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ロミ・ジュリか?

必要あって、このところ、ストーリーテリングや語り、口承文芸の本の乱読状態であった。昨夕、ルース・ソーヤーの『ストーリーテラーへの道』を読み終えたところで(古い本ではあるが、現代にも大いに通じるところがあり、ストーリーテリングに関わる人の必読図書である。また、これ以後出版されたストーリーテリングに関する文献の種本的な著作でもある)、頭が「お腹いっぱい状態」になったので、ふと目に入った高橋治の『風の盆恋歌』を読んだ(いままでに、何回読んだことだろう?)。

この作品は、読むたびに何かしら発見があるのであるが、今回の発見は、「これはロミ・ジュリだ」という思いであった。『ロミオとジュリエット』は、若者の恋物語であるが、こちらの恋は、もう50歳になろうという二人である。物語のあらすじを簡単に説明しようとすると、世俗的で扇情的な、週刊誌の「キャッチコピー」のようになってしまうのが情けない。

前回は、都築克亮がどのように死に至ったかという点で、見落としていたことがあったのに気づいたのだが、今回は、都築克亮と中出えり子の恋の結末に「ロミオとジュリエット」の残響があることに気づいた。だから、不倫小説なのに、渡辺淳一の作品のようなどろどろしたものや嫌味を感じないのかも知れない(『アイルケ』読んでないけど)。

また、えり子が恋に目覚め、変化してゆくさまは、頭では理解できるものの、作者の「女の恋」に対するステレオタイプな発想を感じてしまった。私的には、これはちょっといただけない。

この作品を成功させているのは、二人の恋の行く末を懐深く受けとめ、冷静に人間をみている太田とめの存在である。彼女の視点を獲得していなければ、この作品は凡庸な不倫小説で終わっていたことだろう。

イギリスの旅以来、文学と風土のことがずっと気にかかっているが、この小説は、富山県八尾町(07年現在、富山市)の「風の盆」とは切っても切り離せない。この作品を読んで、「風の盆」を見るために八尾を訪れる女性がどっと増えたということを聞いたことがある。
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『虫けら様』を読む

秋山亜由子の『虫けら様』(青林工藝舎)がすごい。これは、虫たちを主人公にした、とても不思議な漫画である。描かれている虫は、必ずしもリアリズムが追求されているわけではないのだが、表題の「虫けら様」連作は、虫の生態にはかなり忠実なようでいながら、科学読み物とは異なった様相で、虫たちの生活が展開され、読み手に迫ってくる。

科学的な読み物の記述があくまで事実に則しているのと比べると、「虫けら様」作品群は、虫たちの間で会話が交わされたり、独白があったり、虫たちの気持ちにより添った記述がされている点が、読み手の感情移入を許し、こちらの心に深く響くのだろうか。また、虫や小動物に服を着せたことも面白い(「くものはなし」「鼠の草子」など)。「雌」とはとても表現できない「フユシャク」の少女には、ジンと来るものがある。

この人は、『くものすおやぶんとりものちょう』(秋山あゆ子/福音館書店)という絵本も出していて、これもなかなかに面白い。この絵本では、登場する虫たちがすべて擬人化され、服(着物)を着ている。いままで、虫に服を着せた人はいたのだろうかと考えていて、1807年に出版された『ちょうちょうの舞踏会とバッタの宴会』を思いだした。この作品は昆虫を擬人化した初期のものであろう。

『イギリス絵本の歴史』(三宅興子/岩崎美術社)に収録されている、『ちょうちょうの舞踏会とバッタの宴会』の図版では、小さな人間の上に蝶々が止まっていたり、カタツムリの殻が乗っかっている絵や昆虫だけの絵を確かめることができる(ウイリアム・ロスコウ詩/ウイリアム・マルディ絵)。また、『虫太平記絵巻』に描かれたの虫も同様だそうだ(『虫けら様』巻末対談より)。

