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旅の記録<4>イギリス児童文学と風土

英国文学はその歴史や風土と深く関わっている。また、子どもの文学も例外ではない。ルーシー・ボストンの所有していた「グリーンノウの館」と<グリーンノウシリーズ>、ファージョンの作品群とサセックス地方、アッシュダウンの森と『クマのプーさん』。しかし、湖水地方とビアトリクス・ポターの関係ほど有名で心そそられるものはないかもしれない。私たちは、『「ジンジャーとピクルスや」のおはなし』のお店や、『パイが二つあったおはなし』に出てくる「くぐり抜けのみち」を見つけた! それは、まさに絵本そのままであった。

ポターがはじめて湖水地方を訪れたのは16歳の時である。その後、1905年にニアソーリーに家を購入した時には、すでに、5冊の本を出版し絵本作家としての地位を確立していた。両親の強い反対にも関わらず、絵本の出版をつうじて親しくなったウォーン氏と婚約していたのだが、彼の白血病での急逝も、ビアトリクスがニアソーリーへ移った理由の一つかもしれない。『ピーターラビットのおはなし』は、ポターが家族と訪れていた「リンゴルム館」の周辺の風景がモデルだろうといわれている。

雨にたたられ、荷物に悩まされた旅ではあったが、湖水地方での2泊は、小雨こそぱらついたものの奇跡的に晴れてよい写真が撮れた。アーサー・ランサムの<ツバメ号とアマゾン号>シリーズの舞台になっているコニストン湖での「ツバメ号とアマゾン号クルーズ」では、「ハリ・ハウ農場」や、「黄金の川の王さま」で知られるジョン・ラスキンが亡くなるまで30年を過ごした家を遠く望むことができた。

そのほか、マーカスとエスカがローマ軍の象徴である<ワシ>を求めて旅する『第九軍団のワシ』にも出てくる「ハドリアヌスの防壁」も訪問した。この作品には、ローマ軍の北部への侵攻とブリトン人の抵抗が描かれているが、ローマ軍はブリトンの部族たちの進入や攻撃を防御するために、紀元120年頃、全長120㎞におよぶ「ハドリアヌスの防壁」を築いた。

写真は「ハドリアヌスの防壁」である。駐車場から雨の中を片道1㎞弱、羊が放牧されている牧場を歩いてのみ到達できる「ハドリアヌスの防壁」のあたりは、延々と続く壁と牧場、兵舎跡以外のものは何も目えない。ふり返れば、そちらもうねうねと続く牧場が広がっているのである。ここで私は、エスカとともに<ワシ>を抱えて決死の思いで沼地をわたっているマーカスの姿を容易に想像することができた。

下の写真は、サー・ウォルター・スコットの詩「湖上の麗人」の舞台になった、ロッホ・カトリン(スコットランド・スターリング)

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旅の記録<3>湖水地方の風景

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ワーズワスが、妻エミリー、妹ドロシーとともに10年を過ごした家。「ダヴ・コテッジ」(鳩の家)とよばれる。ゴッデンの『ねずみ女房』は、ドロシーの日記に書かれた出来事に想を得て書いたもの。

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ボターが晩年を過ごした家に続く道。

旅の記録<2>語り手 タフィー・トマス

グラスミア在住の語り手、タフィー・トマスが「私がサーカスで火を食べていた頃に…」と、自己紹介をはじめた時にはびっくりしてしまった。彼については、『語りの世界40:世界の語り手たち』(語り手たちの会)からの知識しかなく、もちろんその記述には「サーカスにいた」なんてことは書かれていなかったからである。だから、「タフィー流のジョーク?」とさえ思ってしまった。

