っている。『宝島』や『小公女』『不思議の国のアリス』は翻訳者が違うのでそれぞれ数冊ずつ。「アリス」の原書は、イラストレーター違いを数冊(英語は一種類だけですからね)。自慢のお宝は、アンソニー・ブラウンやヘレン・オクセンバリーのアリスである。アリスのイラストレーションはテニエルのものが一番よく知られているが、あの作品は翻訳家だけでなくイラストレーターの魂を刺激するのだろうか。

こんなふうに確信犯的に持つ複本もけっこうな数に上っている。英米の子どもの本は、原書だけでは追いつかず、やはり、翻訳も手に入れることにもなる。大好きでぼろぼろになった本は新しく買い替えるが、かといって古い本を処分することもできない。『リンバロストの乙女』がそうだ。この作品は、夫婦合わせて、原書、翻訳と何冊もっていることか。

で、昨日ダブった本は、河合隼雄さんの『泣き虫ハァちゃん』である。はぁ。
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「語りの場」について

野村純一先生の『昔話の旅 語りの旅』(アーツアンドクラフツ)を読んでいて、私が漠然と抱いていた「伝承の語りの場」の実際について、いかに無知で甘い認識しかなかったのかを思い知らされた。恥をさらすようで気がひけるのであるが、「伝承の語りの場」の実際について、これほどきちんと伝えているものを読んだのは初めてである。

とくに雪深い国では夜の「囲炉裏端」は労働の場でもあり、そこで、昔話が語られていたことはよく知られている。しかし、その実際は、私などがぼんやりと想像するような「ほのぼのとあたたかい」ものではなかったのである。野村先生は次のように述べる。

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…家の爺さまや婆さまに語ってもらった昔話の多くは、とろとろとした囲炉裏の火の思い出や、暖かい寝床でのごくやさしい語り口に直結する。それはそれでまったく自然な昔話への回想であって、結構である。しかし、昔話とはたとえそれがひとつ家の子供たちの中にあってさえも、必ずしもすべてが一様にまどかな夢への誘いにあったわけではない。(中略)も少し年かさの子供の中に残る話の記憶は、囲炉裏端に縄をない、煙にむせながら草鞋を編んだ父親や、雪焼けした若勢からの力強くも放縦な語り調子に結びつき、はたまた、単純この上ない葉のしのウラとり仕事の中で、やみくもに襲ってくる睡魔を払うために求めて語られた気味の悪い話や、腹を抱えて笑いころげる話の数々に辿り着くからである。(p14-15)
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学習するとは、さまざまな知識や情報を整理することでもある。この「さまざまな知識や情報」というものが、現在の私たちには実は、すでに整理され、まとめられたものであることが多い。「昔話の場」について書かれたものもそうだろう。つまり、情報や知識としてまとめられてしまった時点で、それらはすでに、具体的な一つ一つの事柄が抜けおちてしまっていることも当然あるのだ。一つの枠組みを認識する中で、さらに、一つ一つの具体を見つけなくては意味をなさないことを改めて知らされた。

比較的手軽に私たちの目に入る笠原政雄さん(『雪の日に語りつぐ』)や鈴木サツさん(『鈴木サツ全昔話集』)の語りにしても、笠原さんや鈴木サツさんの「同時代」を復元しているわけではなく、彼や彼女の人生の終着点近くにきてからの、夾雑物が排除された「過去へのまなざし」から生みだされているものである。それでも、『雪の日に語りつぐ』や『鈴木サツ全昔話集』には、昔話だけではなく、彼らが生きた日常の「語り」が収められているのは意義深いことだ。

私たちはかつてそのほとんどが「生産の場」に立ち会い、その労働を糧として生きることを許されてきた。しかし、現在では、生産者である人よりも消費者である人のほうが圧倒的に多い。日本の昔話は生産者であった日本人が語ってきたものであるから、消費者である日本人が理解できないものもある(例えば「猿むこ」「さるかに」など)。しかし、さまざまなレベルでの具体を丁寧に掘りおこすことによって、その溝は埋めることができるだろう。埋めていかなくてはいけないのだと思う。

お知らせ

最近、このブログにあまりにも品性下劣なコメントがつけられたり、Hサイトからのどうでもいいようなコメントがふえたので、本意ではないがコメント投稿をクローズしている。アダルトサイトからメールがとどくのは、PCメールでも同じ状況だった。

朝一番にメールをあけると、決まってHメールが数通入っている。ありがたいことに、ウィルスバスターが「迷惑メール」に振りわけてくれるのであるが、それでも不愉快である。メールはクローズするわけにはいかないが、ブログのほうは「プライヴェット・モード」にしようかと考えている。

読者がなくても(厳密には書き手も読者なのだけれど)ブログは続けられるけれど、やはり遠く離れてふだんお話しできない人や子どもの本に興味をもっているひととわかちあうものを大事にしたかったから公開していたのであるが、もう限界かと感じるようになった。