虫を擬人化した秋山あゆ子は虫に、野菜を擬人化した飯野和好は野菜に<魂>を見つけたのだろうか? それにしても、秋山あゆ子はただ者ではない。

『Miss Potter』を読む

秋に公開される映画「ミス・ポター」の原作、Miss Potterを読んだ。”A Novel”とあるので、必ずしも伝記的事実に忠実ではないようだが(親子関係、ヒーリス氏との出会いなど)、面白かった。Miss Potterでは、編集者であったノーマンとの恋愛が大きなプロットを作っているが、やはり映画化が前提では、そう作らざるを得ないのかとも思う。

私は、ポターが、なぜ子どもの物語を書こうとしたのか、あるいは、子どもの物語を書くなかで、何を求めていたのかという点に興味があるのだが、この作品では、むしろ「なぜ子どもの本の作家であることをやめたのか」という視点が与えられているように思う。

というわけで、少し物足りなかったので、『ものいうウサギとヒキガエル』(猪熊洋子/偕成社)を再読。

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イソップ以来の「動物擬人化」の伝統に忠実である一方で、時代の強い抑圧のもとに生きていたポター個人の内部にひそんでいた自由への欲求、自分を抑圧するものにたいする批判、風刺などの精神によって人間の原型を提供しうるものとしての動物の世界が再発見されているからにほかならない。彼女は擬人化した動物を使うことによって、子どもに向かって物語りながら、同時におとなの内なる世界にひそむものを表現するという、イギリス児童文学におけるキャロル以来のファンタジー伝統の正当な後継者となったのであった。(『ものいうウサギとヒキガエル』p143)

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「子どもに向かって語りながら、同時におとなの内なる世界にひそむものを表現」している作品といえば、ゴッデンの『ねずみ女房』もそうではないか。いやいや、アトリーの「グレイラビット」のシリーズにだって、「おとなの内なる世界」が描かれている。なぜ、「子どもに」だったのか、気になる。

『The Funny Little Woman』を読む

The Funny Little Womanは、日本の昔話(「魔法のしゃもじ」系のお話)に題材をとったハーン(小泉八雲)の再話をもとにして作られた絵本である。

表紙は、巨大な灯籠のような建物に「笑うおばさんが」立っているのだが、このおばさんよく見ると、頭に「かんざし」をさしている。しかし、このかんざし、どう見ても「箸」にしか見えないのである。また、お地蔵さん、鬼、家の描き方など、「異界」が表現されていることを前提にしても、日本人の私たちからしたら、違和感を持たないわけにはいかない。この絵本は、1973年度のコルデコット賞を受賞し、現在でも入手できる。また、アマゾンJPからは、かなり大きな画像も見られる。

先日、この絵本を異文化表象の例として、受講者のみなさんにお見せした。自国の文化が、よそでどう描かれているのかを知り、当該文化に属する私たちがどう感じるかによって、異文化表象をどう捉えるか、考えるのかのとっかかりにしたかったからだ。

つまり、『シナの五にんきょうだい』や『ちびくろさんぼ』について、当該文化に属している人の気持ちを、私たちがThe Funny Little Womanに触れることで、「擬似体験」できるのではないかと考えたからだ(『ちびくろさんぼ』については、アフリカ系の人びとの気持ち)。体験は無理だとしても、相手の立場に立って、相手の気持ちを「想像」することはできる。絵本を見た受講生のなかからは、驚きだけでなく、不快感を表明した者もいた。「こんなふうに日本が表象されるのは嫌だ」「日本を正しく表現していない」などなど。

「着物の着方がだらしがない」「家には扉がなく小屋みたい」などの絵画的な表象だけでなく、主人公が”Tee-he-he-he”と笑うのも、私はなんだか嫌だった。

しかし、日本文化に属さない人にとっては、「小さい頃楽しく読んだ本がまだ手に入ってうれしい」「笑いで、困難な状況をのりきってゆく物語がすばらしい」「絵がかわいい(cute)」「アジア文化へのよい導入になる」「神秘的な要素がある」などの感想を持つのである(amazonのカスタマー・レビューから。14あるレビューのなかで日本文化を正確に表現していないと書いていたのは一人だけであった)。

ここまでくれば、あるべき一つの回答がみえてこないだろうか? 

