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松谷みよ子『つつじのむすめ』を読みなおす

松谷みよ子さんの『つつじのむすめ』(あかね書房/1974年初版)は、山を5つ越したさきの祭りに招かれた娘が、若者と出会い、恋におちるところから始まる。祭りで出会った若者のことを忘れることができなくなった娘は、ある晩、山を越えて若者に会いに行くことを思いつく。それからというもの、娘は毎晩山を越えて若者のもとに出かけてゆく。出かける前に娘は、両手に一握りずつ米を持つ。山を越えるうちにその米はつきたての餅となり、娘と若者は、餅を食べながら愛を語らう夜を過ごすのだった。「さすがに今日は来られないだろう」と思った嵐の夜にさえやってきた娘に、若者は驚き「魔性のもの」ではないかと問う。その日から、若者は娘が恐ろしく、そして、いとわしくなった。とうとう、ある晩、若者は険しい崖で娘を待ち伏せし、谷に突き落としてしまうのだった。そののち、あたりには真っ赤なつつじが咲き乱れるようになったという。長野県上田市に伝わる「つつじの乙女」の伝説を松谷さんが再話したということだ。

丸木俊描く豊満な娘が美しくかつエロティックで、絵本全体に使われているあかね色が、結末の悲劇性をさらに強めて、深く印象に残る絵本である。娘の一途な気持ちが報われず、愛した若者にも嫌われてしまうのは心にしみる。しかし、この娘の恋が成就することなく、若者に殺されてしまう結末は、男の身勝手さを感じ、気になっていた。

ところが『つつじのむすめ』を、『常陸国風土記』(717?)に収録されている「歌垣で出会った少年と少女が松に変身した話」と重ねあわせて読むと、物語はまた新しい様相を帯びてくるのである。『つつじのむすめ』に出てくる若者と娘は「祭り」で出会うのであるが、「祭り」や「歌垣」は、ふだんは別の地域に暮らす男女の出会いの場であり、非日常的空間ということである。そのような場で「出会って恋に落ちるというのは、古代の婚姻形態からするとタブー性を抱えている」(三浦佑之『日本古代文学入門』/幻冬舎)のだそうだ。つまり、「婚姻関係をとり結ぶことは、ひとつの共同体と別の共同体とが緊密な関係を持つことを意味し(中略)通婚圏(交易圏)を異にする女性との婚姻は社会的に許されないこと」(同書)なのだそうだ。『つつじのむすめ』は、古代の「婚姻のタブー」から生まれた物語として読むこともできるだろう。

また、『常陸国風土記』で恋に落ちた二人は、夢中になって語らっていたので夜が明けそうになっているのに気がつかなかった。鶏が時を告げ、犬が鳴き、日の出の時刻となったとき、彼らはどうしていいのか解らず、人に見られるのが恥ずかしくて、松の木になってしまったのである。三浦先生は、この変身について次のように述べている。

神から人への交替の時に[夜と昼の境目の危険な時]、人から松への変身が生じているわけで、境目の時刻が、この物語の発想を支えています。(中略)恋を語らっている男女が夜明けとともに松になってしまうというお話しは、裏をかえせば、もともと明るい太陽の光のもとで存在していたのは二本の松だったのではないかという推測を浮かびあがらせます。(三浦佑之『日本古代文学入門』)

すると、夜な夜な、両方の手に米を握りしめて走りに走る「娘」は、つつじの花の化身だったのではないかとも読める。そうなると『つつじのむすめ』は、人間の男とつつじの精との異類婚を語っているともいえないだろうか。時の経過につれ、古代人の価値観や意識が忘れられ、そぎ落とされ、変化してゆく中で、「つつじの乙女」伝説は、いつの間にか「悲恋物語」として伝わり定着した、そんなふうに私には感じられるのである。
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図書館と図書館員(2)

つっこみどころは満載でも、しかし、いくつかの大事な情報はある。アメリカでは図書館員のほとんどは、白人女性として描かれていて、マイノリティや男性は少ないこと。また、図書館員のイメジは、世話好きで親切、つねに利用者の役に立ちたいと思っている人として書かれている。イメジであるから、現実とのギャップはあるかもしれないだろうが。

笑ってしまうのは、このようによいイメジで図書館員が書かれるのは、「本」を買うのは図書館員だからで(悪口を書いたら、図書館に入れてもらえない? しかし、あまりにもナイーヴなご意見)、また、作家はふつうの人より図書館や図書館員に接することが多く、彼らをよりよく理解できるからだし、図書館員自身がこのような本を書いているからだという。これらは、すべて彼女の意見ではないが、こういったものを紹介するあたり、彼女のスタンスも解る。