というわけで、ちかぢか「パスワード」を使っての閲覧にさせていただきます。パスワードご入り用の方は、左下の「拍手機能」を使ってその旨ご連絡ください。

悲しく情けないことなど

昨日、新聞に公立高校の入試問題が挟みこまれてきた。「よし」とばかりに問題に取り組んだまではよかったものの、数学の証明問題でつまずき、理科(物理系の問題)にいたると、「目」が問題文を拒否するようになってしまった。何しろ、新聞の数ページのなかにすべてを収めるわけだから、活字の小さいことこの上ない。いや、いや、それだけじゃないのだけど。

それでもまだ、身に覚えのある英語や国語、社会までは、何とか楽しみつつ問題を解くことができたのだが…。自己採点の結果は、情けないことに理科や数学が足をひっぱって、私は志望高校には合格できないだろう。

久しぶりに英語の受験問題に触れたが、「英文の解釈」というより、英語で与えられた情報を整理しないと解けない問題もあり、出題傾向がPISA系にシフトしてきているように思われた。しかし、英語の問題文はどれもこれもつまらなく、受験生に同情してしまった。また、国語の「択一問題」の内容は、解釈を問うというより、些末な表現の違いに気づかないと、足下をすくわれそうなものもあった。

脇明子さんの新刊に刺激されて「読書」や「物語体験」について考えていると、いったい「入試」では何を問うているのかと思わざるをえない。その流れで、『子どもの才能は国語で伸びる:五感を使って読書と作文』(工藤順一編・著)を読んだが、なかなか示唆に富み面白い実践報告であった。タイトルが少しあざとい気がするのだが、仰っていることには、一つ一つ納得でき、子どもの教育について考えている保護者(とくに私立受験を考えている親)には必読とも思える。

とくに、吉田真澄さんの「目と耳で体験する国語」に紹介されている子どもたちの「読書の姿」には、いろいろ学ぶべき点や共感できることも多かったが、推薦図書に『シナの五にんきょうだい』をあげていることにひっかかりを覚えた。子どもの本の編集者だった事もあったそうだから、この選書は確信犯的になされたものであろうが、この点については、それだけに問題であると感じた。

「清兵衛と瓢箪」

朗読教室(3回目)に参加した。このところのお天気のせいか、体調を崩した人がいたらしく、欠席者が目立った。

「笠地蔵」は前回であげてしまったので、志賀直哉の「清兵衛と瓢箪」の練習にはいった。一人ずつ順番に読んだあと、作品について、それぞれ感想をいいあった。私は、作品中の「おとなvs子ども」の二項対立のなかに、作者の「おとな」に対する皮肉な視線を読んだ。また、どれほど「真実を見抜く目」や「天賦の才」を持っていようと、それをあっさり捨ててしまう子どもの「無垢」を感じた。しかし、残念なことに、先生がこの作品をおもしろがるほど、作品そのものを面白いとは感じなかった。だから、隣のご婦人が、「感動した」と、ご自身の生活に根ざした感想を言った時には、正直羨ましかった。

例えば、清兵衛の「真贋を見抜く力」は、正統のなかにものの本質を捉えるという、至極まっとうで基本的なものであると解るのであるが、作品そのものにはひかれない。

朗読を完成させるためには、まず、作品解釈が必要とされるが、さらに朗読者の作品に対する「思い」が、朗読をふくらみのあるものにするのである。小説の神様といわれる(小林秀雄か)志賀直哉の日常の一コマに人生の機微を見る手法は、悲しいかな、私の精神には響いてこなかった。瓢箪に対する思い入れも、今ひとつ共感できなかった。ちょっと悲し。

『王への手紙』について

レポートの添削、採点の合間を縫って読んでいた『王への手紙』もあと少しで読了というというところまできた(といっても『王への手紙』だけを読んでいたわけではないけれど)。もう少しで終了というところまできて、気になるところがでてきた。

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おまえたちが、どうやってヤロをやっかいばらいしたか知らないが。おまえたちにおれの名前をもらしたのは、もちろんあいつだろ。(下巻P267)

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確かにここでは、「おまえたち」(ティウリとピアック)としたことの理由は解る。スルーポルは二人と対面しているからだ。しかし、彼の憎悪は、ティウリに向けられているのではないのか。さらに、「市長はおれが行くまで、おまえたちをつかまえておいてくれるはずだった。だが、おれが行ってみると、おまえとおまえの友だちはとんずらして」(p268)と続くのである。

ここでの二人称は、「おまえ」であって、「おまえたち」ではまずいのではないかという気がしている。難しいところだ。オランダ語の二人称も「単複同形」なのだろうか。

愉快でないこと

不愉快なことが続くとテンションが下がるし、「不愉快な思い」を抱えているのが辛くなる。大学の経理が給与報酬の計算ミスをしていた。まず、大学の経理課(経理担当者)が計算ミスをするだなんて、私の辞書にはなかったから、驚きはそこから始まった。また、その担当者からのメールというのが失礼極まりないもので、「1単位分不足しておりました」と書きはじめているのだ。ふつう、「たいへん申し訳ないことに、当方のミスで」と始めるのが常識ではないかい? しかも、この経理係は、遡ってきちんと調べることもなく、「その場限りの対応」しかしていなかったので、まだほかにも間違っていることに気づいていない。×××××!!

