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アニメ『精霊の守り人』は?

アニメ『精霊の守り人』のBS特番を見た(録画してくれた夫に感謝!)。充実した3時間番組であった。活字作品をアニメにするまでの「メイキング」映像には、それぞれの時点で関わる人たちの熱意や作品への愛がうねり、渦巻いてゆくさまが捉えられ、そのエネルギーで一つのアニメができあがってゆく過程がとてもよかったし、説得力もあった。複数の脚本家が、言葉一つ一つを丁寧に検討してゆく様子も、好感が持てた。実際に採用された台詞は、「バルサだったらこういうだろうな」と感じさせるものだったので、作品に対する期待は大いに高まったのである。

とくに見応えがあったのは、神山健治監督と上橋菜穂子さんの対談だった。ファンタジーを映像化することの危険を十分に承知している神山監督が、なぜ『精霊の守り人』を選択したのか、また、上橋さんがなぜ神山監督ならば、とゴーサインを出したのかなど、さまざまな疑問にも答えるものであった。また、神山作品『Stand Alone Complex』の大ファンであることもふくめて、上橋さんの監督に対する「あこがれ」のようなものが素直に出ているところもかわいかった。

ファンタジーを映像化することへの危惧は、かつて井辻朱美さんが吐露していたものに重なる部分があったが、映像作家としての作品への直感や、見方には耳を傾けるべき発言が多くあった。ただし、番組中に放映された『Stand Alone Complex』第二話については、司会の佐藤××嬢が感銘したほど、私の中には残念ながら響いてこなかった。ビジュアル(映像)人間ではないのだろうか…。

期待が高まりすぎたせいだろうか、放映された第一回目の作品には、正直がっかりだった。バルサをはじめ登場人物の顔や作品の背景に関しては、プロの神山さんの世界をそのまま受けとめたいし、とてもよくできていると思う。屋台の場面の看板には圧倒されてしまった。

ただ、顔がアップになったときのくちびるの動きが、とてもうるさい。ほとんど一音一音くちびるが動いている感じがする。ところが、顔の表情全体は、ほとんどくちびるの動きだけでつくられ(顔全体の動きがなく「のっぺらぼう」みたいなのだ)、まばたきとのバランスも悪いように思われた。つまり、人間の「動作」にリアリティが感じられなかったのである。また、主要登場人物と脇役的人物に統一感がなかったことにも違和感をもった。とくに、二の后の館にいる家来たちとバルサ、二の后の造形に距離を感じた。家来たちがより現実的な造形で、バルサや后には、今風アニメキャラに連なる造形を感じた。リアリティは、現実のミメーシスではつくることはできないと思うのであるが、どうつくれば、リアリティが生まれるのだろう。

課題図書がどんどん映像化されてしまうのは、個人的にはとても困るところだが(課題図書から外れると読まないし、本を売っぱらってしまう学生がいるらしいので)、今後の展開が気になるところでもある。

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祝 『みんなおなじ でも みんなちがう』

このブログでも、何回か触れていると思うが、「かがくのとも」の一冊として2002年に出版された、『みんなおなじ でも みんなちがう』が「かがくのとも傑作集」として単行本化された。

この絵本は、必ず授業でも紹介する「定番」の絵本なのだが、なんといってもペーパーバックだったので、その扱いには神経を使っていた。ブッカーをかけて保護する一方で、他の本と紛れてしまわないように「別置」扱いにもしていたのである。ご丁寧にも裏表紙には「×××」と名前のシールまで貼ってある。とりあえず、複本が手に入ったのでほっと一安心だ。でも、同じはずなのに、微妙に違うと思うのはなぜ? 赤地に白抜きで「かがくのとも」と入っていないからか。2冊並べてみると、傑作集のほうはなんだか間が抜けた感じがする。

以下は、よろこびのあまり「アマゾン」に投稿したレビュー。

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「みんなおなじ、でも、みんなちがう」というメッセージとともに、アサリ、トマト、ひまわりの種、ヤママユガの繭、しょうが、サクランボ、空豆、カタツムリ…の写真がページいっぱいに広がる。同じものでも「こんなに違うんだ」という驚き、こんなに違うのに「同じなんだ」と訴えかけてくるひとつひとつの生物個体の姿。