ところで、私はこの物語を「笑いで困難をのりきる」話であるとは読めていなかった。「そういう話なのか」と理解したのは、カスタマー・レビューを読んだからだ。私は、絵本に描かれている一つ一つがひっかかり、物語を楽しむどころか、「読む」ことさえできなかったのである。ここに示唆されていることも大きく大切な問題である。

原爆投下62年

私が育った家では、8月6日は必ず、8時15分に家族で黙祷を献げていた。何をしていても呼びよせられ、テレビが流す「平和記念式典」の映像とともに、目をつぶって祈っていた。昨日、テレビで式典の模様をみていた時に、そのことを思いだした。

昨日の秋葉広島市長の「平和宣言」はすばらしいものであった。「憲法九条の遵守」と「アメリカ批判」、「被爆者保護」は、広島市長であるからこそ大きな重みを持って伝わったのではないだろうか。

「国民投票法」の可決、久間防衛大臣の「しょうがない発言」などなど、この国が大きく右寄りに方向転換が図られようとしているこの時、秋葉市長の言葉は重い。全ての人に謙虚に響いてほしい大切な言葉だ。

『シナの五にんきょうだい』を公共図書館で読み聞かせ!

いろいろと議論のある『シナの五にんきょうだい』(瑞雲社)を、横浜市の公共図書館が「読み聞かせ」に使っていたことを知った(この絵本を読み聞かせに使ったのは、ボランティア団体だと思われる)。

『シナの五にんきょうだい』は、もともと福音館書店から出されていたのものだが、『ちびくろさんぼ』絶版騒動のころと時を同じくして、絶版になっていたものだ。きちんと議論をしないで、「臭いものに蓋」的に絶版にしてしまうことにも問題があるだろうが、ほとぼりが冷めた頃、ゲリラ的に復刊したことも気になっていた。

『シナの五にんきょうだい』は、1995年に瑞雲社から復刊され、多くの読者から歓迎されたらしい。また、2005年には、岩波書店が「サンボ」という差別用語が使われているという理由で絶版処置をとった『ちびくろさんぼ』(ドビアス版)も、瑞雲社より復刊されている。こちらもまた好意的に迎えられたようだ。以下は、『ちびくろさんぼ』復刊に対する、瑞雲社のコメントである。

本書は、わが国では1953年に岩波書店から発売され、1988年に絶版になるまで、日本中のこどもたちに親しまれていた絵本です。その後も復刊を望む声は多くありましたが、岩波書店はもちろん、どの出版社も、それに応えようとはしませんでした。/小社でも検討に検討を重ねた結果、その内容や文章表現に何らの差別は無いと判断し、復刊することにしました。(瑞雲社HPより)

「その内容や文章表現に何らの差別は無いと判断し」た、瑞雲社の見解には疑問を感じるが、この復刊をきっかけに新たに議論がされればいいなと思っていた。しかし、私が調べた範囲では、新たに深い議論がされた形跡はなかった。図書館が所蔵するに当たっては、その「扱い」をどうするのかを、当然、きちんと議論したことを前提として、当該作品を所蔵することには問題ないだろう。また、個人で楽しむことに関しては、議論すべき問題ではない(個人的な思いはあるが、ここではいわないでおく)。

しかし、「読み聞かせ」となると、さらに考慮した上での判断が必要であろう。誰が携わろうと、公共図書館やそれに準ずる場での「お話し会」や「読み聞かせ」で使用する本については、十分に検討したうえで選ぶべきだ。『シナの五にんきょうだい』について言えば、少なくとも、「弁髪」「シナという呼称」について検討すべきだったろうし、「絶版」の経緯についての学習も必要だったと思う。こういったことを、学習すれば、「子どもがよろこぶ」からという視点だけで、「読み聞かせ」に使おうという発想は生まれてこないだろう。あまりにも不見識な「読み聞かせ」にびっくりした。現場の図書館員はいったい何をやっていたのかと不信感を持つ。「お話会」は、ボランティアに丸投げかい! 横浜市は、図書館には司書を採用しているにも関わらず、こんなことでいいのか!