通時的に見てくると、仕事の内容はほとんど変化していないが(レファレンス、読書相談、ストーリーテリング、貸出業務、選書、受入業務、目録作成など)、かつては(1945年頃まで)「よい本を利用者にわたす役割を果たしていた」図書館員像が、「利用者が楽しむことができる本を探す手伝いをする」図書館員像に変わってきているという。なるほど。また、仕事の内容は変わらなくても、業務を支えるテクノロジーが大きく変化したので、新しいテクノロジーを使いこなす図書館員像が生まれたという。なるほど。

検証した35冊のうち、タイトルに「図書館」とついている作品でも、「図書館員」について言及しているものはたった4冊だけだという事実から、一般的に利用者に奉仕する人間よりも、図書館にある資料がより重視されているのではないかという認識が示されている。

しかし、『ビーザスといたずらラモーナ』を読むと、ビーザスが自分のよく行く図書館の児童図書館員を心から慕い、信頼しているエピソードが書かれているのだが、残念ながら彼女の検証した35冊には入っていないし、私の絵本コレクションにある図書館を舞台にした作品も一冊として検証されていなかった。

日本の子どもの本のことはあまり詳しくないので、明言はできないが、やはり、アメリカの絵本や物語で図書館や図書館員が出てくるのは、日本に比べて圧倒的に多いように思う。図書館や博物館は、宇宙的な空間と時間を包括しているから、ファンタジーの舞台にもなりやすいだろう。

最近翻訳された『としょかんライオン』に登場する図書館の館長、ミス・メリーウエザーは、この論文で検証された典型的で古典的な図書館員が一ひねりされていて面白い。女性が館長で、男性が「ヒラ」というのは、PCか。

図書館と図書館員(1)

E=ラーニング大学では、今年度から「スクーリング」形式の授業も担当している。全7回(一単位)のうちすでに2回を終了したが、この準備がなかなかたいへんなのである。テキストはあるものの、授業は、テキストを読んだことを前提に構築するので、アイディアをひねり出し、文献を読み、整理し、原稿をつくり、といったことに思いのほか時間がかかっている。基本的には、リアル大学の講義の授業と同じなのであるが、インターネットを通じ各地に散らばっている学生にも配信されるのである。数からいったら、ネットの受講生の方が圧倒的に多い。むしろ、リアル学生は「ゼロ」ということもあるらしい。

学生がいない状態で、授業をするなんてことは、「考えられない」し「ありえない」し、「いや」だったので、何人かの既習者にもぐりをお願いして、何とか今のところは「ゼロ」状態は避けられている。ありがとうございます!

と、前置きが長くなってしまったが、2回目の授業では、「子どもの本に書かれた図書館員」という、つっこみどころ満載の論文を「ネタ」に、図書館や図書館員について話した。これは、The Image and Role of the Librarianという論文集に収録されている"Librarians in Children's Literature: 1909-2000"というものである。

ほぼ100年を網羅しているわりには、検証した本が35冊で、しかも「子どもの文学」といっておきながら、フィクションとノンフィクションをまとめて議論しているし、数多くの対象書籍から選んだ35冊の判断基準も書いていないのである。また、35冊のタイトルを見ると、そのほとんどに「図書館:library」「図書館員:librarian」という語が含まれ、選書のいい加減さもかいま見える。(続く)

また、また『くまのオルソン』

「わしこの英語塾」こと、「英語で民話を語る会」では、6月の「英国ストーリーテリングの旅」を控え、準備にも熱が入ってきた。昨日は、メンバーお二人の課外レッスンということで、「絵姿女房」「指を喰う娘」の英文作りにいそしみ、いちおうの完成を見た。しかし、覚えているのは、楽しいおしゃべりとレッスン後の××でしたね。う・ふ・ふ。『たんげくん』も読んでもらって、とても幸せでした。

ここでも私は『くまのオルソン』を聴いてもらって、疑問をお二人にぶつけた。彼女たちはもう15年以上もさまざまなところで語りをしているベテランなのである。まず、この絵本は、小学校低学年には難しいのではないかということだった。つまり、オルソンの孤独感を理解できるのは、もう少し大きくなってからではないか、ここで書かれているオルソンの孤独感はとても深く、「こぐまがちいさなこえでオルソンをよんだ」という結末では補いきれないのではないか、ということである。ちいさな子どもたちには、もうひと言あってもいいのではないかという意見であった。なるほど、とうなずくものの、すべて疑問が解決されたわけではなかった。ちなみに、英語版では"It wouldn't be a lonely winter at all"とあり、「ひとりぼっち」ではないことが暗示されている。日本語版では、中扉に書かれているオルソンとこぐまが手をとりあって踊っている絵が、裏表紙にもつけ加えられている(英語版、フランス語版にはない)。