ところが、Storytelling and Theatreに掲載されているインタヴュー記事によると、どうもそれは本当なのだ。タフィーは、1984年に脳溢血で倒れ、声を失い、半身麻痺になった(なんとそれは彼が36歳の時だ)。その回復期に治療の一環として、本格的にストーリーテリングを始めたということだ。しかし、お話そのものには小さい頃から触れていたらしい。お話だけでなく、彼が生まれ育った地域の民俗演芸集団(イェッティズ)の歌やダンスや語りが後のキャリアに大いに影響を与えているよう思われる。この経験が後のフォーク・オペラ"The Shipbuilder"(「船大工」か)につながっていったのであろう。

「病気にならなかったら、語り手になっていただろうか」というインタビュアーの最後の質問に、タフィーはこう答えている。

発病しなかったとしても年齢を重ねてくれば、語りをすることを考え始めていたかもしれない。それでも50代の初め頃までは、火を食べ、割れたガラスの上で踊り、身体で石を受けとめるなどという技をよろこんでやっていただろうと思う。しかし、患ってからというもの、語りこそが、自分自身が生きるための言語治療として不可欠なものだった。

こうしてタフィーの人生の一端を知ると、彼の人生が「タフィーの語り」を作っていたことに気づく。彼の語りやレパートリーにはエンターテイナーとしてのタフィーが脈々と息づいていると思うのだ。なんと彼は、一時、漁師だったこともあるらしい。

ところで、タフィーのところでは「語りのワークショップ」が開かれるはずになっていたのだが、あれはいったいどうなったのだろう?

旅の記録<1>エジンバラから

私たちの旅はエジンバラから始まった。すでに成田で3時間遅れで出発したため、ヒースロー空港からの乗り継ぎ便には間に合わず、エジンバラまで二手に分かれざるを得なかった。それが、「荷物」への禍根を残すこととなったのであろうか。

というわけで、ホテルに入った時にはすでに11時をすぎていた。着がえもそこそこに、まず、週末で人が混みあっている近くのパブにでかける。スコティッシュ・ビール(ハーフパイント)、£1.35なり。パブは、ロックがががんがん鳴ってるし、客も学生らしき若者が多く、私たちは場違い?

翌朝(6月23日)は、正統的なイングリッシュ・ブレックファーストをいただく。フライド・トマト、フライド・マッシュルーム、ソーセージ(肉以外の何かが入っているこのソーセージは苦手)。「ハギス」「ブラック・プディング」にスコットランドらしさが出ている。

あいにくの雨にも関わらず、徒歩で、エジンバラ城近辺の観光(エジンバラ城、ロイヤル・マイル、ホリールード宮殿)に出かけた。天気がよければどうってことのない距離も、傘をさしての移動は、辛い、寒い。「雨仕様」の靴なのに雨水が浸みこみ、靴下がぐっしょり濡れる。手近な靴屋さんで、手頃な靴を入手すべく履いてみるも、すべて大きすぎる。雨の多かった今回の旅行では、靴に大いに悩まされることになったのである。

ランチに「フィッシュ&チップス」をいただく。もちろんビールも。午後からは、ロイヤル・マイル沿いにあるスコティッシュ・ストーリーテリング・センターを訪問した。折しも、エジンバラではフェスティバルが開かれており、雨にも関わらず観光客が多く、街頭では大道芸人が人を集めていた。センター所属の語り手たちも、「お話ガイド」として活躍していたようだ。

写真は、ホテルの前から望んだエジンバラ城です。

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語り手の椅子

カメラ嫌い、写真嫌いの私が、はじめてブログにアップした記念すべき写真です。おかげさまで無事に帰ってきたものの、放りだしたままのカメラをPCに取りこんで、リアル写真を注文してくれたのは夫でした(ありがたや!)。しかし、そこから先は自分でやらなくてはと、何とかがんばってみました。やったー!

