スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

ちいさな人たち

「子育てサークル(2歳児)」の運営委員をしている方にたのまれて、「絵本について」のお話をしてきた。会場には、15人ぐらいの2歳児とおかあさんたちが集まっていた。10月に2歳になった人をみんなの歌でお祝いしたあと、座談会のように丸くなってお話をした。

こんなにたくさんの2歳児を見たのは、たぶんはじめて。あたりを走り回る子、泣きわめく子、お母さんにひっついて離れない子、私のことが気になって寄ってくるのに、こちらが近づくと逃げる子、「ガン」を飛ばす子、ごろごろしている子などなど、わめき声や鳴き声やおしゃべりのなかでおかあさんたちに話しはじめた。

2歳児にとっての「絵本」はまだまだおもちゃであること。この時代の子どもたちにとって、もっとも大切なのは「愛情ある身近なおとな(おかあさん)の声と言葉」であること。日常の言葉は、指示、命令、禁止など「おとな目線」「保護者目線」から出てくるものがほとんどであるから、「絵本」や「わらべ唄の言葉」を大事につかって、楽しんでほしいことや、発達段階にそった絵本の特徴を実際に確かめていただいた。

それではと、『ごぶごぶごぼごぼ』を読みはじめると、ちいさな人たちは、わらわら私のまわりに集まってきて、じっと耳をすませて、一つ一つの言葉に反応し、笑ったり、絵に見入ったりした。最後の「しー」のところでは、すっと静かになった。非言語的ではあるけれど、日本語の響きを受けとめたちいさな人たちと私は、絵本の言葉を通して心がつながったような感覚をもらった。ちいさな人たちは、「絵本を読む私」は受け容れてくれたのであった。「もっかいよんで」のリクエストが繰りかえされたのもうれしかった。

とくにくいつきがよかった絵本は、『がたんごとんがたんごとん』『とまとがごろごろ』『でてこいでてこい』『ごぶごぶごぼごぼ』(以上福音館書店)、『たべたのだあれ』(文化出版局)である。『がたんごとんがたんごとん』や『とまとがごろごろ』などはすでに絵本の中に「物語」を読むことができる。

ところで、始まる前、私に鋭いガンを飛ばしていた男の子は、絵本を読みはじめると、こちらににじり寄ってきて、先ほどの「目つき」をすっかり変えて、楽しんでくれた。

また、是非、図書館を利用してというお話もしたのであるが、お母さんたちの反応は「いまいち」だった。自分自身が図書館の利用者でなければ、子どもをわざわざ図書館には連れて行かないのだということが、よく解る反応であった。「図書館は使える場所だ」ということが実感されるのは、その場に足を運んでみないと解らないのだ。日本の「ブックスタート」が、子育て支援に終始しているという批判が生まれるのもすこし理解できた。本場のイングランドでは、「ブックスタート」と「図書館」には緊密な関係が作られているということである。
スポンサーサイト

アランフェス協奏曲

日フィル定期演奏会へ出かけた。本日の目玉は、村治佳織による「アランフェス協奏曲」である。

あの有名な、誰でも一度は耳にしたことであろう第2楽章がはじまると、その曲想に誘われて涙がとまらなかった。悲しみが自分の中でじわじわと広がり、「存在の圧倒的孤独性」が意識されたのだ。

そして、一度はスペインに行かなければならない、と固く決意したのである。とても短かったが、チェロのソロが抜群だった。

美しい言葉

朝の連続ドラマ「ちりとてちん」を見ている。今回は、小浜が舞台のひとつとなっているが、小浜の言葉が美しい。「語尾の母音を尻上がり調にのばす」のが特徴だろうか。この「尻上がり調」が何ともよいのである。やさしさにつつみこまれるようで、わらべ唄を聴いているみたいな気持ちになる(わらべ唄もやさしく母音をのばす口調が多く使われている)。ドタバタして喜劇調のドラマの内容よりも、あの言葉の調子を聴きたいがために万障繰りあわせて、テレビのスイッチを入れていりうのかもしれない。

先日、「にほんごであそぼ」(3チャンネル)で、「春はあけぼの」を小浜の言葉で語っていたが、やはり、語尾が美しかった。で、本場もんということが解った次第。

若者も「語尾の母音をのばす」口調を使うが、彼らは、どちらかというと「下降調」にのばす。これが聞き苦しい。もっと言うならば、下品。

上昇させるか、下降させるかで、言葉がつくりだす雰囲気が正反対になることが、おもしろい。わらべ唄のような小浜の美しい言葉は、朝からやさしい気持ちにさせてくれる。早口の私も見習いたいものだ。

