スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

とほほ…

年末には、お世話になった友人を久しぶりに我が家にお招きすることにしていた。28日に、「明後日」にしましょうとメールで打ち合わせていたのであるが、私は、「明後日」を31日だとばかり思いこんでいたのである。

というわけで、最寄りの駅に着いた友人の「xx発のバスに乗ります」というメールを受けとって、びっくり仰天して、青ざめた。それまでは、お客さまは明日だから、今日は簡単なものでいいやと、のんびり本を読んでいたのである。「げろげろ!」。

あーあ、ケータイをテーブルの上に置いておいてよかった。ふだんは、バッグの中に入っていることが多いのだ。

夫には、「何回も訊いたのに」といわれ、そうか、30日か31日だったら、普通は、31日の外出は控えるだろうから、彼は、何回か私に確認したのであろう。しかし、思いこみというものはおそろしいものである。たぶん、私のなかには、2007年最後の日を、ともに愉快に過ごしたいという潜在的な願望もあったのかもしれない。

買い物は、31日にすればよいと思っていたので、冷蔵庫のものをかき集めてのおもてなしとなった。

●鮭と白身魚のムース(K子さま謹製)
●チキンサラダ
●ジャガイモのジェノベーゼソース
●ほたての和風カルパッチョ
●マグロ丼
●つみれの味噌汁(つみれも味噌も自家製)
●スパークリングワイン/プゥイイ・ヒュメ

こんなふうに書くと、結構ごちそうに見えるが…。真相を知るのは3人のみである。すべての授業が終了した暁には、リベンジいたしまする。陳謝平伏。
スポンサーサイト

短期カレッジ打ち合わせなど

1月に第2回目が開催される「短期カレッジ:読み聞かせからストーリーテリングへ」の打ち合わせを我が家で行った。まず、前回のワークショップをふり返り、今回のワークショップの内容を詳細に検討した。受講生のみなさんがその場で「覚えて」、「おみやげ」に持ち帰るだけでなく、その課題が、「語り」とどう関わっているのか、「語ること」の本質への理解をどう深めるのかを議論した。また、オンライン参加者が、主体的に参加できるためにはどのような工夫をしたらよいのかについても考慮しなくてはいけない。

私の仕事は、「ワークショップ」の内容を理解した上で、講義の内容を考えることである。基本的には「昔話」についてお話しすることになるのだろうが、さらに、文献を読みこんで、講義の内容を深めてゆかなくてはいけないのだ。

水曜日は、来年度から始まる「児童書研究会」の講師を依頼されたので、その打ちあわせに、S県N市にでかけた。打ち合わせは、会の代表者の方が勤務されるO小学校の図書館で行われた。広々として、開放的な図書館であった。和気藹々ながら活発に意見が飛びかい、私も、来年度からの研究会が楽しみである。

O小学校の図書館では、絵本の配架に、赤木かん子のオリジナルシールを使っているということなので、見せていただいた。絵本の配架は、どこの図書館でも大変苦労し、また工夫のしがいのあるところでもある。画家の名前のあいうえお順。作家のあいうえお順。出版社順。どれをとっても一長一短である。

O小学校では、赤木かん子の「くだもの」シールを絵本の背にはって、絵本をタイトルのあいうえお順に並べていた。「ア行」は、「アップル」(何で英語?)、「カ行」は「キーウイ」(「キ」ーウイって?)、「サ行」は「サクランボウ」というふうに、つっこみどころにあふれるシールだった。しかも、シールの大きさは一緒だから、「アップル」と「サクランボウ」は見分けがつきにくいらしい。「アップル」の棚には、「ア行」で始まる絵本がごちゃ混ぜになっているんではないだろうか? ならば、かえって探しにくいのではないかと感じた。絵本の配架に関しても、分類シールを上手に工夫すれば、うまく使えるのではないかと思うのだが。

ケータイ小説と読書に関する新聞記事

『恋空』が「読書の入り口」になるとした新聞記事が判明した。『毎日新聞』2007年10月26日付け記事、「学校読書調査:「ケータイ小説」がきっかけに 女子中高生」と『毎日新聞』2007年10月27日付け記事、「特集:第53回学校読書調査(その2)1ヶ月の読書量・書名/読まない理由」である。

26日付は、書名記事(田村佳子)で、「ケータイ小説は今年のベストセラーに名を連ね、出版界の話題も集めているが、内容や表現の稚拙さや過激な性描写が含まれる作品もあるため、批判的な見方も多い。だが、全く本を読まなかった生徒が本と出会うきっかけになっていることはまちがいないようだ」と結んでいる。