「同じ」なのに、これほど「違う」のは染色体と遺伝子のなせる技。少しずつ違う「クワガタ」や「にぼし」や「まつたけ」にじっと見入っていると、私たちの精神の深いところから何か名状しがたい思いがわきあがってくる。私たちだって、「みんなおなじ、でも、みんなちがう」んだ。ひとりひとりがそのままでこの世に受け容れてもらえていることのよろこびが実感される。

金子みすずは、「私と小鳥とすず」の異質性を「みんなちがって、それでいい」と突きはなしたようなメッセージで届けたが、この絵本は、私たちの存在をふわっと包んでくれる。

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ほんとに、みすずとの違いがきわだっている。

花×症ではなく…

風邪だった。あのひどい鼻水とくしゃみの正体は風邪だった(帰りの「あずさ」号では通路を隔てた隣の客がひどい勢いで咳をしていた! きっと、××されたに違いない!! ところで、行きの「あずさ」号では、Y名N夫夫妻と席を前後した。彼は、大柄で姿勢のよい人であった)。というわけで体調を崩し、ほとんど外に出ないで、とにかく本を読みあさっていた。こんな時はさすがに英語は読みたくないので日本語ばかり(それでもハーンの短編はいくつか読んだ)。とりあえず、忘れないうちに読書記録だけ。

清水眞砂子さんがお書きになった石井桃子論(『子どもの本の現在』)を読み直した流れで、そのほかの作家論も何度目かの再読。今江祥智の『写楽暗殺』が読み直したくなり、時間をかけて本棚をあさるも見つからず、『大きな魚の食べっぷり』『牧歌』を再読。『牧歌』は、今江風『坊ちゃん』だ。

富安陽子『ぼっこ』『ほこらの神さま』(ともに偕成社)、『菜の子先生がやってきた!』(福音館書店)を読んだ。『ぼっこ』の結末に対する姿勢に甘さを感じるが、ここに登場してくる少年たちのなんと上質なことよ。この作品を読んだのは、『本を読むわたし』(華恵/筑摩書房)に触発されて。

『菜の子先生』楽しい。『ぼっこ』と比べると活字のフォント、大きさ、レイアウト、紙の厚さなど、私は福音館の本作りのほうに好感が持てるが、子どもたちにはどうなんだろう。そういえば、上橋さんの本も活字が大きかったなあ。

石井直人「現代児童文学の条件」など『現代児童文学の可能性』(東京書籍)に収められている論文いくつか、途中で放棄していた『行きて帰りし物語』(斎藤次郎/日本エディタースクール出版部)、『世界図絵』(コメニウス/平凡社)など授業の仕込み本も。『世界図絵』に寄せられた高山宏の解説が、「超悪文」であることを発見! 高山でなければ、誰にも読んでもらえないだろう。何かの折には、これを「悪文」として紹介しようとひそかに決意する。××だから許されるという「名文」の書き手は確かにいる。OKもそうだよね。思考の流れを文章にしているのだろうが、凡人にはついて行けません。

「山梨のワイン」は

「山梨のワイン」は、葡萄ジュースのような味わいだった。宿では、「無添加 生赤ワイン」をいただいたが、葡萄のさわやかな甘さを感じた。こくこく飲めてしまい、あとが怖わーいワインである。白ワインも、甘いワインを飲んだとき最後に感じる苦み(タンニン?)もなく、すいすい飲めてしまうのである。やばい!

山梨の人は、コップで一升瓶からワインを頂くらしい。また、ワインの消費量は、東京を凌いで日本一であるという。「飲み過ぎるとつらい」とは地元の人の弁。たしかに。

春のような陽ざしと暖かさの甲府であったが、山はまだ冬枯れで、さびしい色合いだった。

一本の太い葡萄の枝を、一面に張りめぐらせている葡萄畑は壮観だった。山が緑に燃え、葡萄の葉が色づく季節にいってみたい。

もしや、花×症か!

