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『Kim』読書会

恒例のKim読書会のメニューは以下の通り。

●タマネギ丸ごと煮
●魚介類のサラダ(サーモン、タコ、エビなど)
●鶏もも肉の自家製味噌焼き(青ネギ)
●野菜たっぷりアジのつくね汁
●ラ・フランス/山形の富貴豆/川根茶
●スパークリングワイン/純米酒丈径(たけみち)ほか

Kimは8章に入り、ようやく半分をこえた。解らないところは、読了後、斎藤兆史先生訳による『少年キム』で確かめようということになっているが、件の書籍は、どうやら品切れになってしまったらしく、アマゾンでは「ユースト」にも出品されていない。また、他の古書店にも出品はないようだ。あまりに高いから、古本で買おうと思っていたのに、当てが外れてしまった…。

最近、キプリングが再評価されているとはいえ、読む人はそれほどいないだろうから(ノーベル文学賞を貰っている作家だが)、きっと再版もされないだろうな。

「タマネギの丸ごと煮」は、鰹節を掻くところからはじめるという、本格的な出汁の取り方をしたので、地味目な前菜の割にはかなり時間がかかった。我が家の「つみれ」は、成形してから一度揚げるという手間をかけているので、型くずれしないのがよい。しょうがのみじん切りをたっぷり入れて、なかなかおいしい。誰も褒めてくれないので、自分で褒めているんだけれどね。
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「パーソナルストーリー」について思うこと

先週末は、語り手たちの会主催(代表櫻井美紀)による「テラブレーションIN桐生」に出かけ、多彩な語り手たちの多彩なプログラムを楽しんだ。語りの舞台には大きな柚の木がしつらえられ、幕間に「〆張り」の酒粕を使った極上の甘酒が振る舞われるという、心のこもったおもてなしには、会員のみなさまの語りに対する意気込みが感じられ、感激した。(「テラブレーション tellabration」とはtellingとcelebrationを合わせた造語で、合衆国の語り部、ピンカートンが提唱したストーリーテリングの活動を指す)。

「語り手たちの会」のみなさんは、もちろん昔話や伝説、創作も語るが、そのレパートリーに「パーソナルストーリー」を持っているのが特徴のように思われる。今回、私が聞いたお話のうち半分ぐらいがパーソナルストーリーでなかったろうか。「パーソナルストーリー」という言葉は、あまりなじんでいるとは思えないが、これもストーリーテリングの一つで、アメリカでは盛んに語られているということだ。

もとをたどれば、昔話だって、パーソナルな体験やできごとが、時を経て物語に昇華したといえるのかもしれないし、もともと、私たちは、好んで自分のことを語ってきたのであるから、「パーソナルストーリー」は、ストーリーテリングの根幹に関わっているといってもよいかもしれない。

現代ストーリーテリングにおける「パーソナルストーリー」とは、文字通り、個人的な体験を語ることが中心にある。ところがこれが難しい。なぜならば、語り手は、個人の体験を普遍化して、聴き手の共感を得ることができるレベルにまでお話を作りあげていかなくてはいけないからだ。

パーソナルストーリーは、基本的には、昔話などとは違って、劇的なできごと、冒険心を満たす経験、不思議を見たいという心を満足させるお話は少ない。日々の営みのなかでのささやかなよろこび、リアルでちいさな発見に目を凝らしたところから生まれるものがパーソナルストーリーだからだ。少なくとも、先日私が聞いたものはそうだった。ただし、広島や長崎などで語られる戦争体験、被爆体験も「パーソナルストーリー」といえるだろうから、必ずしもこの定義はすべてを網羅しているわけではない。しかし、どんな語りであろうとも、物語に力がなければ聴き手をひきつけることはできない。それは、「パーソナルストーリー」についても同様である。