「学校読書調査」とは、毎日新聞社が全国SLAの協力を得て、小中高117校を対象に、1ヶ月間で読んだ本の冊数、本のタイトル、読まない理由などをきいたものである(対象期間は、07年5月)。今年は、中学生が、読書冊数で過去最高のポイント(平均3.4冊)をあげたことが話題をよんだ。その牽引役をになったのが、女子中高生にとっては「ケータイ小説」だったということだ。また、不読率のポイントも下がっている。全国SLAは、この不読率の低下を「これまで一冊も読まなかった層がケータイ小説を読んだため」(27日付け記事)としている。そうか、そういうことだったのだ。

この調査は、定点観測であったとしても毎年対象者が変わってしまうし、長い期間にわたっての継続的な調査ではないため、小中校生に「読書」が定着しているかどうかを判断することは難しいだろう。「本と出会うきっかけ」になっているという表現には、その後、継続的に「読書生活」を営むであろうという予測がうかがえるが、気になる書き方ではある。「入り口」にやってきたけれど、入っていったかどうかは、解らないからである。

拍手って

いつの間にかブログのエントリーの最後に、「拍手」機能がくっついて、読んでくださった方が、ポチリとクリックすると、「一拍手」加算されることになっていた。それが、いつの間にか見えなくなっていて、いまは、どこかに行ってしまっている。なくなったのかなぁ、と思っていたら、エントリーのタイトルをクリックし、pcの画面をその対象エントリーだけにすると、「拍手」が現れることに気づいた。

その後、「拍手」をポチリとクリックしてくれた人が、コメントを寄せてくれているのに気がついたが、もはや、いまはそのコメントがどこにあるやら解らない。というわけで、コメントをくださった方にお返事も出せないでいる。こちらの不手際で、コンタクトがとれなくなっているのである。ごめんなさい。山形のK子さん、ドレスデンのAさん、コメントありがとうございました。

「カウンター」もつけたつもりなのであるが、画面では反映されていない。こんな状況で、ブログを書いているだなんて、お恥ずかしいことであるが、どうかお許しください。ぺこり。

『恋空』ふたたび

『恋空』と学校図書館の対応について、授業で話題にしたり、自分でもどう判断すべきか、その判断の根拠はどこにあるのか、いろいろ考えている。何人かの知人友人からも、意見や感想をいただいた。そのなかで、『毎日新聞』が、『恋空』は「読書への入り口になる」という記事を掲載していたらしいというお話をうかがった。詳しいことが解らないので、ご存じの方がいらっしゃれば、情報をおよせいただけるとうれしい。

もし、この記事の内容が事実で、記者(もしくは執筆者)が、「読書への入り口になる」と心から思って書いたのであるならば、書いた人に、いったい読書とはどのようなことなのか、そして、なにを持って「読書の入り口」と考えるのかを聞きたい。不確かな情報に対して、意見を言うのは避けたいが、あまりにも状況迎合的な発言に思えるし、深く思索をした上での記事ではなく、「書き捨て新聞記事」のようにも感じたからだ。

情報を確認するために、もちろん「毎日新聞 恋空 読書への入り口」でググってみたのであるが、はかばかしい結果は得られなかった。しかし、どうやら書店員と思われる方のブログに行きつき、「読書への入り口になるだろうから『恋空』はあまりきびしく評価しない」という意見を読んだ。このブログの主は、件の作品を読んでおらず、読んだうちの一人でも「本を読むことの楽しさ」を感じてくれればよいと考えていると発言していた。気持ちはわかる。

しかし、100万単位で売れている書籍の読者のうち数%が「本を読むことの楽しさ」を見いだしたからといって。その作品を「読書への入り口」とよぶのだろうか? 私的には好みではないが、<ハリ・ポタ>ならばそう呼べるだろう。

ところで、某公共図書館で、「いま話題の本」として、『恋空』を目立つところに陳列していたらしい。これにも、抵抗を覚える。図書館には、「あらゆる資料提供の自由」があり「あらゆる資料閲覧の自由」が保証されるべきであったとしてもだ。「キャッチャー」にする必要はないだろうと思う。

<図書館戦争>シリーズの最終巻『図書館革命』を読み終えたばかりなので、「図書館の自由に関する宣言」について考えたりもしている、今日この頃である。

ほっと一息

昨日で、年内の授業が終わった。ほっと、一息であるが、それは、出かけなくてはいけない仕事が終わったということだけである。非常勤先の短期カレッジ(公開講座的なもの)の準備や1月と2月には講師として、図書館や子どもの読書を支援する団体でお話をすることになっているので、そのための準備もしなくてはいけない。読むべき本、読みたい本は山のように積んである。このような状況になると、日本語の本が優先されるが、どうしても読んでおきたい英語の本もある。英語はやはりスピードが落ちるし、のちのちのことを考えて、<ノートテイク>もしておきたいのである。