長い旅

半期開講の授業が昨日から始まった。一コマの授業にほとんど丸一日かけて出かけることになる。この大学は、出来高払いだし、交通費も距離で計算されることもあって、いろいろ考えると「赤字」の仕事である。帰りには、ついふらふらと「湘南新宿ライン」のグリーン車なんかに乗ったりなんかするともっと赤字。横浜で途中下車して、のどの渇きを潤したりなんかすると、とんでもなく赤字。

授業の方針やレポートについて話し終わったあと、「質問は?」と聞いたら、一番うしろに座っている男子学生が「今日は授業はしますか?」と聞いてきやがった! あたりまえだろ! じつに不愉快! で、「あなたの心性を疑う」的な発言をして、のっけから「プチ爆発」を起こした。情けない(歳のせいか、最近、怒りっぽくなっているんだろうか)。ガイダンスだけで終わる先生もいるんだろうけど、往復4時間以上かけて通勤して、「30分のガイダンス」だけの授業なんてできるわけがない。しかも、最初に「半期(2単位)の授業ではあるが、やるべきことはたくさんあります」と言っているにも関わらず、こんな発言が出てくる。用事があるならば、(失礼しますと軽く会釈をして)静かに出て行くべきだろうと思うが…。件の彼は、「出ていくぞオーラ」出しまくりで(話を聞いている他人への配慮をすることなく)、退出した。

こんな愚痴や学生への不満を書いていると、また学校のアンケートで、「先生は自分のブログで、愚痴や学生の悪口を書いているが、いかがなものか」と書かれてしまうから、気をつけなきゃ。しかし、氏名や素性を公表しているわけでもないブログを読んで、「わしこ」を担当教員と同定し、その内容にまで文句を言ってくる学生なんて…。

久しぶりにオレンジの線に乗ったが、新しい車両はとてもスムースに動いていた。あの線は「ガタンゴトン、ガタンゴトン」と走っていたのだが。快適!

「スコットランド語りの世界」の合間に

デイヴィッドのコンサート準備やコンサートの合間を縫って、久しぶりに妹が来横した。8日の昼は、彼女の旦那さんも含めてランチを一緒した。メニューは、いつもの定番メニューであるが、季節柄、「自家製イワシのつみれ汁」が加わった。彼は健啖家で、料理をきれいに食べてくれたのがうれしかった。

いつものガーリックトーストとマグロのタルターラには、「昔住んでいたイタリアを思いだす」などと、冗談をとばしながら食べてくれたのも、久しぶりに笑えた。食卓に笑いがあるのはいいよね。しかし、私は調子に乗って飲んでしまったので、翌日は完璧に二日酔い状態だった。九州男児と一緒に飲んでいると、いつの間にかきこしめてしまうようだ。気をつけなくては。

翌日は、デイヴィッドとミオさんを宿舎に案内しなくてはいけないこともあって、妹とふたりで都心のホテルに宿をとって(夫は、出雲地方に出張だったし)、水曜日には、妹のたっての希望で、国立新美術館へ「フェルメール展」に出かけた。彼女は、フェルメールを見るために、オランダに行こうとまで考えていたそうだ。目玉は「牛乳を注ぐ女」である。

平日にも関わらず(平日だからか)、「おばさん、おばさん、おばさん、おじさん、わかもの、おばさん」状態で混みあっていた。その後、リッツカールトンの最上階で景色を楽しみながら、ビールをいただいた。へ・へ。

続デイヴィッドの語り:「雪女」について

「スコットランドの語り」コンサートのあと、デイヴィッド、美緒さん、H先生、学生と一緒に、「やきとり屋」さんでささやかな打ち上げをした。そのとき、彼に「雪女」について訊ねてみた。やはり、デイヴィッドの「雪女」は、ハーンの『怪談』に収録されている「雪女」を基にしているとのことだった。

私は、率直に、デイヴィッドの「雪女」には「怒り」が全面的に表現され、違和感を覚えたことと、自分の解釈(雪女の諦観、悲しみ)についてお話しした。最初は、デイヴィッドは、とまどっていたようだった。なんといってもハーンに対する信頼があったからこそ、彼は「雪女」を語っているのだろうから。あらためて、ハーンの結末を読んでみると、雪女が箕吉を殺さなかった理由は、子どものためであったことがはっきりと書かれている。しかも、私が読んでいたように、雪女の箕吉への愛については言及されていない。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