自分の体験についての発見やよろこびを、聴き手の心に到達させるためには、まず、「何」を語りたいのかという問題意識が必要不可欠で、その問題意識を深めなくてはいけないだろう。残念ながら、今回、私が聞いた「パーソナルストーリー」は、その問題意識が希薄だったようだ。「声なき人びとの思い」を伝えたいという語り手の思いはあるのだろうが、語りが「語り」として練られていない。「経験」や「発見」が「語り」に昇華していないのである。そうなると、勢い、「語り方」に頼ることになる。不必要な間や、ささやき声の多用で、聴き手をひきつけようとするテクニックに走ってしまうことになる。

語りについては無知を承知で書かせていただくが、このたび出会った語り手たちは、「達者」な語り手たちだったが、「声の言葉」の特質に頼ってしまった語りが多く、お話そのものが、心に響いてくることがなかったのが悔やまれる。「語り」には「声の言葉」を使うことによって聴衆を一体化させる力があるが、それ故にこそ、その力で聴き手に「聞かせてしまう」こともできるのだということを肝に銘じておきたい。

昔話は、何世代にもわたって語り伝えられてゆくなかで、「声の文芸」として練りあげられ、洗練されてきた。その過程で昔話は、数多の語り手たちによる数多の語りに耐える物語性や娯楽性、構造や文体を獲得してきたのである。昔話と比較すると、語られる回数が圧倒的に少ない「パーソナルストーリー」が物語になるためには、語られる回数の少なさを補う「何か」がなくてはならない。まず、自分の物語に「語る意味」をみつけ、深めてゆくことだ。「パーソナルストーリー」を語るとは、自分の「生」に意味をみつけることでもあるからだ。

???

授業で、笠原政雄さんが語った「ちくりんぼう」(「三枚のお札」の類話)を紹介した。このお話は、山姥が、自分の頭の中に、ムカデやカナヘビ(トカゲ)を飼っていたり、小僧のおしっこを「つうつう」と飲んだりするところが特徴的だ。ちなみに、小澤俊夫さんの『日本の昔話』に収録されている「三枚のお札」も笠原さんの語りを基にしている。

翌週の授業では、昔話の残酷性についてお話しし、さらになぜ「ちくりんぼう」の山姥が、自分の頭にムカデやカナヘビを飼い、おしっこを飲んでしまうのかについて、私自身の考えや河合隼雄さんの「山姥=グレイトマザー」説の紹介をした。

ところがである。受講生の一人が、授業とはいえ、食事の時間に(授業は6時30分に始まる)、排泄物の話はいかがなものかと「クレーム」をつけてきた。まただ! 私はもちろん「???」である。えっ? そういうあなたは、PCに向かって講義を聴きながら、夕ご飯を召し上がっていらっしゃる? リアルな授業では、しゃべる私自身が何も飲まないことにしているので、それを尊重していただいて、「水分補給、ガム」などは控えてもらっているのだが、さすがに、オンラインの授業ではそんなことはできない。ひょっとして、泡など飲んだりもしている?

閑話休題。

いったいこの人は「授業」というものをどのようなものとお考えなのだろうか? 私は授業に関しての意見や疑問や感想は尊重したいと思っている。しかし、これは、意見でも感想でもないと私は考える(本人はどう思っているのか知らないけどね)。

確かに私は「排泄物」の話をしたが、「排泄物の話をして、もてあそんだ」わけではない。ずずんと情けない。

岩村暢子『普通の家族がいちばん怖い』

岩村暢子さんの『普通の家族がいちばん怖い』(新潮社)を読んだ。副タイトルに<徹底調査! 破滅する日本の食卓>とあるように、230世帯への「正月とクリスマスの食卓」の聞き取り調査をまとめたものである。

18歳と14歳の少年が、サンタクロースに自分のほしいものを伝える手紙を書くという冒頭のエピソードを読んで(手紙を書く彼らは、おそらく母親の「ノリ」に一緒にノッて、ちゃっかりプレゼントを貰っているのだろうが)、まずびっくりさせられたが、このびっくりは最後まで消えることはなかった。むしろ、読み進めるうちに、ここで紹介される母親の姿勢や子どもたちとの接し方に、違和感を覚え、最後には、怖くなった。いったい、これが現代日本の普通の家族というのであれば、たしかに私たちはおかしくなっていると、暗澹たる気分になってしまった。