このところ授業では、季節柄「サンタクロース」を話題にしている。「クリスマスの前の晩」(詩)、『サンタクロースっているんでしょうか』、『急行北極号』、『クリスマスのおくりもの』が定番なのであるが、今年は新たに、『クリスマス』(バーバラ・クーニー)、『どうしてクリスマスには』(二宮由紀子)が加わった。二宮由紀子のナンセンスはとても気に入っているが、この絵本の外し方もおもしろかった。

「クリスマスの前の晩」(詩)、『サンタクロースっているんでしょうか』、『急行北極号』は、基本的に英語で読むことにしている。『サンタクロースっているんでしょうか』の中村妙子氏の日本語はすばらしいと思うが、原文も短いけれど含蓄に富み、読み応えがある。100年以上も前に書かれたものであるが、今でもみずみずしい根源的なメッセージを伝えている。

『急行北極号』は、最後に「メルヘン・クリューガー」をならして、「こんな音かな?」と受講生に紹介することにしている。『急行北極号』といえば、翻訳者は村上春樹なのであるが、わたしは、どうしても彼の日本語が受け容れられない。先日は、『羊をめぐる冒険』を読みかけたのだが、読了できなかった。かつて、『ダンスダンスダンス』や『ノルウエィの森』が評判になった時も読んだはずなのだが、記憶に残っていない。内田樹先生の『村上春樹にご用心』は、楽しく読みかけているのに…。

昨日は、最近仕入れたばかりの「やすべいじじいは うっぽんぽん」を紹介した。みんな座っていたので、膝がたたけず机をたたいていたため、終わった時には、手が痛かったというおまけ付きだった。男子学生もうれしそうに「スペシウム光線」を発してくれた。

ああ、佐野さま!

12月に入ってからというもの、週末にもずっと予定が入っていて、なかなかゆっくり休むことができなかった。先週末は、土曜には非常勤先の「短期カレッジ」の講師を担当し、日曜日には、川崎ミューザで「第九」鑑賞の予定であった。「第九」は、なんといっても、佐野成宏さんの声を聞きたくて、ずいぶん前にチケットをおさえていたのである(誰が振ろうとも、どこが演奏しようとも、「佐野さま!」だったのである)。しかし、さすがに疲れがたまっていたのか、どうしても着替える気にならず、なんだか「風邪っぽい」。というわけで、「ぼくより若いのに情けない」といわれながら、一人留守番をしていた。というより、こんこんと眠っていた日曜日の午後であった。

もちろん佐野さまはステキだったろうが、もう一つ気になるのは、3楽章と4楽章をそのまま続けるか(コバケンスタイル)、ポーズを取るかだ。昨日振った、大友直人は、3楽章と4楽章の間にはきっちりポーズを取ったそうだ。そっか。行かなくてもよかった理由を一つみつけた。やせ我慢だけどね。来週は「日フィル」でリベンジだ。しかし、コバケンでないのが悲しい。

「鳥獣戯画展」へ

授業を終えたあと、新宿で乗り換え、サントリー美術館で開催中の「鳥獣戯画展」に行ってきた。夕方4時頃についたのであるが、ミッドタウンのイルミネーション見学ついでの人出だろうか、会場には列ができていて、「前の人のうしろからご観覧ください」「立ち止まらないでお進みください」とのことで、追い立てられまくりの鑑賞だった。

鳥獣戯画は、やはり、「甲巻」が一番おもしろく、見応えもあった。「なぜカエル」なのだろうと、ご一緒したHさんとしばし盛り上がる。カエルが二本足で立つと、たしかに人間ぽい。「猿むこ」の絵巻も楽しかった。まさに、授業で「猿むこ」など異類婚について話したばかりなので、興味は尽きなかったが、件の巻物は最後まで見せてくれていないので、ちょっとばかり消化不良だった。結末が気になる。

帰りは、お気に入りのやきとり屋さん「M」にゆこうと楽しみにしていたのだが、人身事故で列車が大幅に遅れ、急遽、我が家であり合わせのものを食べることにした。それでも、「イカソーメン」「エリンギ焼き」「マグロ丼」「具だくさんの自家製味噌汁」と書き並べると、それなりにおいしそうに見えるのが不思議。ミッドタウンでビール飲んでおいてよかったよ。しかも、遅れたとはいえ電車では座れたから。

『恋空』(上)を読む

いろいろなところで評判になっている(小学生には読ませたくない。学校図書館には、リクエストがあっても入れたくない。など)『恋空』上(美嘉/スターツ出版)を読んだ。人の尻馬に乗って批判するわけにはいかないので、とりあえず「上巻」だけを、大枚千円払って、読んだ。千円という安さなのに(値段としては、ちくま学芸文庫と同じぐらいだ)、装丁だって、ちょっとおしゃれ。