それは、私だったのです。私は、あのときあなたに言ったはずです。もし、あの晩のことをひと言でも口にするならば、あなたを殺すと。いま、ここに眠っている子どもたちがいなければ、すぐにでも私はあなたを殺してしまうでしょう。さて、今となっては、子どもたちの面倒を見てもらわないわけにはいかない。もし、あなたが子どもたちをないがしろにすることがあれば、私は、あなたにも相応の仕打ちをすることでしょう。

彼女の叫び声は、風の音のようにだんだん小さくなっていった。そして、彼女も白い霧となっていったのである。霧は天井の梁にうずまきながら、煙突を抜けてゆき、女は、再び現れることはなかった。(わしこ訳)

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

私に言わせれば、日本に長く暮らし、日本人の妻をめとったハーンでさえ、「雪女」のエッセンスを読めていなかったように思う。確かに、ハーン版「雪女」は解りやすいし、因果関係もはっきりしている。私が、読んだような「あいまいさ」や「アンビバレンス」とはほとんど無縁と言ってもよいだろう。しかし、私の話を聞くとデイヴィッドは、私の「語り」を聞きたがったので、私は、日本語で最後の部分を語った。すると、彼は、「失望」「痛み」「悲しみ」を「雪女」に発見してくれたのである。これは、私にとっては、大きな驚きであり、よろこびでもあった。デイヴィッドは、新たな「雪女」を作ると言ってくれた。また、伴奏の「さくら」に関しても、私たち日本人が持つ「さくら」のイメージが、「雪女」にふさわしくないことを理解してくれた。

「でも、日本人聴衆を対象にしていない時には「さくら」を伴奏につかってもいいのではないか」と私が言うと(なんといっても「さくら」と日本は緊密に結びついているから)、彼は、「とんでもない。日本人が違和感を感じるのであれば、それはどこに持っていっても「偽物」である」とおっしゃった。デイヴィッドのお話に対する真摯で誠実な姿勢は深く心にしみた。

ところで、「雪女」における、諦観や悲しみがこのように、比較的容易に理解されるとは思っても見なかった。というのも、ぱたぽんさんが「デイヴィッドの語り」のエントリーでコメントをつけてくださっているように、ある種の(「つる女房」など)昔話は、ヨーロッパ人には理解しがたいということを、昔話研究者の小澤俊夫先生がおっしゃっているからだ。「つる女房」の結末は、西洋人にとっては「終わり」という感覚をもつことができないらしい。「救済の成功」が語られないからだというのが大きな理由である。

しかし、スコットランドの昔話である「あざらし女房」は、異類婚の宿命として、「つる女房」と同じように、海の国(異類のふるさと)へ帰って行く結末を持っている。デイヴィッドが「雪女」についての日本人的な感覚を理解してくれたのも、「あざらし女房」をもつ文化の出身だからかもしれないと感じている。とすると、小澤先生の「西洋人は「つる女房」が理解できない」というご意見は、西洋すべてに敷衍して考えることができるのかと、新たな疑問もわいてくる。

異類婚については、ずっと気になっているので、さらに、いろいろ考えてみたい。小澤先生のご意見に興味がある方は、『外国の昔ばなし研究者が見た日本の昔ばなし』(小澤俊夫編/昔ばなし大学出版会)が参考になるかもしれない。ただし、ざっと再読してみたところ、「つる女房」についての言及を見つけることはできなかった。

注:デイヴィッドの語る「あざらし女房」は、異類の女房がひとりこの世を去るという結末を採用していないところが特徴的である。人間の男は、女房のとともに、いったんはふたりで暮らしていた海の国から戻ってくる。ふたりがまた人間の国に戻ると死んでしまうことを承知の上で戻った理由は、ふたりの末娘が子どもをもうけたので、どうしてもその子を祝福したかったからだ。その後、ふたりは、あざらしの姿のままなくなって発見されるのである。

スコットランド語りの世界

昨日、「スコットランド語りの世界:デイヴィッド・キャンベルの語り」コンサートを無事終えることができた。100名を超えるお客さまを迎え、会場はスコットランドの炉端となり、聴衆は、お話が醸す「魔法」を堪能した(と思う)。

事前に「5分前着席」を呼びかけ、「語り」に先立つ「ミニレクチャー」が始まると同時に入場を制限したことも、雰囲気作りに大いに役立ったのではないだろうか(主催者挨拶では、携帯の電源をoffにすることもお願いした)。さらに、解説や説明は、語りの始まる前に集約し、「語り」だけの世界を楽しめたこともよかったように思う。