原典のフランス語版では、作家や画家が強靱な意志で「オープンエンディング」をねらったとも考える本作りでもあることも確認された(これは、同じ作家の『まっくろひよこ』を読むとよくわかるだろう)。しかし、私は、小さい子どもたちにこそ明確に「幸福の結末」を受けとってほしいと思っているのであるし、ここから「幸福な結末」を読むことが、とても大切だと思ってきた。

その時、ママウィッチさんの「現実的にはぬいぐるみは本物にはならないとわかっていても、そうなって欲しい、と強く思わなければ、本当のこぐまになったと想像できないのだと思います」という意見を拝見して、「ああ!」と、私の中で何かがはじけたように感じた。

この絵本を読む子どもたちには、ぬいぐるみのコグマが「いきたくまのこ」になってほしいと強く願ってもらいたいし、「いきたくまのこになる」ことを信じてほしかったのだと、自分が考えていたことが解ったのだ。

子どもの本には、日常と地続きのまま不思議な出来事がごく自然に起こる展開が多くある。子どもたちはその不思議を、そのまま、あるがまま受けとめ、よろこびを感じる。しかし、その時期は短い。高学年になってしまえば、どこかで「現実を直視」してしまうだろう。不思議をそのままに受けとめることのできる時代にこそ、不思議な物語にひそむ「幸福な結末」をしっかり自分のものとして体験してほしいのだ。そして、数多くの「幸福な結末」は、たくさんの物語体験からつくられるものであり、この経験が、実生活の中で「希望」をつなぐ力を促してゆくのではないかと考えている。

『くまのオルソン』再び

とうとうリアル大学の授業も始まった。今年も、英文科の基礎的な科目である少人数の演習形式の授業を二コマ(一年生、二年生)担当する。学生の英語力のなさを嘆く声も大きく、一年生は、専門性の重視というより、語学力アップをめざすことになっている。というわけで、今年は「英語を英語のままで読めるようになろう」というのを目標に、比較的やさしい物語の多読を予定している。

英文の読み方を説明し、テキストを少し読んだあと、「物語を読む」とはどのようなことかを考えるために、『くまのオルソン』(徳間書店)を読んだ。作品は、おおむね好評だったが、やはり「ものたりない」という声も出てきた。また、むしろ「オープン・エンディング」そのものを評価する声もあった。さらに、小グマの声はオルソンの願望であり、「オルソンの中で本物になったコグマが呼びかけた」「オルソンの孤独に対する心の叫び」「幻聴」などという意見もでてきた。これらの意見は、「読み」としてはレベルが高いのかもしれないし、このような読みも「アリ」なのだとは思うのだが、この作品に、「幸せな結末」を読んだ学生は、思っていたより少なくてびっくりした。なんだか釈然としないのである。なぜだろう。

また、全体的な傾向として、子ども時代に「読書」をたっぷり楽しんだという学生も少なく、「ハウルの動く城」(映像)の作者は好きですが、が、作品を読んだことはありません、なんていう学生もいた。

さてさて、どうなることやら。前途には何が待ち受けているのだろうか。

『Kim』読書会

月に一回、細々とやっているKim読書会。2月は風邪のために休会だったので、二ヶ月ぶりだ。なかなか進まないのでうんざりしてしまうことがあるが、それでも、第5章までやってきた。まさに千里の道も一歩から、という気持ちになる。ここでようやく、1/3だ。

神宮輝夫先生は、「キップリングは小説家・詩人として一時期栄光につつまれ、その後帝国主義者として急速に人気をおとしたが、子どもの文学には不滅の金字塔をうちたてた」(『世界児童文学案内』)と高く評価し、『キム少年』についても子どもの本という認識をされている。また、ローズマリ・サトクリフやスーザン・プライスをはじめ数々の子どもの文学の作家たちが、キプリングを子ども時代に読んで、忘れがたい作家だと評している。しかし、英語は決してやさしくない。二人で「フルヘッヘンド」状態で頭を抱え、「読めた」と思うときの感激はひとしおである。

最近では、『プークが丘の妖精パック』の初訳が出版されたり、Kimも斎藤兆史さんによる新訳が出たりして、再評価が進んでいるようだ。

<本日のメニュウ>
●カマンベールチーズ
●トロとイカの黄身和え
●春キャベツのコトコト煮
●なんちゃって鴨南蛮
●ビール(ブラウマイスター)/白ワイン(シャルドネ種)
●蓬白玉

お得な科目?