内容は、評判通り、予想通りそうとうひどいものであった。「時間の無駄」だと思いながら、何度放棄しそうになったことか…。「上巻」しか読んでいないのに、批判する資格はないかもしれないが、「下巻」はもう結構というのも一つの批評ではある。

副タイトルに「切ない恋物語」とあるが、高校生の恋愛モノである。主人公の恋話の中で、「レイプ、妊娠、流産」が何の葛藤も深まりもなく、書かれている。日本語も出来の悪い作文だ。まさに、ケータイで垂れ流された文章はこんなものだろうと思わせる。学校のチャイムは「キーン、コーン、カーン」で、PHSの着信は「プー、プー、プー」で「ブー、ブー、ブー」だ。オノマトペも貧弱ならば、交わされる会話もごくごく表面的だ。

『恋空』を一言で表現するならば、「高校生の美嘉がヒロという少年と出会い、そのこと原因でレイプされ、妊娠し、流産して、結局、ヒロとは別れてしまい、今は、つらいことを経験した美嘉をやさしく見守っていた大学生の優とつきあっている話」となるだろう。

気になるのは、これがベストセラーとなり映画化までされるという「事実」であり、「状況」である。

学校司書の仕事は…

あるブログで、朝暘第一小学校の元学校司書である五十嵐さんの活動に対する批判的な書きこみを読んだ。彼女の不読児童にたいする働きかけは「司書の仕事ではない」というものである。また、彼女の活動については、「辛口某児童評論家Aさん」も私的なおしゃべりのなかで同様なことをおっしゃっていたということだ(「Aさん」て、K子のことか)。

というわけで、『夢を追い続けた学校司書の四十年』(五十嵐絹子/国土社)から「不読児対策の実践レポート」の部分を再読した。確かに、五十嵐さんの取り組みは、一般論で議論できるものではないし、違和感を感じる人もいるだろうとは推測できる。しかし、再読してみて、この「児童評論家」のAさんにも(「児童評論家」って何だ?)、また件のブログを書いたり、コメントをつけている方にもちょっとがっかりした。彼らは、仕事として学校図書館に関わっているように思われたが、「学校図書館の役割をきちんと理解しているのだろうか?」という疑問を持ったのである。また、学校経営の中枢に「図書館」をすえる朝暘一小の教育の実践の本質的なことを理解しているのだろうかという思いももった。

「学校司書」は公共図書館の司書ではない。学校図書館の仕事は、「読書」と「学習」の両輪の車を動かすことが求められる。したがって、学校司書に求められるのは、楽しみのための読書の提供だけでなく、学習支援を含めた視点からの読書指導も同様に求められるのだ。したがって、五十嵐さんが「不読児童対策」に頭を悩ませたり、あるいは、一人一人の子どもにかなり踏みこんでゆくのは当然のことだと思う。といっても、これは「学校図書館を学校経営の中枢に据える」という朝暘一小の教育方針があるからこそ可能にもなるのである。

最近多くの学校で学校司書や司書教諭が任命(?)されているが、ほとんどの場合、兼任だったり、事務職的な扱いであると聞く。残念なことではある。そういった雇用形態の学校司書では、学習指導にまで深く関わり、一人一人の子どもと関係をとり結ぶ、いわば教師的な役割を果たすことは難しい。いや、司書教諭が配置されていなかった頃の学校司書は、学校司書であっても、五十嵐さんようなはたらきを求められたであろうことは、想像に難くない。

公共図書館の司書は、子どもであっても、彼らの人格を尊重し、個人情報を重視するから、最近では、司書自ら声かけをすることが少なくなっていると聞く。しかし、学校司書は、学校における子どもの生活の一部として、彼らの読書生活を保証しなくてはいけないのである。時には、児童、生徒の学校生活を豊かで実り多いものとするために、彼らの「私的生活」にまで踏みこんでゆかなくてはいけないだろう。同じ「司書」であるのに、学校司書と公共図書館の司書は、アプローチや関わり方がまったく違うのだ。

学校現場に携わる司書は、自分の役割を正確に認識して、ご自身の力を遺憾なく発揮していただきたいし、また、学校関係者や学校経営者も、学校図書館と学校司書の重要性を認識して、正規採用の学校司書、兼任ではない司書教諭の採用に最大限の努力を払っていただきたいと思うばかりである。

「読み聞かせ」や「語り」が得意なだけでは、学校司書としては「片手おち」であろう。

ブログ内検索

RSSフィード

リンク

月別アーカイブ

最近のコメント

プロフィール

わしこ

  • Author:わしこ
  • 無断転載ご遠慮ください。
FC2カウンター
最近の記事
カテゴリー
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。