この会が成功したのは、聴衆のみなさんに拠っていることが大きい。雰囲気が作られたとしても、お話を楽しんで聞いてくれる聴衆がいなければ、「語り」は成立しないからである。昨日のよき聴き手のみなさんには心からの感謝を申し上げる。ありがとうございました。

大きな「ぽか」はなかったと思うが、誰しも「記録」のことなど思い至らず、現場を伝える写真がないのが、少し残念である。しかし、語りの場に、記録が目的であったとしても、人がうろうろしていたら、聴き手どころか語り手の集中力を欠いたかもしれないと、今となっては、よかったのではないかと思っている(直前にICレコーダーでの記録は準備していただいたのであるが)。これも、カメラ嫌いの私や先端機器嫌いのH先生ならではの怪我の功名かな。

デイヴィッドのスピーチ原稿は、事前にいただき、準備は整えていたものの、彼は、原稿を読むということを嫌い、ミニレクチャーの内容は、予定のものとは大幅に違うものとなったので、通訳係の私が緊張し、少々あせってしまったのが反省点か。しかし、ミニ・レクチャーといっても、「語り」にも似た彼独特のパフォーマンスであり、ゆっくりお話くださったので、みなさんにとっても解りやすかったのではないかと思う。

<お話>

●「女たちの望むもの」(「アーサー王伝説より」)
●物語詩「詩人トーマス」
●「あざらし女房」

デイヴィッドの語る「あざらし女房」は、我々がなじんでいるものと少し異なるものであった。このお話は、「羽衣伝説」によく似ているのであるが、デイヴィッド版は、さらに悲しみを誘うもので、うるうるしてしまった。

デイヴィッドの語り

デイヴィッドの「語り」がカレドニア学会でも聴けるということで、開催校である神奈川県立外語短期大学に出かけた。大学は高台にあって(山の頂上かな)、最後の50㍍ほどの急坂がきついということだったが、予定通り、最寄りの駅から徒歩で行った。確かに、最後の坂はちょっと息切れがした。

デイヴィッドの語りは、「ケイリ」を意識しているようで、観客にも歌などで参加を促すものであった。お話は、「三人のドナルド」「雪女」「イグサの娘」など。とても楽しかったが、一つ気になることがあった。

「雪女」は、ハーン版のアレンジだったようだが、私が驚いたのは、デイヴィッドの「雪女」の解釈だ。お話の最後で、箕吉が妻にかつての恐ろしい夜のことを話してしまい、雪女が去ってゆくくだりを、デイヴィッドは、雪女の圧倒的な怒りを語ることで、「雪女」を表現していたのである。つまり、あの夜のことはしゃべらないと、吹雪の晩に固く約束したのに、破ってしまったことへの怒りが、語りに迫力を生んだのである。

それはそれで、もちろん語りとして成立している。しかし、私はむしろ、雪女の「悲しみ」や「諦観」を物語に見いだしていたので、彼の語りにすこし驚いたのである。この解釈の違いはどこから生まれたのであろうか、チャンスがあれば、少しつっこんでデイヴィッドと話をしたいと思った。また、この語りには、ハープで「さくらさくら」変奏曲がつけられていた。きれいな編曲ではあったが、「さくら」という曲想が物語に適していたかどうか、疑問が残る。「さくら」は私たちにとっては、「春」と分かちがたく結びついている。自分にとっての異文化を当該文化の中で表現するということの難しさを感じた。

また、デイヴィッドは時差ぼけで眠れないらしく、目にもくまができていて、体調が万全でないのが気の毒であった。今日から、移動してコンサートを重ねるさらに厳しいスケジュールが続くが、何とか体調を整えて、充実した日本滞在であってほしいと切望する。

スコットランドのストーリーテリング

昨日、少し早めに学校に行き、「スコットランド語りの世界:デイヴィッド・キャンベルの語り」を告知する看板を作った。原稿を作ったり、倉庫のカギを借りたり、倉庫に行って看板を持ってきたり、原稿を拡大コピー機で大きくしたりなど、私たち(私と常勤のH先生)にとっては、「肉体労働」だった。だって、縦3メートルぐらいの「ブツ」をあっち、こっち持ち運ぶのだもの。

できあがった「スコットランド語りの世界」立て看板は、その労働の密度とは、情けないほど反比例するシャビーな出来だった。しかも、今回のコンサートは、なぜか、いつの間にか某研究所が絡んできての開催となったのである(某研究所は、予算を消化できていないという事らしい)。まぁ、私としては、開催できれば問題はないのだけれど、「主催者挨拶」とか、いろいろ考える事もあるのだ。