これは、湖水地方にあるタフィー・トマスのストーリ-テラーズ・ガーデンにある「語り手の椅子」です。私たちが訪問した時には、あいにくの雨模様で、語りを聞いたり、紙芝居を楽しんだのは屋内だったので、ここでゆっくりお話を楽しむことはできなかったのですが、記念に写真を撮りました。

これでようやく旅行記が書けるというものです。
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『ピッツアぼうや』を読む

ここ一週間で二回、学生を対象に『ピッツアぼうや』を読んだ。一回は、女子学生がそのほとんどをしめる「英米児童文学」の授業で、そしてもう一回は、ほとんどが男子学生の「英語」の授業で。

「英米児童文学」では笑いも起こり、かなり好意的に受けとめられたようだ。レスポンスシートには、「子どもが生まれたら、読んであげたい」「自分でも手に入れたい」「テキストで知って、実際に読んでみたかった」なんて楽しんだことがわかるものが多かった。

ところが、男子学生の反応である。「男の子」から「おっさん」まで、彼らは、絵本を読んでもらったりすることが恥ずかしいらしい(もちろん例外もいるけれど)。それにしても「絵本読むね」といった時は、嫌いな英語をやらなくもいいからか、ぐっと身を乗りだしてきたし、じっと聞いていてくれたのである。しかし、読み終わったあと彼らの多くは、実に不思議そうな顔をしているのである。「わけわからない」のだって。びっくりした私は思わず、「小さい時こういう経験あるでしょ?」と聞いたのだが、ほとんどは首をかしげるばかり…。まさかねぇ。一人だけ、たのしそうな表情をして聴いていた学生は、その質問にうなずいていたが。どうなんだろう。

さて、男子学生がよろこんでくれるたのしい絵本はないものか。

「千の風」に思うこと

『あとに残された人へ:1000の風』(南風椎/三五館/1995年)という小さな本をもらったのは、おそらく10年ほど前のことになるだろう。岡山県の公立図書館員だったKTさんが亡くなったことを知ってから、数年がたっていた。講演会をききに白百合女子大に出かけた時のこと、初めて出会った岡山からの参加者とお話をしていて、何かの拍子にKTさんの話題になった。KTさんとの出会いや、私にしたら突然にも思えた若すぎる死や病気との闘いのことなどお話しした。そしてそのとき、その方から、KTさんにまつわる品として『あとに残された人へ:1000の風』をいただいたのである。

いただいた本を読んで、またしばらくは、あらためてKTさんのことを思わずにはいられなかった。自分の病気のことを識り、西洋医学に頼らず、最後まで自宅で療養し、覚悟して逝ったKTさんの靱さを思いおこしていた。そこに書かれた詩は、KTさんのメッセージとして、風になった彼女が届けてくれたのだと感じた。そして、本は大切に本棚にしまった。いまでもKTさんについては何かの拍子に思いおこす。あの靱さに近づけたらと思うこともある。大切な詩だった。

いつの頃からか、『千の風になって』(新井満/講談社/2003年)がベストセラーになり、クラッシック歌手が歌う「千の風になって」も異例のヒットを続けていると聞いても、興味が引かれることはなかった。「千の風」は、すでに私のなかでゆるぐことのない物語を紡いでいたからだ。ベストセラーになった本や詩は、私のなかにあるものとは別物であると思っていた。

このたび、機会があって『千の風になって』を見せていただいた。やはり、私の思ったとおり、それは、私のなかに深くとどいたものとも、本棚にある『あとに残された人へ:1000の風』ともまったく違うものだった。

「まったく違う」と書くのは語弊があるかもしれない。基本的には同じ詩を訳しているのだから。『千の風になって』の訳者である新井満氏は、「言葉づかいから句読点のつけ方まで数えると、十カ所以上ことなる」(p68)とおっしゃっているが、句読点の違いを数えなければ、その違いは、タイトルの表記("A THOUSAND WINDS" "a thousand winds")と、ほかには、本文中に1カ所ある。この違いは本質的なものかもしれないので、あとで原文を紹介したい。

二つの作品を比べて大きく違うのは、新井版は曲をつけることを前提に訳詞をしていることにあるだろう。その違いは、本として読んだ時、とくに私のように南風版になじんでいる者にとっては、決定的かもしれない。歌にするためには、形式を整えなければいけないし、言葉の選択も制限される。そして、新井満訳は、それゆえセンチメンタルである。