中高生でもサンタクロースからプレゼントを貰うというのは、例外ではなく、そこには中高生になっても「サンタからプレゼントをあげたい」「[サンタを信じる]夢を持ってほしい」と願う両親(とくに母親)がいるからだという。

なぜなのか? 岩村氏は、母親への丁寧な聞き取り調査や食卓の写真から、母親たちの「幻想」を明らかにし、みせてゆく。現代家庭のイベント化されたクリスマスやお正月の食卓から、いま起きつつある、家族の歪みをえぐりだしている。「家はこんなにひどくない」と思う人もいるだろう。しかし、すべてには当てはまらなくとも、どこかで、思い当たることがあるはずだ。そして、その「思い当たること」の深層には、「家族の幻想」に囚われ、表面だけの「理想の家族」にしがみついている人びとが見え隠れしている。

冬近し

MMホールへ、日フィルコンサートに出かけた。久しぶりのコバケンだ。プログラムは、グリークのピアノ協奏曲とベートーベンの7番。どちらも、コバケンのうなり声が、不協和音として聞こえるほどの熱演だった。7番は、TVドラマ「のだめカンタービレ」のテーマで使われていたあの曲である。雄々しく華やかだ。今日も、ピアニストとシンバルとティンパニにくぎづけになった私である。

行きの電車の中で、「ふわっ」とナフタリンのにおいがした。雨が降り急に気温が下がって、冬物を出してきたというわけだ。電車で感じるナフタリンに冬の足音を聞いた。

ちいさなかがくのとも『おでこにピツッ』

三宮麻由子さんの『おでこにピツッ』がステキだ。風の向きが変り、男の子の「おでこにピツッ」と雨粒があたって降りはじめたにわか雨(夕立かな?)がやむまで、その間の雨の音を絵本にしたものである。雨がやんだあとにできた水たまりには雀が遊び、空には夕焼けが広がって、雨のあとの「におい」まで感じられる。この絵本は、2006年6月に「ちいさなかがくのとも」の一冊として出版されている。絵は斉藤俊行さん。

降りはじめは、「おでこにピツッ/じめんにツプッ/ふみいしにチピッ/やつでのはっぱにパツッ」だったのが、激しくなると「おでこにピツルピツル/じめんにチタツツチタツツ/ふみいしにキツンツツンキツンツツン/やつでのはっぱにパラツツパラツツパツパツパラツツ」と変わってゆく。私は、やつでの音にやられてしまった。すごい。そうそう、ほんとにそんな感じで雨って降るよねと、とても共感したのである。

オノマトペというのは、ある種の決まり文句だからこそ、たくさんの人に理解してもらうことができる。「ワンワン」「ニャーニャー」、雨だったら「しとしと」「ザーザー」である。でも、こういったオノマトペは、すぐ手垢にまみれ新鮮さを失ってしまう。しかし、凡人には、日本語の音韻をこえた「音」を、日本語の音韻に移し替えるなんてことは至難の業である(芸人がやっているのは声帯模写であろう。これもすごいと思うけどね)。

その点で、三宮さんの感覚には脱帽だ。言葉を遊びにしてしまわないで、さまざまな雨の音を誠実に捉えようという真摯な姿勢も感じる。また、絵を描いた斉藤さんも、彼女の言語表現をきちんと受けとめて、次のように書いている。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
三宮さんの表現する音は、その表現自体は独創的でありながら、とても普遍的な本来の音の姿を捉えているのだと思います。ありふれた加工などは施されてはいません。僕にはそれがまるで、ひとつひとつ透明度も反射率もちがう、「音の原石」のように感じられます。(「折り込み付録」より)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

納得。まさにその通り!