で、某研究所のどなたかが、あのシャビーな看板を見て、見るに見かねて作り直してくれないかなと、ひそかに思っている私である。金は出すけど、仕事はしないのかなぁ。

というわけで、一般聴講のみなさんにお伝えします。正門に看板はあれど、全然目立っていません。1メートルぐらいの至近距離にいかなければ、見えません。何のための看板か!(涙)

正門を入ったら、ひたすら前に進んで、「パレット・ゾーン」をめざしてください。しかも、会場の「アートホール」は、現役の学生も余りよく知らないのです。「アートホール」は、「パレット・ゾ-ン」の奥にあります。どうか、時間に余裕を持っていらしてください。

あぁ、大きなポカをしなければいいのだが…。

ルバーブジャム

思いがけず、軽井沢から「ルバーブ」を送っていただいた。東京にいた頃は、毎年9月になると10日間ほど軽井沢で、本を読んだり、論文を書いたりして、しばしのリフレッシュを図ったものだった。しかし、東京を離れる少し前から、夫の仕事が忙しくなり、ここ数年は、軽井沢にはさっぱりご無沙汰だったのである。というわけで、残念ながらルバームジャムともご無沙汰であった。

軽井沢からの帰りは、必ず地元のスーパー「ツルヤ」によって、ルバーブやリンゴジュースや野沢菜漬けなどを買いこんできたものだ。軽井沢から帰ってきて一番最初にやった事は、ルバーブジャムの仕込みであった。9月も下旬になると、スーパーにはルバーブがなくなるので、事前に確認に行き、予約までしても、ルバーブを買って帰っていたものだ。

今年、ルバーブを送ってくださったのは、E=ラーニング大学の学生さんである。先日、授業の合同「オフ会」があり、「オン」で参加していた軽井沢在住のOMさんが送ってくださった(お申し出があったのは、授業、試験すべて終了後の事である。念のため)。「軽井沢在住」に、私がコアな反応を示したのである。どうやら、私にとっては、「軽井沢」イコール「ルバーブ」なのかもしれない。ありがとうございました。

というわけで、昨日仕込んで、今朝早くから火を入れていたのが、先ほど完成した。何しろ、今日は今日とて、授業の前に、「スコットランドの語り」イベントのための「立て看」作りが待っているのである。

かつては、ジャム保存用や贈りもの用に戸棚に空き瓶をごろごろコレクションしていたのであるが、そのコレクションもこのたびの改装で、ほとんど処分してしまった。さてさて、どうしたものやら。空き瓶持参で我が陋屋を訪れてくださる奇特な方には、「絶品ルバーブジャム:わしこ謹製」を差しあげる事にしようか。

注:「ルバーブ」は何も軽井沢に行かなければ、手に入らないわけではない。例えば、某高級スーパーK屋にも、時期になると、ごく少量パックされて売れられているのを目にした事がある。しかし、これが、目が飛び出るほど高いんである。キロ単位でジャムを作るとなると、お財布が悲しい事になってしまうのだ。また、「ルバーブ」とは、漢方でいう「大黄」で、便秘薬などに処方される。繊維質が多い果実(?)である事は、煮ていると、さらさらと繊維が崩れてゆくのでよく解る。英国では、コンポートにして食べるようだ。私は、その形状から「西洋蕗」とよんでいるけどね。

「詩人トーマス」と「タム・リン」

スコットランドの語り手であるデイヴィッド・キャンベル氏が語るお話の一つが「詩人トーマス」(バラッド)であると聞いた時、「タム・リン」を連想して、「トーマス」と「タム・リン」を混同している事を指摘された。確かに、「タム」というのは、Tomのことではあるけれど、しかし、バラッドとしては別物のこの二つが、なぜ私の中で結びついていたのだろうか不思議だった。

それは、ダイアナ・ウィン・ジョーンズの『九年目の魔法』のためであった。この作品は、「詩人トーマス」と「タム・リン」を下敷きにした物語なのである。しかも、私は、章の始めに引用されている二つのバラッドをきちんと判別して読んでいなかったため、「銀の鈴のついた馬」もタム・リンの乗った「白馬」と一緒にしてしまい、自ら混乱を招いていた事も解った。情けない。というわけで、久しぶりに『九年目の魔法』を再読した。

これが何ともひどい翻訳で読めたものではない。結局、原書を取り出して、わけが解らず、意味の通らないところをチェックしながら読んだためにずいぶん時間がかかってしまった。なぜか「読まなきゃ」というオブセッションに捕らわれていたので、読みきったが、そうでなければ早々に放りだしていた事だろう。気になって、「グーグル」で読者の感想を探したのだが、「読みにくい」という感想は、ざっとながめたところ一人だけだった。えっ! 物語を楽しんだみなさんは、辛抱強いというか、寛大というか、私が「わがまま」なのか?