また、同じような内容の『王さまと九にんのきょうだい』を比較してみれば、物語的にどちらがすぐれているのかもよく解るだろう。さらに、『王さまと九にんのきょうだい』には、中国少数民族のイ族の話であると明記されているが、『シナの五にんきょうだい』については、原典が提示されていないのも、誠実さに欠ける(いろいろ調べたのだが、私は、原典を特定することができなかった)。

アマゾンの「カストマー・レビュー」では、「人種差別があるということで絶版にされたらしいが、物語はおもしろい」という意見が大半だったが、一般読書人と異なり、子どもに本を手渡す立場にある人は、さらに深い考察が必要なのは言うまでもないことである。少なくとも、灘本昌久氏の著作は読むべきだったろう。

「子どもが読んでたのしいと思う本をえらぶべきだ」と主張している赤木かん子さんでさえ、ご自身が作るブックリストには、『シナの五にんきょうだい』や『ちびくろさんぼ』は載せていない。赤木かん子さんの言動には、「?」と感じることもあるが、これについては、彼女の見識だと思っている。

図書館員や教員など職業人だけでなく、ボランティアとして、子どもと本を手渡す立場にある方たちにも、謙虚に学んでいただきたいと願うばかりである。

レポート合格してください!

E=ラーニング大学の最終試験も迫ってきて、レポート提出もそろそろ下火になってきたが、それでも、何とか合格点に到達しようとをがんばっている受講生がいる。合格できない理由は、いくつかあるが、自らの不注意のために、私から「ダメ出し」が出るのは、出す方の私としても「脱力」である。

原稿用紙の書き方、文体、書名の表記、固有名詞の正確な表記等、注意すれば何とかなると思うのは、教師の傲慢なのかと、自己嫌悪に陥る。表記等に対して注意力が発揮できないのは、目録などを採らなくてはいけない司書の資質に欠けているのではないかと思ってしまう。

「資質に欠ける」といえば、読書の習慣のないと思われる学生も、司書科目を受講していることだ。大学での学びには、読書が不可欠であると思うが、それどころか、レポートを書くときに辞書を使っているのかしらと、勘ぐりたくなる文章にお目にかかることもある。

いずれにしろ、自分のレポートを客観的に読むこと、自分が「何」を書こうとしているのか、絶えず意識してほしいものだ。

旅の記録<5>メアリー女王

悲劇の女王といわれるメアリー女王について書こうと、ブログの管理場面を開き、書きはじめたとたんに、「ややこしい電話がかかる」「ややこしい電話をかけなくてはいけない」「本を読んで調べなくてはいけない」状況に陥り、思いついて、書いたものを「保存」しようとすると、「セッション時間が過ぎました」というメッセージが現れ、書きかけのエントリーがどこかに行ってしまったこと、3回。

メアリーさんとは相性が悪いのか、なんだか書く気が失せてきたので、メアリー女王が戴冠し(なんと生後9ヶ月の時)、幼少期を過ごしたスターリング城からみた眺望の写真をアップすることにする。

長じてのち(二回の結婚のあと)、メアリー女王がエリザベス女王の不興を買い、幽閉されたプロットを軸としたタイム・ファンタジー、『時の旅人』(アリソン・アトリー/岩波少年文庫)の舞台は、ダービーシャー(イングランド)であるが、今回の旅では、残念ながら訪問できなかった。

子どもの文学と「風土」に触発されて、『時の旅人』をはじめとして、ファージョン(マーティン・ピピンもの)、バーネット(『秘密の花園』)の乱れ読みの日々であった。

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