おまけに、そのメールの件名は「××先生科目修得試験の入力について」となっていて、ほかのものを流用したことが丸わかりなのである。この人がどのような姿勢で仕事をやっているのかはっきり解る。日本語力の不足、学習能力のなさ(給与の間違いは今回だけではないらしい)、ひょっとしたら、ごく単純な算数すら解っていない? と皮肉を言いたくなる。

レポートについてもいいたいことはある。自分のレポートに愛情を持っていないと思われるものがたくさんある。だからこちらのコメントに対応できないのだ。あーあ。朝から、つらいのう。

●レポート添削、レポート評価の間をぬっての読書は以下の通り。
『ハイジ』再読し、改めて感動。月並みだけれど、アルプスへのあこがれを再びかきたてられた。ただいま『王への手紙』読書中。

脇明子『物語が生きる力を育てる』を読む

脇明子さんの新しい著作『物語が生きる力を育てる』(岩波書店)を読んだ。まさにいま私の関心の中心にある「物語の力」について論じられてるので、大いに考えさせられ、触発されるところの多い充実した読書であった。

前作である『読む力は生きる力』をさらに深めて、昔話や物語の読書が子どもの成長のどのような部分と関わり、子どもたちに「読書」がどのような力を発揮するのかについて、具体的に作品をあげ、丁寧に解説しながらの論考は非常に説得力のあるものであった。

この著作でとくにすぐれているのは、第4章「感情体験の大切さ」における、「不快感情の体験と物語の役割」の項である。「不快感情」を体験することの必要性、また、その体験を物語をつうじてなされることの利点について、具体的に作品をあげ議論している。

現代人は子どもも含めて、「不快感情消去マシーン」をもっていると、脇さんは指摘しているが、消去マシーンが簡単に手にはいることへの懸念も表明している。

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・・・しかし、子どものうちから消去マシーンに囲まれていたら、自分の不快感情を認識して原因を見きわめることもできませんし、ましてや、対処すべきことに勇気を出して対処するすべなど学べるはずがありません。そんなふうに育った子どもが。大きな不快感情に襲われた時。それは「不可解で手に負えない経験、なんとしても避けるべき経験」「自分を混乱させる不快感のかたまり」でしかないのだ、とゴールマンは述べています(p83~84)
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そして、「優れた児童文学のなかには、子どもの心のなかで起こっていることがいきいきと描かれていて、感情移入しながらそれを読んでいると、自然にさまざまな不快感情を味わうことになるものがたくさんあります」(p84)と続け、なぜ「不快感情」に関しては物語で体験した方がよいのかが述べられている。

物語に感情移入して読むためには、どのような物語体験をすべきなのかということに関しても、脇さん自らの体験や学生の事例などが検討されていて、私にとっては、いろいろ言葉にならずもがいていた思いをきちんと言語化してもらって、すっきりしたし、心にすとんと落ちた。

読後の高揚した気持ちで書きはじめたブログであるが、実は、このようにしてごく一部を紹介するだけでは、やはり誤解して読んでしまう人がいるのではないかと危惧している。なにしろ、あのSMさんが、脇さんの前作を「本を読まないとテロリストになると言っている」と手厳しく(私にしたら重箱の隅の隅をつつくようなもの、というかSMさんの意識的な誤読?)批判した一件があるからだ。SMさんは私自身が私淑している方であったから、かなりショックでもあった。しかし、SMさんの意見に盲従している人もいるらしいし(「テロリスト」の件で質問しながら、「ああ」と、検証もせず受け容れてしまった人の存在を、私は知っている)、事は微妙なのである。

閑話休題。

というわけで、脇さんが優れた作品としてあげていて、読んでいない作品(『王への手紙』。これは気になっていた本だったのだが)を注文し、すっかり忘れていた作品(『ハイジ』)を読み直しているところである。本棚の奥から『ハイジ』を探しだすのにずいぶん時間がかかってしまったが。

味噌づくり

あっという間に、2月になってしまった。授業が少なくなったのをいいことにのんびりしていたが、成績をつけなくてはいけない。レポートもこれから続々くる。E-ラーニング大学も試験が始まる。あぁ・・・。

昨日は二人で味噌造りをした。さしあげた味噌をおいしいと褒めていただき、それならば一緒に作りましょうという話になったわけである。同じマンション(この言い方もなんだかなぁ)の同じ階に住んでいる方なので、話が早かった。

朝8時半過ぎからはじめて、1時過ぎに終了した。できあがりは8㎏程度になるのであるが、使用した大豆は2㎏。この大豆を柔らかくゆでるのと、つぶすのがメインの作業である。一人で黙々とやることがほとんどだったが、おしゃべりしながらも楽しい。大豆をゆでるのは、圧力釜をつかうので時間がかなり短縮できるのである。ご要望があれば、「味噌師」参上いたしまする。

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