E=ラーニング大学の学生が、たびたび私の科目(一単位科目)を称して「お得な科目」というのを耳にしてきた。おそらくその意味は、「一単位の資格科目で授業料も安いけれど、レポートの添削など(しつこいぐらいに)丁寧で、学ぶところがあった」という気持ちを現代的に表現しているのだろうと、善意に受けとめてきた。しかし、違和感をもっていたのも事実である。「得をする」のが学生ならば、どこかで誰かが「損をしている」ということが含蓄されている。損をしているのは、教えている私? ただし、私は「損をしている」という感覚はもったこともないし、一単位だから「この程度でいい」と、教えている科目に線を引いたこともない。なんだかずっと引っかかっていたのが、『下流志向』(内田樹/講談社)、『オレ様化する子どもたち』(諏訪哲二/中公新書)を読んで、どうやらなぜなのかが解ってきた。

そこには、授業を「等価交換」だと考えている人種がいるらしいということである。だから、「一単位」でこんなにつらい目にあうのはあわないと考えた受講生は、とりあえず教師に質問する。「○○作品の××と××の解釈について教えてください」と。当然私は、「そこを考えることこそ自分の学習の出発点であり、さらに作品を読みこんで、自分の解釈を見つけることが、レポートになるのです」とお答えする。すると、彼(ほとんどの場合「彼」である)は、「××××!」とキレるのである。もちろんこのような学生は、ごく少数なのであるが、私にしたら「新種」と思われるこのような学生が、学校の掲示板などをかき回したなどと聞くと、心が痛むのである。

今回は、たくさんの元受講生がフォローしてくれたのだけれども、それも、彼には気に入らなかったらしい。そんなとき出てきたのが「お得な科目」という言葉なのだと思う。つまり、この言葉を発している本人も、心のどこかでは違和感をもっていたに違いないと思うからである。損だの得だの考えていたら、勉強なんてできないし、学ぶことが「損」だと解っていたら誰もわざわざ時間とお金を使って勉強しないだろう。しかし、授業も「等価交換」であると考えている学生には、効果的な言葉だと考えて出てきた言葉に違いない。

また、学ぶ前から「学ぶ意義」や「何を学ぶのか」が解っているのならば、畢竟、学校教育などいらないという議論も出てくるだろう。くだんの学生は「文科省のガイドラインとは違う」と感想を書いてきたが、そこまでよくわかっていて、この大学を選んだのは間違いでしたね、というしかない。

「自分の解釈コード」で作品を読み解き、その過程をレポートに書くという課題は、「楽勝授業」からほど遠いが、その作業で培ったものは必ずあると確信している。だから、私もがんばれるのである。この私の思いや姿勢がどこからか崩れて、「一単位だからこんなもんでいいや」と考えてしまうときがくるのだろうか。

諏訪さんは、両親の子どもへの「愛」と同じように、「教育は贈与である」と書いていらした。

オフ会

E=ラーニング大学のオフ会に参加した。12時開始ということで、途中、そごうの地下で「鶏手羽」「フライドチキン」「おにぎり(10個!)」などを買いこんで、学校まで徒歩で急ぐ。横浜駅から一人でゆくのは(自覚的に歩くのは)、はじめてだったので少し不安になりながら歩く。グリフィンのマークと予備校を見つけて一安心。

参加者は、小学生二人と五ヶ月の赤ちゃんをいれて総勢11名。いろいろな話題が飛びかったが、私は用意していった絵本を読み、いま思っていることを皆さんに聞いていただいた。

経済的豊かさが必ずしも子どもたちを幸せにはしていないこと。子どもでありながら、貨幣を仲立ちとした社会に組みこまれ、その点では「一人前」に扱われることが、問題の根っこの一つにあること。すでにこの点では、「子ども」は、子どもではなくなっていること。などなど(このあたりは、内田樹先生の著作に大いに示唆を受けている)。

また、子どもたちの物語体験の貧しさも気にかかることの一つだ。私たちは、数多くの「幸福な結末」を体験しなければ、それを自らの力にできないのではないだろうか。「幸福な結末」を保証してくれるのは物語なのである。

ところで、絵本を楽しんでいるとき、五ヶ月の赤ちゃんもじっとこちらをむいて、お話しをきいてくれていたのである。物語の内容は理解できなかったかもしれないが、Yくんにも私の言葉がとどいていたのだとうれしく思った。

参加してくださったみなさん、幹事さん、ありがとうございました。

●『みんなおなじでもみんなちがう』(福音館書店)
●『くまのオルソン』(徳間書店)
Flotsam今年度のコルデコット賞受賞作品

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