あるものが万人に受け容れられるためには、何らかの操作が必要なことがあるのかもしれない。それがこの場合は、「歌詞」にすることだったのだろう。だからといって、南風版が普遍的でないとは決して思わない。2000年には第6刷になっているのだから、じわじわと人の口から口へと、手から手へと渡されていたことだろうし、いまでも読みつがれているだろう。

いま、二冊の「千の風」をじっくり目にして気づくのは、『あとに残された人へ:1000の風』は、非常にシンプルな作りであるのに比して、『千の風になって』は、楽譜や「「あとがき」に代える十の断章」が入り、盛りだくさんな本として編集されていることだ。たくさんの物語を加えなければこの本を生みだすことができなかったのかと、穿った見方をしてしまうぐらいに…。南風版はとにかく「詩」を伝えたいという強い意志が感じられ、訳者の名前もひっそりと、できれば隠れてしまいたいと思っているかのように佇んで、そこにある。

ところで、新井版に見つけたたくさんの物語のなかに、2001年テロの一年目の追悼集会でこの詩が朗読されたとき、「この詩は父が耳元でささやいてくれているような気がした」(p61)という人がいたことを知った。そう、この詩はとてもインティメットな感覚をよびさます。残念ながら、新井版ではこの感覚を持つことが難しい。

「どうか、その墓石の前で/泣かないでください。/わたしはそこにはいません。/私は死んでないのです」(南風版)

耳元でささやいているような感覚をもつのも当然である。風になった「その人」は、お墓の前で悲しんでいる人に、まさにいま吹きわたることで自分の思いをささやいているからだ。「千の風」は、大切なあの人が風となって、私に思いを伝えているのだ。

ところで、原文の違いを記しておく。英語の単数・複数については、日本語になってしまうと微妙にわからなくなってしまうことがあるが、原文のこの違いは、どう解釈できるだろうか。

I am the soft star that shines at night (南風版)

I am the soft stars that shine at night (新井版)


サー・ランスロットをキャスティングする

リアル大学の「三年生ゼミ」は、サトクリフの「アーサー王物語」の再話を読んでいる。1章、2章は精読し、その後は、章ごとにグループで要約を発表してもらっている。しかし、半期で終わらせたいと企んでいるので、すべてを読みきるのは難しい。

昨日は、"Sir Lancelot of the Lake"を何とか読みきった(ことにしよう)。じつは"Lancelot and Elaine"を読めばよかったと思ったのだが、後の祭り。来週は、みんなが楽しみにしている"Tristan and Iseult"である。これは、本来の「アーサー王物語」にはなく、後になってつけ加えられたものだそうだが、やはり、外せないだろう。

というわけで、昨日の「湖のランスロット」は冒険に次ぐ冒険でいささか冗漫になり、眠気も出てきたところで爆弾を落とした。

「ランスロットって誰のイメージ?」

ランスロットは、眉毛も口元も左右のバランスをひどく欠いた個性的な顔の持ち主でありながら、なぜか女性には好ましく思われていて、グネヴィアとのむくわれない恋(不倫か?)も、読みどころの一つである。

私が「どんな顔?」と言ったとたん、教室には活気がみなぎり、口々に名前が挙がった。「オダギリジョー?」。すみません、わからないです。「阿部寛を崩したような顔」という私の発言は、幾人かの同意をいただけたようだ。

さて、サー・ランスロット。誰をキャスティングしますか?

無事帰国!

おかげさまで無事帰国しました。さきに帰国した仲間の中には、行きだけでなく帰りも荷物が出てこなかった方がいるそうです(何もないから新しく買った荷物やおみやげです)。また、別の日本人グループでは、28人全部の荷物が出てこなかったとも聞いています。

あな恐ろしや、ヒースロー空港。

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