男の子が雨傘の天井に手を当てて雨を感じている時の「プトゥプトゥプトゥプトゥ/プトゥン/プトゥプトゥ」という音の表現は、これはもう、「秀逸」という言葉でも表現しきれないほどステキだ。傘を通して伝わってくる雨の重ささえ感じるのである。

うーん。私は、この絵本をどう読もうか? じっくり時間をかけて、表現の方法を考えたい。

この二人での絵本には、最近出版された『かぜフーホッホ』(「ちいさなかがくのとも」。2007年11月号)もあるが、私は『おでこにピツッ』に山盛りの☆をさしあげたい。ハードカバーにして、たくさんの子どもたちに渡してあげたい絵本だ。

この絵本を紹介してくれたK子さんに感謝!!

ラグビーは…

秩父宮ラグビー場へラグビー観戦(トップリーグ)に出かけた。ラグビーを生で見るのは、これで2回目。10年ほど前にニュージーランド戦を見た時にも教えてもらったのだろうが、すっかり忘れていた。ボールは前に投げてはいけないこと。

斜めのラインでボールがつぎつぎとトスされてゆくのはわくわくする眺めなのだが、なかなか続かない。すぐにタックルされ、つぶされてしまう。スクラムの中では、ボールがどこにあるのか見えない。思わぬところからボールが出てくる。「ノックオン」だの「オフサイド」だの初心者にはまったくわからない。ルールとしては理解できても、「ノックオン」や「オフサイド」の「現場」が見えない。

おまけに、目の前で男たちがぶつかり合う音が聞こえて、迫力ありすぎ! ラグビーは集団格闘技か!

読書週間

10数年前、H市から東京にやってきてびっくりしたことがあった。最初の1年は勝手がわからず、どこに行くのにもめったに車は使わず、とくに仕事には公共交通機関を利用していた。週に1回の非常勤先には、東横線や東海道線で出講していたのであるが、乗客のほとんどが車内で本を読んでいたことに驚いたのだった。東京の人って「読書家」なんだって思ったりもした。私も、始発から乗った東海道線では、予習をしたり本を読んだりしていたものである(で、ときどき酔ったの)。

かつて、H市から大学院に行くために乗っていた東海道線では、自分の予習が忙しくて、本を読んでいる人には気づかなかったのかしらと、つらつら思いだしていて、あっちの東海道線では、座席がボックスシートだったので、あまりたくさんの人が目に入らなかったことに気づいた。

いずれにせよ、横並びの座席に座っている人が、ほとんど何かしらを読んでいることが発見だった。そのうち、人が「どんなもの」を読んでいるかに目がゆくようになると、必ずしも「読書家」だとはいえないことがわかったのであるけれど…。東海道線をつかっていたのは、月曜日であったから、『少年ジャンプ』を読んでいる人が目についたり(発売日だった)、スポーツ新聞や漫画雑誌を読んでいるのは、読書だとはいえないなと、修正したのであった。

ところが最近、電車に乗っても何かを読んでいる人は、ほとんどいない。「本」が「ケータイ」に取って代わられた感がある。本を読んでいるのは、10人のうち2人ぐらいだろうか。

先日、読書に関する各新聞の「世論調査」の結果が発表されたが、世代別の「不読率」が軒並みポイントを上げている。これも、ケータイやゲーム機の普及と大きな関連があるだろうが、「時間がない」ことも読めない理由に挙げられていた。確かに、「時間がない」ことも大きな理由の一つだろうが、小さい頃から「読書習慣」がない世代が育ってきて、その人たちが「不読率」を上昇させているのではないかと考えられないだろうか。高齢者の不読率が高いのは、やはり「目」か。

私も「目が悪く」なってきて、電車の中で本を読みづらく感じることもある。というわけで、本を読んでいない時には、ひそかに乗客ウオッチングを楽しんでいる。

先日地下鉄で見かけた、生後数ヶ月の赤ちゃんをベビーカーに乗せて乗車してきたお母さんは、赤ちゃんがご機嫌な声を上げているのをいいことに、ケータイメールに熱中し、乗ってから降りるまで、ひと言も声をかけたり、目を合わせたりすることはなかった(15分ぐらい)。

おかあさん! それでいいのか!

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