まず、最初から、日本語の使い方にひっかかったのだ(これは、以前読んだ時にも同じことを感じていた)。

「足をベッドの向こうに振りおろして荷造りを続ける前に、頭の上にかかった額を見上げた」(1994年初版一刷り、p13)

「足を振りおろす」って。確かに"swung"という言葉は使われているが、「振りおろす」なんて訳す必要はない。このように、英語の表現に引きずられての不自然な日本語はそこかしこにある。

「その人の手は大きかった。巨大で、長い指の列の下にたたみこまれ、こちらの手はまったく見えなくなった」(p27)

えっ? ここは、主人公の少女が、見知らぬ人に手をつながれる場面なのであるが、私には「長い指の列」を想像する想像力がない。悲しい。「大きな手につつみこまれ」あるいは、「大きな手に捕まれて自分の手が見えなくなってしまった」と書いては駄目なんだろうか。

「その日のうちに、お祖母ちゃんとニーナはポーリィが壁に釘を打ちこみ、横になった時に見えるよう、ベッドの上に額を飾るのを手伝ってくれた」(p55)

?????と疑問詞がついてしまう。まぁ、いいたい事はわかるけれど、申し訳ないが、こんな日本語を500ページも読まなくてはいけないなんて、私にとっては苦行でしかない。最近は2分冊になって出版されているらしいから、読みにくいところが直されている事を期待したいが、いかがであろうか。

ウィン・ジョーンズの英語は、そんなに難解だとは思われないが、彼女が紡ぐ物語世界は、かなり複雑で、知的遊戯にとみ、ぼんやりしていると取り残されてしまうことがある。そうでなくても、物語そのものが不可解な事も多い。そんなウィン・ジョーンズをこんな日本語で読まされるのはかなわない。時間をかけて読書したのに、物語を読んだ満足感、異界に遊んだよろこびが感じられない不毛な読書であった。

さて、「詩人トーマス」を下敷きにした物語をもう一冊みつけた。『吟遊詩人トーマス』(ハヤカワ文庫/アマゾンユーストで購入)である。今日はこれを楽しんで、お口直しといきたいところだ。

情けない!

基礎演習1年生の夏休み課題の訳が、「あんまり」だったので(名付けて「チシャネコ訳©わしこ」。しかも、件の学生は、またもや逆ギレ。私も血圧が一気に上昇。こいつら、本読んでないなと直観した)、2年生のクラスでは、「夏休み中何冊本を読んだ?」と聞いてみた。20数人の学生の内、「5冊以上読んだ」学生は、なんと「〇」。情けない!

ほとんどの学生が、1、2冊しか読んでいない、驚く事にまったく読んでいない学生も一人いた。なんじゃこれ! いったいあの長い夏休みをどう過ごしたのか? 学生の質が落ちるわけだ。

しかも、本を読まない学生は、自分が読書をしない事については「危機感」も持っていない。本など読まなくても、「何とかなる」と思っているふしがある。むしろ、自分の無知を恥じ、さらに探究的に読書に励むのは、ある程度読んでいる学生である。

3年生のゼミ生に、夏休みの課題として「読書レポート」を書くために渡した「読書リスト」に挙がっているすべての本を読み、すべての本の「読書レポート」を書いてきた学生がいた。感激!

子どもの本に関わっている人のなかでも、「読書がすべてではない」と講演会などで発言したり、私のように「読書」に関する活動をしている人間に対して批判的な人もいる。それぞれの立場を尊重したいとは思うものの、今の学生の状況を見ていると、あまりにもナイーヴな態度であると感じる。学生を含めておとなたちが本を読まない状況は、ほんとうに「ヤバイ」と思うし、子どもの頃の「読書」がいかに重要なのかが、大学の教師であるからこそわかるのだが。

「チシャネコ訳©わしこ」については、次回に。

ブログ内検索

RSSフィード

リンク

月別アーカイブ

最近のコメント

プロフィール

わしこ

  • Author:わしこ
  • 無断転載ご遠慮ください。
FC2カウンター
最近の記事
カテゴリー
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。