数日前から、くしゃみがひどく、鼻がずるずるしている。「もしや、花×症か」とおそれを抱いている。「花×症」だと声に出して、文字に書いてしまうと本当になりそうなので、ことばの力に絡めとられないように、人にも言わず、文字にも書かないでいる。

ここまで生きてきて、「花×症」なんて困る。何とか過ぎ去ってくれと、身をちぢめて生活している。とはいうものの、今日は、披露宴出席の夫について、山梨まで行き、一泊してきます。披露宴会場は、なんと「ワイナリー」だそう。おっしゃれー! 私もワイナリー見学してこようっと。

G大にゆく途中で「かいじ号」の通過を見て以来、一度は乗りたいと思っていた「かいじ号」なのだが、今日は、時間があわず「あずさ号」で行ってきます。

石井桃子『幼ものがたり』を読む

いままで『幼ものがたり』を一気に通読したことがなかった。いくつか短い回想を読んでいるうちに、私の精神は、石井さんの子ども時代を離れて、自分の幼い時代のことを彷徨い、忘れられた記憶の断片を思いだすのがつねだったからだ。そうして、なんだか切ないような、悲しいような、そして寂しい思いとともに本は閉じられたのである。そして、また忘れた頃に『幼ものがたり』を手に取るのだった。しかも、いままで読んでいたのは、福音館版(日曜日文庫)だったのだが、今回は『石井桃子集4』(岩波書店)で読んだ。なんとそこには清水眞砂子さんの解説がついていた!

一気に読んだといっても、やはり私の精神は、どこか遠くに彷徨い出てしまい、時には、なかなかここ(『幼ものがたり』)に戻ってくることが難しかった。畑や田んぼに囲まれたおばあちゃんちで過ごした幾たびかの休暇についてのことや子ども時代の悲しみが、きれぎれに押しよせてきたのである。

清水さんも「誰の回想記かなどはどうでもよくなって、気がつくと、いつの間にか自分の幼年の日々にひき戻されている」(「解説」p262)とお書きになっているが、まさにその通りだったのである。しかも、こんなふうに、自分の幼年時代にひき戻されるのは、70年代後半に生まれた人たちにも共通しているのだそうだ。

かつて、櫻井先生のストーリー・テリングの講座で、「回想」というレッスンをやったことがある。あのときは、私はなぜが自分の幼い時代を回想することが嫌で、頭で思いだした話をしたように思う。しかし、石井さんの著作は、もっと「魂」の深みに入ってくる感覚がある。

おばあちゃんちの畑の一角の小さな坂を、妹が何回も何回もぶつかるように私に飛びつき、そのたびごとに彼女をしっかり抱きとめたときの感覚。ちょっとした遊びに見せかけて、母のいない寂しさを、二人でわかちあったのだろうか。思いうかべるたびに、涙であふれそうになる。

しあわせだったのか、悲しかったのかわからないが、いま私は、あふれかえる幼い頃の思いでに満たされている。

石井桃子『幻の朱い実』を読む

石井桃子さんの『幻の朱い実』(岩波書店)を読んだ。たぶん、3度目か4度目である。再読したのは、マーシャ(マーシャ・ブラウンさん)が1994年5月に来日したすぐあとのことである。この作品は、94年3月に出版されているから、私は出版後すぐ読んでいることになる。

『幻の朱い実』の再読についてはっきりした記憶があるのは、「モモコの新しい小説」として、マーシャの講演につきそって2週間ほど各地をめぐったときに話題に出たからだ。マーシャは、石井さんの「私小説」らしいが、どうなのだという質問を私にしてきたことをよく覚えている。「私」的な部分はもちろん私にわかるはずもなく、ただ、あの世にある幼稚園で『プー横丁にたった家』を読んであげたい友人のことが出てくることだけは、何かで知っていた。

石井さんらしき人物「明子」にも、結核で夭折する「蕗子」にも共感しつつ、あの時代と現代とのあまりの「違い」にびっくりしたこと、明子と節夫の夫婦関係に対して、一方的に節夫に怒りを感じていたことが記憶のなかから鮮明に蘇ってきた。そのへんの思いは、あまりいまも変わっていなかったが、今回は、明子の孤独感が身にしみたし、彼女が老齢といわれる歳になって、もう一度友人と蕗子の最後の時をたどり直すことの意味が迫ってきた。

『図書』のなかで、今江さんのひと言に触発されて読んだ『幻の朱い実』だったが、「老い」を生きることが切なく、辛く身にしみるようになったのは、私も確実に年齢を重ねている証拠のようだ。

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